第一章 そして、氷の春に手をかざす

(1)





 四月の祖母の家は、ひどく物悲しい景色だった。駐車場脇の花壇に植えられていたはずの色とりどりの花たちは見る影もなく、松や盆栽の大小様々な庭園風景も、生い茂る雑草に覆われてしまっている。最後にここへ遊びに来たのは確か五歳の頃。それ以来、色々な事情が重なって来ることが出来なかった。

 ひんやりとした縁側から庭に向かって両足を伸ばし、ながめは年紀の入った木造式の天井を見上げる。木目の隙間に茶色の蜜が結晶化しており、それをじっと眺めていると、今にも祖母の笑顔が自分の顔を覗き込んで来そうな気がして、足音のない畳の上が何故だかひどく寂しかった。


「霖、線香あげたなら駅まで散歩してくるといい」

「うーん」


 薄暗い天井に向かって父親に返事をし、霖はむくりと上体を起こす。背後に広がる部屋の壁上には、ご先祖様に並んで見覚えのある祖母の遺影が飾られていた。額縁には少し埃が被っており、右下に空き家となった蜘蛛の巣が力無く垂れ下がっている。それを手で払い除け、霖は額縁の一つ一つを丁寧に掃除する。戻して並べたご先祖様の顔立ちは、心なしか和やかな表情をしているように見えた。


「駅って、ここからどのくらいなの?」

「ん、そうだなぁ……歩いて十五分、自転車なら十分ってとこか」

「自転車でも十分かかるの? 歩きとあんまり変わらないじゃん」

「駅は上の方にあるからな。坂道続きなんだ」

「へえー」


 白塗装の剥げた、錆の目立つ軽トラックの荷台からせっせと家具を下ろし続ける父親に、無気力めいた相槌を返す。手伝うよ、そう到着した時に言ってはみたが、危ないから俺一人でやる、と言われたので快くそれに従った。父親は首に巻いたタオルを解き、額に流れる汗を何度も拭っている。


「やっぱり私も手伝おーか? その本棚一人じゃ無理でしょ」

「いいや大丈夫だ。お前は好きにこのあたりを見て来なさい。俺は昔引越し業者でも何年か働いてたから、要領なら分かってるんだ」


 そう言って父親はフンと腰に力を入れた。

 霖は縁側下の踏石ふみいしで赤いスニーカーの靴紐を結び、軽快に庭へとその身を投げ出す。白砂利の敷き詰められた地面が靴の底からツボを押し、一歩歩けばジャラリと鳴る。小石を一つ手に持つと、それを父親の平たいふくらはぎに投げ当てた。


「それじゃあ駅まで行ってくる。海の方にも」

「昼過ぎにはいったん帰って来いよ。今日は新鮮な魚料理だ」

「うん」

「あと、急に走ったりもするな。危ないからな」

「分かってるって」


 虫にでも体当たりされたのだろう、そう思い込んでふくらはぎを静かにいている父親を無表情に見つめながら、ボアジャケットに袖を通した霖はスマートフォンに従い駅への道のりを歩き始めた。風は凪いで雲ひとつない青空だが、東京から遥々移住してきた霖には、寒さの目立つ日照りだった。





 最寄駅の『こいはま駅』は、岩手県大船渡おおふなと市にある三陸町綾里小石浜さんりくちょうりょうりこいしはまの三陸鉄道リアス線沿いの駅である。駅の愛称は『愛の磯辺いそべ』と言い、元々は地名の小石浜がそのまま駅の名前になっていたらしいのだが、この駅が誕生した際、地元住民の人々がそれに喜び、祝い、詠われた短歌の一節がそのまま表記されるようになったと言われている。



  三鉄の 藍(愛)の磯辺の小石(恋し)浜

  かもめとまりて 汐風あまし



 せた緑色の鉄階段を登り終え、駅の待合室を左手に進んだ先に、この短歌が記された青い看板がある。短歌の背景に広がる海とホタテと輝く月の絵。鮮やかで、眼下に広がる森や海の肌合いがとても綺麗だった。


