(2)





 時刻は十二時三十分。昼過ぎには帰って来いと言われていたため、霖は帰路について髪をなびかせていた。その傍らには、恋し浜駅へと向かう鈴憧の姿もあった。


「またどこか出かけるの? さっき魚釣りから帰って来たばっかりなのに」


 後ろ手を組みながら尋ねると、鈴憧は「今から出かけるとこだったの」と答える。


「それに、魚釣りの道具じゃないってさっき言ったでしょ」

「そーだったっけ」


 霖は振り返り、あっけらかんと後ろ歩きをしたまま鈴憧を見た。着飾っているわけではない。ただのどこにでもありそうな安価な服装。それなのに、彼女はとても絵になる容姿をしている。同級生だなんて、自分は本当は騙されているのではないか。そうした疑いの目もしばしばで、何度か彼女に不審がられた。


「じゃあ今からどこに行くの? そんな荷物背負って」

「みたけ。今年は今日まで開場されてるからさ」

「開場って、何が?」

「スケート場」

「──っ!」


 霖は三度驚いた。スケートというフレーズを耳にした途端、自分が本当に北に位置する地域にいるのだと再認識したからだ。感慨深い新鮮さにつられて出てきた唾を呑み込み、みはった瞳で彼女の手を握る。両腕を上下に行き来させながら、感極まって声を荒げた。


「すっごいすっごい! 鈴ってスケート選手なんだ!」

「え、あの、ちょっと痛い」

「飛んだり跳ねたり回ったり、こう、ブワッて感じで何回転もするんでしょ!」

「いや、それは違──」

「かっこいいなあ! 私フィギュアスケートなんてテレビでしか見たことないよ! ねえ、絶対邪魔はしないから私も付いてって良い? お願い!」


 二度あることは三度以上。それが、反面教師である父親から学んだ唯一の教訓。きっと彼女に付いていけば、もっと楽しい興奮で満たされるかもしれない。そう思い、呆気に取られた鈴憧のことなどなんのその、霖は見えてきた自分の家へと歩みを早め、「ちょっと待ってて!」と彼女を置いて消えて行った。





 縁側からリビングに駆け上がると、疲れ切った父親が換気扇下でタバコを吹かして肥えたリンゴをかじっていた。ドタバタと近付いて来た娘に着けたばかりのタバコを消され、男はリンゴをまた齧る。


「ど、どうした、そんな慌ててっ」

「お父さん! 私いまから旅に出るッ!」

「ぶッ──!」


 甘い果汁がコンロに飛び散った。口元に垂れ下がるそれを男はゴシゴシと拭い取る。

 突然娘が家出を申し出た。何故だ。やっぱり俺とは、暮らしたくなかったのだろうか……。


「おおお、落ち着け霖。いったん話をしよう。どうして急に? あーいや、急でもないか。えーっと……、父さんとじゃやっぱりその、ダメ、だったか?」


 徐々に鼻息を荒げ、仁王立ちした娘の拳が強く固まっていく。ぶるぶると小刻みに震え出し、父親を睨み付けている。まるで蛇に睨まれた蛙……いや、栗鼠りすに睨まれた気弱な熊、だろうか。好鼠こうそなおも熊を噛む。良いしれぬ身の毛のよだちが、食いかけのリンゴを差し出すように娘へと捧げられた。


「今はリンゴいらない! ってか食べかけ出し……。ねえお父さん、電車賃ちょーだい」

「い、いくらでがんすかっ」

「んーと、分からないけど一〇〇〇円くらい? あ、往復考えたら二〇〇〇円。私のお年玉貯金で返すから」


 往復。その言葉にホッとしたのか、父親はドッと肩を深く落とし、汚れたコンロを拭き始めた。


「どこに行くんだ? 今日じゃないとダメなのか」

「みたけってとこ。スケート場が今日まで開場してるんだって」

「みた──、ゴホゴホッ。お前それ、盛岡もりおかのか。電車だと三時間以上かかるんだぞ。下手すりゃ便がなくて五、六時間。……行きたくなった意味が分からない」

「わ、めっちゃ遠いじゃん盛岡みたけ。二〇〇〇円で足りるかな……?」


 霖の見上げた天井にはまた、うっすらと蜜の艶めきがぶら下がっていた。それをじっと見つめながら、人差し指と人差し指を胸元でツンツン叩いて思案する。明日は入学式。疲れ果てて式の最中ずっと爆睡状態かもしれない。それはまずい。新学期は最初が肝要。生まれたばかりのトキメキに身を委ねるか、先生に目をつけられるか……。反芻はんすうしたら、余裕で前者を選んでいた。


