氷上よ、鳴り響け! ──綾里第一高校スピードスケート部── 1

川辺いと

終わりのプロローグ





 走り出す瞬間の、──彼女の軽快な足音が好きだった。

 小さな結晶が静かに舞い上がってはきらきらと白銀の床に跡を残し、ひんやりと頬をかすめる冷気の中は清らかで、曇っていた瞳が洗われたみたいにクリアな視界を連れてくる。

 ながめはリンクを滑り始めた友達の姿をじっと見つめ、祈るより先に胸元へ両手を手繰り寄せていた。


 行け。行け。行け……。


 無意識にそう呟いては、瞳の奥で彼女を追う。ぐんぐんと加速する背中。見慣れていたその背中が、いつにも増して頼もしかった。


りん──ッ! 行っけぇぇぇーッ!!」


 そうして誰よりも強く握っていたその拳を、霖は一直線に高く突き上げる。

 最初のコーナーを最短距離で曲がり終えた彼女の耳に、この声援が届いているかは分からない。観客席から降り注ぐ色とりどりの拍手や眼差しに、もしかすると自分の声は掻き消されているのかもしれない。それでも自身に湧き出る身震いするほどの興奮を、内に秘めておくことが出来なかったのだ。

 夢にまで見たオリンピックの会場。見渡せば手製の応援幕や団扇うちわが掲げられており、なかには有名選手に向けて書かれた応援文句まである。大舞台なんだ、と霖は改めてこの大会の規模を知った。そんな中で、日の丸国旗に見慣れた名前が揺れるたび、叫ばずにはいられなかったのだ。


「ひ、久季ひさきさん! 気持ちはすっごく分かるんだけど、他の人たちの迷惑になるから席に戻りなさい! 声のボリュームも下げて!」


 後ろからそう叫ばれ、霖は叱咤しったされた方を振り返るでもなく手で制し、レースに目を光らせる。口元で手を合わせながらおどおどと落ち着きのない妙崎たえざきだったが、教え子の輝きに満ちた後ろ姿を見、急いで隣へ駆け付けた。


「行ける? ねぇ久季さん、これってもしかして行けちゃったりするのかしら!」

「ちょっと黙ってて妙ちゃん! いま良いとこなんだから!」


 逆に怒られてしまった妙崎は、しょぼくれた表情のなか霖の見ている視線の先を、自身の視界に捉え直す。氷上を滑る彼女が最後のコーナーを曲がり終えた。最後の直線。ゴールまで、残り一〇〇メートルもない。


「先生先生ッ! やばいやばいッ!」


 観戦エリアから身を乗り出すように忙しなく手摺てすりを叩いていた教え子の手に、気付けば自身の右手がギュッと持ち上げられている。その勢いづいた揺さぶりように、妙崎もまた必死になって相槌を打つ。


「どどどど、どうしよう久季さんっ。先生ゴールまで観てられないわっ。目を開けておくのが怖いっ」

「ダメだよ妙ちゃん、もうすぐすっごい記録が出るんだから!」


 霖の予言めいた発言が鼓膜を突いた瞬間、ドッとうなるように大歓声が巻き起こった。会場内に流れるアナウンスは、その歓声を掻い潜りながら聞き慣れた名前を何度も叫んでいる。


 ──鹿住かすみ鈴憧りんどう


 本当に、まるで夢の中にでもいるかのようだった。

 友達の名前が叫ばれるたび、霖は目許めもとを赤らめ笑っていた。


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