「でも、なんでホタテ?」


 霖は看板の右下に描かれた二枚のホタテイラストに首を傾げながら呟く。するといつの間にか一人の老爺ろうやが横に佇んでおり、霖の疑問に対し答えて来た。


「お嬢ぢゃん見ね顔だねぁ。小石浜ぁははづめで来だが? ホダデさこごの名産だじゃ」

「あ、こ、こんにちは。え〜っと……ホタテ、有名なんですか?」

「んだ」

「んだ?」


 再び霖は首を傾ける。──あ、と思い出したように、祖母と会話した記憶が目の前の老爺と重なり、「そうだ」と言っているのだとかろうじで理解出来た。こっちに来い、と手招きされて付いて行った待合室の中には、ホタテ貝の絵馬がずらりと天井から吊るされいる珍風景が。また外へ出て案内された所には、『幸せの鐘』と呼ばれる天使をモチーフとした小さな玲瓏れいろうが設置されていた。スマートフォンを開いて恋し浜駅を調べてみると、愛にまつわる駅である、との記述が。ロマンチックで可愛い駅だな、と霖はクスリと微笑んだ。


 その後も老爺と二、三会話をしたが、全然言葉が分からなかった。なんとなくではあったが老爺の口調と雰囲気で自分なりにこの地の方言や訛りを標準語に変換しながら話すことは出来たのだが、そのほとんどは格闘家に手加減されているド素人のような心持ちだった。未熟な脳味噌で老爺の卓越した身のこなしに付いて行っては、脳内で言葉を変換する。終始険しい表情だったことだろう、霖が駅を後にする時に言われた老爺の最後の台詞せりふが、今日からの新生活を少しだけ不安にさせた。──お静かに、ご油断なく。


「私、うるさかったのかな……」


 霖はうなじを掻きながら気持ちを切り替えるように息を吐く。

 そうして来た道を引き返し向かった海。その海面には、虹色の貝殻をあしらったかのような粒立つ輝きが乱反射していた。恋し浜と言うからにはビーチがあると期待していた霖であったが、立っているその場所は小石浜漁港の先端に備えられたテトラポットのコンクリート上だった。左は森。右は船着場。正面には、越喜来おきらい湾の波が緩やかに踊っている。そのずっと向こうに見える陸地が『仲崎浜なかさきはま』という地域であることを、スマートフォンの地図アプリで現在地と照合し、霖は見知らぬ風景を脳裏に色濃く開拓することが出来た。


 着ていただいだい色のブラウスが、入り込む汐風に膨らんでなびき出す。海の匂い。街の匂い。人口が百名にも満たない小さな小さな町。不安だらけのこれからだが、きっと美しい毎日が待っているかも知れない。


「……私は、間違ってなんかないもん」


 込み上げて来た過去を洗うように、呟いた霖はんだ空気を思い切り吸い込む。──瞬間、一そうの漁船が船着場に停泊したのが見え、身体ごとそちらへひねった。船体は緩やかな波に軽く煽られながらも、ぽんぽん、ぽんぽん、という小気味良いエンジン音を轟かせている。その船内から上陸した、見たことのないほどの綺麗な女性。艶めく黒髪は首が隠れない程度の長さで輪郭に沿って斜めに切り揃えられ、無地の白Tと黒いスキニーからはスラリとしたスタイルが。前髪の上に掛けられたサングラスは少し変わっていて、レンズがきらりと紫色の光沢を帯びていた。その人が、やや大きめのリュックを肩にげながらこちらを不思議そうに眺めている。会釈してテトラポットから陸地へぴょんと飛び移ると、街に向かって歩き出した女性の背中に霖は言葉を投げ掛けた。


