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 岩手県盛岡市みたけ。そこの住宅街の中央部に建てられた小学校と隣接するような配置で、岩手県営スケート場は1972年(昭和47年)に建築された。400mの屋外スピードリンクを有する県内唯一の施設となっており、インターハイや国民体育大会など、全国規模の競技会大会が催されているとても大きな施設である。


 また、近く北西を見渡せば『岩手山いわてさん』という県で一番高い火山がそびえており、『岩手富士ふじ』という別名を持つその山の上肌は、雪のグラデーションが美しくまぶされている。駐車場に停まった車から降りて僅かに見えるその山を少し堪能していると、「施設内からでも一応見えるから早く行くよ」と鈴憧に催促され、霖は歩道を歩き始めた。


 施設内に足を踏み入れると、鈴憧は窓口に設置された券売機にお金を入れ、慣れた手つきでピッと中央部分の滑走利用券のボタンを押す。霖は父親に手のひらを差し出し、私も同じの買いたい、と金銭を強請ねだった。


「え、霖も滑るの?」


 鈴憧は驚いたような反応を見せた。「見学だけじゃなかったの?」と続けて言うと、霖は「体験見学だよ」と千円札をひらひら揺すって上機嫌にはにかむ。大丈夫なんですか? そんな視線を霖の父親に向けると、少し心配そうにしてはいたが、「俺が見てるから大丈夫さ」と返ってきた。


「ねえ鈴、これ買えばいいの?」


 こういった施設が初めてだったので、霖はとりあえず彼女が購入した券と同じボタンを押す。


「シューズ持ってないでしょ。ニ八〇円の貸靴券も押さないと」

「あーそっか、ほいっ!」


 ピッという音と共に、緑色の券が取出口にカサリと落ちる。滑走利用券と貸靴券の二枚を胸元で広げて見せ、霖は鈴憧に向かってにこやかな口角を作った。


「そんなに嬉しいんだ」

「うん! ちょー嬉しい!」


 その表情を見つめながら、鈴憧もクスリと微笑む。その幼い横顔が今度は父親に向かって「買えば?」と勧誘し、父親は仕方なくというように嫌々文句を垂らしながら一般用のそれを買っていた。


 スケート靴は一般の運動靴に比べると側面や底が硬い素材で作られているため、初めての人は窮屈に感じることが多い。しかし、かといって大きなサイズのものを選んでしまうと、靴擦れや足首に違和感を覚え、上手く滑れない原因になってしまう。そのためしっかりと自分に合ったサイズのものを選ぶ、というのが、霖に最初に課せられた使命だった。

 霖はいくつか職員に持って来てもらったサイズのものを履き比べながら、ちょっとキツイかも、これはピッタリすぎて痛い、わあ〜ブカブカだあ〜、など感想を靴に吐き漏らしながら、段差に片足を置いたように左右非対称の直立姿勢を繰り返していた。


「ねえ鈴、選び方のコツとかないの?」


 不恰好な姿勢で教えを乞う霖の横に、鈴憧は買ったばかりのミネラルウォーターを飲みながら近寄る。


「履いた時、爪先の間が一センチくらいゆとりのあるやつが良いよ」

「一センチくらいって、どのくらい?」

「んーっと、だいたい親指を横向きに当てたときくらいかな」


 言われて霖は靴の先端を自身の親指で押し込んだ。これはまだちょっと大きいかな? そう思い、「確認して」と右足を彼女に突き出す。


「うん、このくらいで大丈夫だと思う。靴下も厚みがあるわけじゃないし、靴擦れの心配もなさそう」

「靴下に厚みがあるとダメなの? 足先冷えたりしない?」

「厚い靴下だとフィット感が全然違うの。それこそ靴擦れでマメ出来ちゃうし。それに、足先は多少冷えるものだよ。氷の上なんだから」

「あー、確かに」

「とりあえずその靴の紐、いったん爪先まで全部緩めておいて。あっちに青いベンチが置かれてる部屋があるから、そこで履くの手伝ってあげる」

「うん、分かった!」


 貸靴窓口で見事選ばれたサイズの靴を、霖は大事そうに抱え込む。鈴憧は係りの男性に利用券のみ提示した。窓口で何やら親しそうに会話をしていたので、霖は彼女がここの常連客であることを察した。


