(3)





 家に到着して霖を荷台からリビングのソファに寝かせると、父親は予備のガソリンを片手に草臥くたびれたガレージへと向かって行った。五分も掛からないから家の中でテキトーにしててね。何かあったら駆け付けるからすぐ呼んで。と気配りされ、鈴憧は霖の側に腰を下ろす。「頭痛用だ」と言われて飲んだ薬のお陰か汗は引き、霖の額には水分を含んで束になった前髪が張り付いていた。その幼くて柔らかな寝顔に、自分と霖が同い年であるということを疑いたくなるほどの印象を抱かされた。中一と言われても分からなかっただろうな、と思った。

 普段は口数の少ない鈴憧だが、今日は久しぶりに楽しい。スケート以外でこんな気持ちになったのは、随分と久しぶりな気がしている。


「久季、霖……」


 会ったばかりの同級生の名前。それを静かに呟いてみたら口角の上がる自分がいて、それがとても可笑しかった。


「何……? なんで笑うの……?」

「笑ってない」

「笑ったよね、私のフルネーム言ってさ。変わった名前って言ったの、あれもしかして悪い意味でだった?」

「そんなんじゃないよ。ただ、イビキが面白かっただけ」

「そーなの……? 私、イビキかいてたのか……」

「象かと思った」

「それは流石に……、まじ?」

「ふふ、どうだろうね。てか、起きてたなら早く言ってよ」

「ごめん、ちょっと薄目で観察してた」


 霖はゆっくりと起き上がり、手元に置かれていた冷えたタオルを首の付け根に押し当てる。身体は重くて息もまだ少し苦しかったが、慣れているのでそれ以上の考えは巡らせなかった。何よりも、彼女の心配した眼差しを早く晴したかった。


「ねえ、本当に大丈夫? 顔色悪いよ」

「うん、ちょー平気。ただの立ちくらみ上位版みたいなものだから。久しぶりに階段ダッシュしたら、脂汗と冷や汗が交互に出てきてびっくりしたよ」

「なにそれ。器用な汗腺かんせんしてるんだね」

「えへへ、ま〜ねえ……」


 褒めてはいない。にべもなくそう言われ、霖はタオルを鈴憧のうなじにぺたりと付ける。ひやっ。反り立つ彼女は振り返り、それを丸めて腹に見舞った。


「おーい鈴ちゃーん。車出せるから出発しよーかー」

「あ、はーい」


 彼女が玄関に向かって歩き出すと、霖も立ち上がって後を追う。寝てた方が良いんじゃない? そう言われたが、霖は首を横に振った。父親が神妙な顔でそれを制す。


「やっぱりお前は寝てなさい。明日にもその体調が響いたら嫌だろ」

「やだ行く。もう治ったもん」

「私もやめといたほうが良いと思うよ? まだ少しフラついてるんだし」

「う〜ん……」


 言われながらも靴べらをかかとに当てがう霖に、父親は目線を下げて問い掛けた。


「なあ霖、なんでそんなに行きたいんだ。スケートそんなに興味あったか?」

「だって……生で見てみたいんだもん。……私の知らない世界」

「また今度じゃダメか? ほら、次の休みの日とか」


 手を叩いて提案した父親に対し、鈴憧も「そのほうが良いよ」と自身の腰に手を回す。


「通年開場してる施設が同じ盛岡市にあるから、今日じゃなくたってすぐ行ける。だからまた今度行こ、ね?」

「……」


 焦燥しょうそうと言うべきか、悔しさと言うべきか、霖が履き揃えた赤いスニーカの踵部分は片方だけを踏み潰して、まるで空しさだけが腰を下ろしているみたいに、そっと玄関の段差に手を付いていた。


「うん……分かった……」





 父親と鈴憧はワゴンに乗り込み、シートベルトを脇に通す。彼女の「お願いします」と言った会釈に並んでカチリと留め具の音が止めば、父親は鍵を回して嘆息した。


「ごめんね鈴ちゃん、余計な心配かけちゃって」

「い、いえ、そんなことは」

「娘はおっちょこちょいな性格だから、自分に体力ないこと忘れてたんだよきっと」

「でも、霖さんの気持ち、分からなくもないですよ。私も知らない世界で惹かれるものがあったら、きっと同じように食い下がらなかったと思いますから」

「そう言ってもらえると、おじさん気が楽だよ」

「いえ、そんなつもりで言ったわけでは、」


 そう、これは本心だ。まぎれもなく。ただ少し違っていたのは、本当に霖はただの立ち眩みだったのか、という事実確認を怠る自分を無理に肯定していることだった。心配したことについては人なら当たり前の配慮で、事実確認をしないのは、霖の父親が「大丈夫」と言っているので赤の他人にはそれ以上でもそれ以下でもないと思ったから。下手に割って入っても良いことなんて一つもない。傍観を気取って当たり障りなく接していた方が誰も傷つかなくて済む。例えそれが、家族だったとしても、だ。


