◇ ◇ ◇


 やっと手放せた。せいせいした気分だ。古書店を後にした僕は安堵の息を吐いた。このままではノイローゼになっていただろう。その前に手放すことが出来て本当に良かった。

 ある日ふらりと立ち寄った古本市で見かけた『ジキル博士とハイド氏』の文庫本。物語や作家が特別に好きという訳でもないが、何故だか無性に気になって、気がつけば手に取っていた。その日から妙なことが起こり始めた。

「用事あるって言ってたけど、昨日あの辺り歩いてたよね? 何で嘘ついたの」

 全く身に覚えのない非難を受けるようになった。おかげで多くはない友人関係もギクシャクしてしまっている。

 自分がもう一人いるのではないか、そんな錯覚に襲われた。まるでドッペルゲンガーが現れたようだ。ドッペルゲンガーじゃなくとも世の中には自分と似た人間が二、三人はいると聞くが、こんなに近くにいるものだろうか。今のところはただの目撃情報に留まっているが、いずれ大事になるのではないか。不安は的中した。

 家に警察がやって来て、殺人事件の重要参考人として話を聞かれた。ホームレスの老人が殴り殺された事件で、犯行時刻の防犯カメラに僕の姿が映っていたのだと言う。現場周辺の聞き込みでも僕に似た男が目撃されていたようだ。

 しかし、これっぽっちも心当たりがない。その時間は一人暮らしの自宅にいたはずだが、それではアリバイ足り得ないと警察は信じてくれなかった。彼らは僕を犯人だと完全に決めつけている。冤罪がでっち上げられる理由を垣間見た。

 けれど、身の潔白は自分自身がよく知っている。僕は何も罪を犯してはいない。犯罪等の悪事を忌み嫌う僕が殺人なんて卑劣な真似をする訳がない。僕が現場で目撃されたのだとすれば、それは幾度も目撃されていた僕のドッペルゲンガーだ。ドッペルゲンガーが僕の評価を落とすために悪事を働いているんだ。きっとそうに違いない。こんな主張、警察は信じてくれないだろうけど。

 警察が逮捕状を持って押しかけてくるのは時間の問題だ。僕は頭を抱えた。このままでは無実にも関わらず逮捕されてしまうだろう。どうしてこんなことに。

 いや――きっかけは判っていた。あの本だ。手に入れてから奇妙なことが続いた。あれは呪われた本だったんだ。であれば、手放せば僕を悩ますドッペルゲンガーも消えるのではないか。早く処分しないと。

 本を抱えて街を彷徨い歩いていると、路地の奥に悠然と構える店が目に入った。重たい扉の上に設られた、年季の入った艶やかな木の看板には行書体で〈古本屋 ゑにし堂〉と書かれている。渡りに船とはこのことだろう。僕は恐る恐る店に入ると、出迎えた人間離れした美人店員に本を押しつけて逃げ去った。

 悩みの種がなくなり、家路への足取りは軽い。意気揚々と一歩を踏み出した時だ。

「うっ……!?」

 酷い立ちくらみに襲われ、思わずしゃがみ込む。僕はそのまま意識を手放した。

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