「ま、なるようになるでしょ!」

「お前な……」


 たかだかいっときの、考えなしな愚考なのかもしれない。でも、それでも間近で観てみたい。彼女が滑る、氷の上を。


「──あのー、お邪魔しまーす。霖ー?」


 ぼーっと思案に耽っていると、玄関から彼女の声が聞こえてきた。ハッとなり、霖は急いでそちらにおもむく。


「あ、ごめん鈴! すっかり待たせてること忘れてた」

「うん、それは別に良いんだけど、時間かかるならもう一人で行って良い? 電車の時間迫ってるし」

「あ、うん。あとちょっとだけ待って。旅の準備してくるから」

「旅? なんで」

「だって遠いから」

「旅は言い過ぎでしょ」

「備えあればうり実る、だっけ」

うれい、ね。患いなし」

「そーそーそれそれ! あはは」


 娘が誰かと親しみを持って会話している。気になって身を晒した玄関には、気さくに笑う霖と、見知らぬ女の子が佇んでいた。


「あ、こんにちは。急なお訪ねで失礼します、仲崎浜に住んでいる鹿住鈴憧と申します」


 深々と丁寧に、鈴憧は頭を下げて挨拶をした。それにならうように自己紹介を済ませ、父親は娘の奇行の真意を探る。


「──なるほど、そういうことでしたか。いや〜いきなり初日から盛岡に行くだなんて言い出したので、娘は気でも狂ったのかと思いました。空港から盛岡を走ってる時は何も言わなかったので」

「ああ、はい……」


 屈託なく笑う男の顔は、さっき見た霖の笑顔に随分と似ている。「誰の気が狂ってるだと? この甲斐性なし」「なんでもないでがんす」気兼ねなく相手を罵倒する親子。そんな二人に心が開かれていくみたいで、無性に懐かしさが込み上げて来た。

 そうこうしているうちに、手首に巻いていた腕時計がピピッとアラーム音を響かせた。鈴憧は慌てたように音を停止させる。


「やっば、電車もうすぐ来ちゃう。霖ごめん、今日はちょっと諦めて」

「えあっ、ごめんめちゃくちゃ邪魔しちゃったね私っ。電車間に合う?」

「私で会話を終わらせればね。ほんと急がなきゃだから、また明日入学式で」


 そう言って、彼女が父に頭を下げて走って行く。ばいばい、と手を振った視線の先には、外へ飛び出した彼女の後ろ姿がきらきらとはためいていた。


「そんなに行きたいのか、スケート場」


 娘の寂しげな横顔が、睫毛まつげを弾いて俯いた。うん、と力無く漏れ出た声に、男は我が子の背中をはたと叩く。仕方がない、父さんが送ってってやるか。


「え?」


 腕組みしながら頷く父親。その平たく露出した太い二の腕を、霖は強く掴んで飛び跳ねた。


「な、霖、痛いでがんす。離し──」

「たまには粋が良いもんだね! お父さんサイッコー!」

「あの、結構真面目に痛いでがんすよ……」


 二人はオンボロトラックに乗車して、駅への坂道を走り出した。彼女が駆け出してまだ三分も経っていないというのに、その姿は一向に現れない。


「お父さん、鈴が電車乗っちゃうよ! もっとスピード出せないの!」

「む、無理でがんすよそんな危ない運転。い、いやあ〜それにしても鈴ちゃんは足が速いなあ〜、全然姿が見えてこない」

「呑気なんだよお父さんは生まれてから! 二十キロも出してないじゃん!」


 ハンドルをがっちり抱え込むように握る父親の脇から見える速度メーターの針は、恐ろしく左へ傾いている。いくらオンボロな軽トラックとはいえ、労わっているというレベルではない。下手をすれば、降りて走った方が早いのでは? イライラとしたストレスを募らせながら、霖は父親の耳たぶを引っ張った。痛いでがんす。その、一定の条件下でのみ吐き出される方言は、離婚をした今もなお健在だった。


「スピード出さないとお母さんとこ行くからね私! それでも良いの!」

「はっふ、はふはふっ。い、嫌でがんすっ」

「だったらもっと速く走ってよ! 送ってくれるって言ったでしょ!」

「そ、そうは言っても──」

「お母さんッ!」

「う、!」


 男は意を決しアクセルを踏み込んだ。グイと速度が跳ね上がった反動で、霖の頭がシートにめり込む。上々な走りを見せるフロントガラスの情景は、右手に温かな家々を映し、左手に豊かに育つ群落の山を忍ばせている。ガードレールは錆付いていて可哀想な色をしていたが、その根の一部に小さな花を見つけるたび、味わい深い美しさに捉われてしまう。傘のように道路を守る茂った林の道のりを抜けると、いよいよ駅は目と鼻の先。


