『善と悪は表裏一体』

 来店を告げるベルがカラコロと鳴った。僕がドアに目を向けると、痩せぎすの大人しそうな男性が重たい扉を恐々と潜るところだった。

「いらっしゃい」

 店の奥から、ゆかりさんがヒールを高らかに鳴らしながら男性に近づく。ドアの上に設られたステンドグラスから色とりどりの光が差し込み、ゆかりさんの足元を彩る。さながら専用のランウェイだ。

 ゆかりさんの美貌に圧倒されたのか、彼は咄嗟に俯いた。それから伺うように視線を上げると、おどおどと要件を切り出す。

「ええと、看板を見てお邪魔したのですが、古書店なら買取も行っているんですよね?」

「ええ」

「じゃあ、こちらを買い取っていただけませんか」

 男性は鞄から文庫本を一冊取り出すと、ゆかりさんに押しつけるように手渡した。

「ふむ、これは……」

 ゆかりさんは渡された本を見て呟いた。僕も表紙を覗き込む。『ジキル博士とハイド氏』――乖離性同一障害、いわゆる二重人格がモチーフの怪奇小説だ。

 自らの内にある悪心に悩むジキル博士は善悪の人格を切り離すことに成功する。薬を使って善のジキル、悪のハイドと人格を交互に過ごしていたが、いつからかハイドの制御が効かなくなっていく。いずれ善であるジキルも悪に呑まれることを悟ったジキル博士は告白を綴った手記を語り部に託して自ら命を絶つ――そんなストーリーだ。

 ゑにし堂に持ち込まれたということは、一見何の変哲もない文庫本も人の想いが篭った忌書に違いない。僕らは忌書と出会う縁を取り持っているが、手放す縁もあるのだ。特異な目を持つ瀬戸セトであればジキルとハイドの忌書に遺された想いを読み取れるだろうが、あの飄々とした競取り屋は間が悪いことに店に来ていない。

「あの、お金も何もいらないんで、そちら差し上げます。寄付ってことで。ええと、では自分はこれで失礼します」

 しどろもどろに言い募ると、男性は逃げるように帰って行った。後には僕らと忌書だけが残された。

「どうしますか? それ」

「このまましばらく置いておこう。その内買い手が訪れるはずだ」

 言い切るゆかりさんにはどうやら心当たりがあるようだ。心当たりも何もない僕は、早めに誰かと縁が結ばれればいいな、とぼんやり考えていた。

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