「良かった。今日はこの時間、ほとんどお客さん入ってないらしい。おじさんのおかげでだいぶ早く着いたから、二時間くらいは滑れそう」


 施設内に設置された時計を見ると、その針は十五時四十分を指し示している。中央に青いベンチが背中合わせで置かれている部屋に入り、鈴憧は右側のベンチに座ってリュックからシルク素材の黒い巾着袋を取り出した。口紐をするりと緩めた巾着袋の中身には、カーボン素材で出来ている藍色のクールなスケート靴。サイド部分に二本の赤白ストライプが引かれており、底の刃の部分はふわふわとしたスポンジ入りのお手製と思われる緩衝材かんしょうざいで守られている。その緩衝材を取るとまた、刃の形に沿ってプラスチック製のカバーが装着されていた。霖の借りたそれとは違い、靴はくるぶしまでと短く、その刃は長くて若干薄い。


「オーダーメイド?」


 隣に座って尋ねると、鈴憧は「ううん」と首を振りながら地べたに腰を下ろし始めた。


「市販品だよ。一つ目のカバー以外は」

「でも、私のとなんか違う」

「それってブレードのこと? これは、種目によって長さが違うんだよ」

「ブレード? 種目?」


 眉間に皺を寄せて困り顔をする霖に、鈴憧は長座体前屈をしながら答えた。


「ブレードって言うのは刀身部分のこと。刃の部分はエッジって言うの」

「ブレードと……エッジ?」

「そ。んで、種目って言うのはさっきここ来る途中で施設案内にも書いてあったと思うけど、ホッケーとかフィギュアとかスピードとか。他にもいろんな種類の競技があるの、スケートって。ちなみに霖のはフィギュア用の靴だけど、一般靴だから選手用とは違うやつ」

「へえ〜。じゃあその、鈴が持ってるフィギュア用の靴は、ブレードが違うタイプのものなんだね。フィギュアにも種類があるなんて知らなかったよお〜」

「え……、違うけど」

「ん? だって港で言ってたじゃん。飛んだり跳ねたり回ったりって」

「それ、私が言ったんじゃない。そっちが言った台詞」


 今度は開脚前屈。横一線にピシャリと伸びた長い脚。指先からへその下までが、ピッタリと床に張り付く。「すっご……」思わず霖は口元を手で隠し、同じように地べたに尻をつけてみた。反対側の隅っこでは、真似た父も脚を広げて息を吐いている。どうも腹がつっかえて、見苦しい熊のぬいぐるみのようななりではあったが。


「じゃあさ、鈴の種目ってなんなの? ホッケーって競技?」

「ううん、私はスピードスケート」

「速く回転するの? ビヤァーーーって」

「回転というより周回だね。陸上みたいに、規定の距離だけリンクを滑走するの」

「飛ばないの? 走ってる最中」

「ハードルでも用意されれば飛ぶだろうけど、まあ普通は飛ばないね」


 ふふ、と含み笑いを浮かべて答える。

 再びベンチに座った彼女を見て、霖は自身の足の親指を触れないまま、その目標をすんなり諦めて立ち上がった。そうして怪我防止のために無料で貸し出されていた帽子、手袋、肘当て、膝当てを順番に取り付けていき、先ほど爪先まで緩めた靴を幼稚園児のように全ゆだねで彼女に突き出す。踵を立ててベロを引っ張るだけの簡単な動作を霖は任され、それ以外のことは、文句も言わず手際よく彼女がやってのけてくれた。最後に力強く紐を引っ張られて一瞬窮屈だったが、結んだ後に「これでよし」とタッチされた足の感覚が、ひどく新鮮で気持ち良かった。