「あ! いた!」


 褪せた薄緑の鉄階段が見えた。そこを軽快に駆け上がる彼女の姿。すでに電車は待機している。


「りーんッ! おーい、止まってえーッ!」


 霖は助手席の窓を全開にし、身を投げ出すように左腕を振って呼び掛ける。が、風が顔に張り付いて、彼女の耳まで届かない。霖は駅に着くとすぐに、父親の言いつけを無視して全速力で階段を駆け上り、息を切らしてホーム一体を見渡した。


「り、ケホッケホッ。鈴……っ!」


 咳き込みながら、乗車しようとしていた彼女を見つけて呼び止める。そうして今朝見た幸せの鐘のことを思い出し、その鐘に垂らされた赤い紐を力強く引っ張った。

 鳴り響く甲高い音色は、氷のようにキンと辺りの時を止めた。振り返った鈴憧の瞳には、Vサインをこちらへかざして項垂れている霖の小さな姿があった。


「霖っ!? どうしたのそんな息切れして。大丈夫?」

「な、なんとかね。へへ」


 電車のドアがゆっくり閉まる。けれど鈴憧には、それよりも苦しそうにしている霖が心配だった。


「あのね、ケホッ。お父さんが送ってくれるって。スケート場まで。ケホッケホッ」

「はあ? そんなことのために、わざわざ走って来たわけ?」

「うん。階段ダッシュ、だけだけど」


 鈴憧は階段の下に視線を移す。その先には、トラックから急いで降りてくるおじさんの姿があった。


「鈴ちゃーん。霖は、大丈夫かあー?」

「いえー、ちょっと疲れてるみたいでーす。歩けないみたいでー」


 その言葉を聞き、父親はたわんだ腹を揺らしてのぼり、ホームに到着すると、霖を抱き上げていそいそと車に戻り始めた。鈴ちゃんもおいで、と促され、彼女も後に続く。お姫様抱っこの要領で父親に抱えられ、その大柄な体躯たいくの横から見える霖の両足が、だらりとしていて不安だった。


「だ、大丈夫なんですか? 霖さん」

「ん、大丈夫。心配しなくていい」


 霖を荷台に寝かせた父親が、乗って乗ってと手招きする。


「あの、本当に送っていただいても良いんですか? 車でも二時間はかかりますし、ご迷惑じゃ……」

「気にしない気にしない。霖が引き止めたせいで鈴ちゃんも走らされたんだ。迷惑の差でなら娘が勝ってる」

「でも、霖さんは流石にご自宅に寝かせておいたほうが……。行くにしても、軽トラックじゃ違反になっちゃいます」

「だはは、よく知ってるんだね、人数制限のこと。でも大丈夫さ、今朝見たらガソリンが切れてるだけのワゴンが一台生きてたから。親父の遺産だ」

「遺産、ですか」

「そ。小さな遺産」


 ルンルンと、やたらと機嫌の良いその人の横顔を眺めながら、荷台の見える窓を覗く。霖に変わった様子はない。むしろ、ぐっすり気持ちよさそうに眠っている。安心して、そこでやっと肩の荷が降りた。


「鈴ちゃんのお父さんはこっちの人? なんの仕事してるの」


 問い掛けに、鈴憧は少し間を空けて答えた。


「父は北海道出身です。牧場の仕事を、していました」

「牧場って、搾乳さくにゅうとか?」

「はい。でも主に、病気や怪我をる獣医でしたけど」

「そっか。しかし俺も経験あるよ、牧場の仕事って。朝が早くて慣れなかったんだけどさ。で、今は仲崎浜で?」

「いえ、父は十年前に他界しました。仲崎浜では、祖母と二人で暮らしています」

「あ……、そうだったのか。そうとは知らず、踏み込んでしまって申し訳ないっ」

「あ、いえいえ、別に良いんです。もう立ち直っているので」


 そう答えた鈴憧に、男は感心しきって鼻を啜る。「良い子に育ってくれたんだね」「うちの娘と仲良くね」と、運転席側の正面に置かれた箱の中からティッシュを二、三引っこ抜いて、目頭に浮かんだそれを拭っている。鈴憧は「はい」と答えて微笑んだが、それは霖と仲良くしたいという気持ちから自然に打つことのできた相槌であって、良い子とは少し違っている自分の境遇に対しての返事ではなかった。


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