 脳裏に蘇った親戚同士の集まり。鈴憧はその塊を排除するように、頭の中を黒く塗り潰す。私は間違ってなんかない。そう必死に自分へ言い聞かせながら。

 砂利の上でゆっくりと回り始めたタイヤが眩しい日差しをボンネットに反射させる。その不意にかすめてきた輝きから視線を逸らすと、桃色の水筒を首から提げて近付いて来る、中学生みたいな女の子がいることに気付いた。


「え、霖?」


 どうやら諦められなかったらしい。車の正面に駆け付けて、父親に向かい二つの握り拳を作っている。この元気な二の腕を見よ、と言わんばかりにフンと鼻を動かしながら、連れてけ連れてけと嘆願しているようだった。 オレンジ色のブラウスの袖は雑に巻き上げられ、白く露わな力こぶが頼りなく日差しに向かって欠伸あくびをしている。父親は眉間を中指で掻きながら、はあ〜、と不満そうな音を漏らした。


「ごめん鈴ちゃん、やっぱり娘も、良いかな……?」


 根負けしたようなその問い掛けに、鈴憧はややたじろぎながらも「はい」と答える。ドアの鍵が空いて彼女が後部座席に背中を預けると、鈴憧は半身をとって口を開いた。遅い、と。


「ごめんごめん、水筒にストラップ付けるの手こずっちゃって」

「付けなければ良かったじゃん」

「え、そんなことしたら無くしたとき大変じゃん」

「リュックに入れて持ち運ぶ、とか」

「どのダンボールに入ってるか分からないもん」

「ナガメ②に入ってるぞ」


 そう言いながら車を走らせる父親に、霖は真ん中からひょこりと顔を出して唇を尖らせた。


「②だけじゃなくて私のダンボールは全部一番下の四段目にあったんだけど。平置きすれば良いのになんで重ねて隅に置いたの。自分のばっか上にして」

「年功序列だ。ダンボールくらい父さんが優位に立ったって良いだろう」

「そんなんで優越感に浸ろうとするからみんなに愛想尽かされるんだよ」

「小さな優越感で悪かったな。お前には俺の気持ちなんて分かるまい」

「分かりたいとは思わないからね。でも、とりあえず幸せのベクトルを五十キロまで上げてみたら!」


 その発言に鈴憧は思わず現在速度を確認した。ハンドルを右に切った瞬間のおじさんの脇から見えたその針は、二十キロすら指していない。さっきも思っていたことだが、遅いと感じていたのはやはり気のせいではなかったらしい……。


「あ、あの……十三キロ……」


 指を差し、おじさんに向かって小声で告げる。おじさんはにこやかは表情を見せながら、安全運転バッチリだ、とルンルン肩を動かした。その肩の動きを粉砕するように、霖が頭をひっぱたく。


「盛岡みたけまで二時間かかるんでしょ! これじゃあ明日になっても着かないじゃん!」

「鈴ちゃんの命を預かってるんだっ。さっきのようにはいかんぞっ」


 さっき? 鈴憧はややいぶかしみ、その首を傾ける。安全運転してくれるのは有り難いが、流石にこれは遅すぎる。


「あのぉ、私の命は気にしなくても良いので、もう少しだけスピード出していただけないでしょうか……。それに、この速度だと後続車のご迷惑になるかと……」


 正論は、後ろ側でピッタリと走行している運転手の、不快そうにハンドルを叩く姿を捉えていた。その男性の指先が、鈴憧に向かって「早く行け!」という指差し呼称を披露している。


「お願いしますおじさん。この速度は、流石に恥ずかしいです……」

「う、ん〜ん……」


 渋々、と言った具合に速度が徐々に上がっていく。心の中で安堵して、鈴憧はリュックのサイドポケットからスマートフォンを取り出した。


「あの、少し電話をしても良いですか? スケート場に」

「あ、ああ、別に構わないよ。予約の電話?」

「いえ、予約とかではないんですけど、電車で向かうつもりだったので十八時頃に行くとだけお伝えしてたんです。でも、だいぶ早めに着きそうなので訂正しておこうと思いまして」

「そっか。鈴ちゃんはほんとしっかりしてるんだなあ〜」

「い、いえっ」


 許可が下りると、鈴憧は通話履歴のトップにある『岩手県営スケート場』をタップした。別に一報を入れる必要はないのだが、鈴憧の性格上、そういうわけにもいかなかった。

 霖は電話のやりとりをぼんやり聞きながら、長いトンネルを抜けた先、吉浜高架橋よしはまこうかばしの車窓風景を眺めていた。伸びた薄雲が青々とした空を流れ、色々な種類の緑の山が微風に撫でられおごそかに豊艶を映し出している。照りつける太陽の日差しはおおらかで、その山間にひらかれた民家と田畑が美しい。東京では見ることのできない清んだ景色に、触れることのできない少し肌寒くて心地良い空気。何もないと言われればそれまでだが、この趣は、そうはない。右手に見える隠れそうなほど小さな海の一部分も、霖の瞳には、しっかりとさざなみてて焼き付いていた。


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