「あのー、こんにちはー。どこへ行かれてたんですかあー?」


 その人は立ち止まり、ゆっくりとこちらを振り返る。無神経に大きな声。彼女は自身の顎に指先を置きながら、きょとんとした様子を返していた。

 霖は小走りに駆け付け、問い掛ける。


「お魚釣りに行ってたんですか? あの船、レトロな感じで可愛いですね!」

「はい? えーっと……あなたは観光客の方、ですか?」

「い、いえいえ違います! 今日ここへ引っ越して来たんです。それでこの町の散策をと思って、いろいろと見て回ってたところだったんです」

「あー、そう」


 身長は一七〇センチはあるだろうか、一五四センチの霖は少し上目遣いに、若干困惑気味の彼女を見上げた。間近で見ると、女性というよりは女の子、あるいは美少女と形容した方が相応しい年齢に思われる。人見知りが育っているのか、彼女は覗き込む霖に対してそっぽを向いた。


「そのリュックには魚の道具が入ってるんですか? サングラスもなんだかアスリートっぽくてかっこいいですね!」

「あー、うん。道具ではあるかな。魚のじゃないけど」


 言葉尻を悪意なくさらりと吐き捨て、彼女は頭に置いていた競技用サングラスをTシャツの首元に引っ掛ける。東北育ちの人は肌が白くてキメが細かい。いつか見たファッション雑誌の表紙を飾っていたモデルや女優のインタビュー欄に、「〇〇さんは肌がとても綺麗ですね」「東北地方の方たちは、みんな肌が白いんですか?」などという質問が書かれていたことを思い出した。回答自体にさほど興味のなかった霖は、続きを読むでもなくページを捲り、洋服にもとんとうとい性格だったためか、その日はそっとその雑誌を店頭に戻してお目当てのプリンを買って帰ったのだ。


 目の前の女の子に、あの時書かれていたインタビューとまったく同じ質問をしようとしてみたが、流石にそれはずけずけしいと思われそうな気がしたので自重した。


「どこから来たの? 何年生」

「小岩です、江戸川区の。明日から高校生です」

「え、ってことは、同い年」

「うそっ、十五歳ですか!」

「うん、まあ」


 驚愕の対比と事実だった。疑いもなく年上だと決めつけていた目の前の人が、自分と同じ年齢だなんて……。かたやスラリと高身長で、かたや短い手足の自分。黒髪乙女の高校生と、手櫛てぐしの荒い高校生。こんなにも同種とは受け入れがたい同年代と対峙したのは、生まれて初めての体験だった。


「どこの高校なんですか? 私は綾里りょうり第一高校です!」

「あ、一緒」

「ええーっ!」


 大声で驚きながら両手を頭の上に置く。ピシャリと伸びた膝小僧が大人びた彼女には可笑しく映っていたらしい。ふふふ、と鼻先に指を添えながら、髪を耳殻じかくへ撫で付けていた。


「声大きいよ。名前は?」

久季ひさき霖。ごめん、あはは」

「私は鹿住かすみ。鹿住鈴憧りんどう

「鈴憧? 変わった名前」

「そ? そっちだって変わってる」

「えへへ、そおですか?」


 変わってる、と言われると、なんだか得意になった気がして気分が良い。霖は身体を軽くくねらせながら、自身の後頭部を撫でてはにかんだ。鈴憧はそうでもないらしい様子だったが、眼前の出会ったばかりの少女の、その屈託なく晒された白い歯を見て、口端を上げて頷いた。


「同い年なんだし、タメ口でいいよ。疲れるでしょ」

「ん、別に疲れはしないけど、鹿住さんがそう言うなら分かった」

「鈴でいいよ、霖。鈴憧だと長いから」

「鈴……。うん、分かった!」


 少しだけ照れながらも、嬉々として頷いて見せる。初めて暮らす土地。初めて来た場所。初めての同級生。霖は喜びに満ちた出会いに、かすみがかった昼波の上を飛び跳ねる輝きにも似たその瞳を、目一杯に色づかせていた。


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