「ね、じゃあさじゃあさ、跳ねるくらいはしても良いとか? 音楽かけたり」

「なんでそんなに私を踊らせたいの。スピードを競う競技なんだってば」

「だってだって、でっかい氷だよ? 壊れないんだよ? 飛ぶでしょ普通」

「知らないよ。じゃあ霖が飛んだり跳ねたり回ったりしとけば? 出来るならね」

「いやいや出来るでしょそのくらい。三回転倒ル〜プ。って」

「転んだら減点だよ。三回転倒を繰り返すのも論外」

「ええー。飛ばないよりは勇気ポイント加算されると思うけど……。ねえ、ほんとに鈴はただ滑るだけなの?」


 靴下を脱ぎ、素足のままスケート靴に履き替えた鈴憧は、チャックと甲のベルトを締めて立ち上がる。エッジカバーを外さずに歩いているのは、刃が欠けたりするのを防ぐためだ。リンクへ上がる瞬間に、多くの選手はカバーを取る。


「そ。目一杯に走るだけ」


 リンクとアスファルトの境目には塀や柵などの敷居はなく、ただ一センチほどの段差が設けられているだけだった。リンク内の中央には雪が積もっており、その周りを囲うように艶めく氷が道を作っている。


「ええ〜。地味ぃ〜……」


 しゃがんでそのツルツルとした表面を撫でながら、競技内へ上がった彼女に向かって中傷する。鼻先を赤く染めるような冷たい氷の上では、反射した日差しがきらきらと輝いていた。それはまるで水平線から顔を出す瞬間の太陽みたいで、彼女が立つ氷の上は、今朝見た越喜来おきらい湾のように美しかった。


「地味で結構。私はここが、大好きだから──」


 そうして彼女は颯爽と滑り始める。氷の上に、虹色の跡を残しながら。

 その足跡が、誰もいないリンクの上で楽しそうに音を弾ませている。真っ白な景色。少し霞んだ吐息……。頭に置いていた紫色のサングラスをさっと下ろした彼女の後ろ姿は格好良くて、とてもじゃないけど、新しい悪口は思い浮かばなかった。


 綺麗だ、とただただ思った。その、屈託なく放たれた勇ましい言葉が、自分の心をあまりにも容易く奪って行ったから。きっとあのまま東京にいたら、今の言葉は聞けなかった。真っ白で不純物もよどみもない、知っていたのに知らなかった言葉。自分にもあるのだろうか。私のなかにも、同じ言葉はあるのだろうか……。


「お父さんお父さんッ、私も滑るッ!」

「お、おお。そう、だなっ。行こうっ」


 霖同様、一瞬にしてその蠱惑こわく的な鈴憧の姿に魅せられてしまった父親は、娘に催促されてやっと呼吸をすることができた。息をするのも瞬きさえも忘れていた。スケートは幼い頃から身近に存在していたし、生で見たことも何度だってある。だが、こんなことは、今まで一度もなかったことだ。

 ふらふらと、あるいはぐらぐらと二人は真っ白な海に上陸する。互いに強く手を握り、おぼれないようゆっくりと。


「ゆゆゆゆ、ゆっくりな、霖っ。けけ、怪我だけはするなっ」

「わわ、分かってるよそんなことっ。絶対ジャンプするんだもんっ」


 イメージしていた足の運びなどできるはずもなく、二人は「うわっ!」と盛大に声をあげて同時に尻餅をつく。ひんやりとした感覚が尾骶骨びていこつに広がっていく。想像以上に冷たくて、堅牢なその海面は、遠くのほうから彼女の笑い声を高らかに響かせていた。


「わ、笑うなあーッ! すぐに取っちめてやるんだからなあーッ!」


 生まれたての子鹿の要領で態勢を整え直す。大丈夫。もう一度。言い聞かせ、慣らすように一周して戻ってきた彼女の元へと手を伸ばす。


「どお? 飛べそう?」

「ちょ、ちょっと黙っててっ! いま三回転トルーパーのイメージ膨らませてるから!」

「あ、歩兵になった。それも回転型の新種……」


 ぼそりと囁き、その場に屈んだ鈴憧はよちよち歩きの子鹿を手を叩きながら面白おかしく誘導する。その一定のリズムで叩かれた音は、早々に諦めてリンクを降りた霖の父親の隣に、見知らぬ男性を招き入れていた。


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