× × ×


 瀬戸は怪我の治療のために病院に行くと言った。僕は一人ゑにし堂に戻り、ゆかりさんに事のあらましを説明した。煙管を一服したゆかりさんは一言「そうか」とだけ呟いた。

「ゆかりさんは知ってたんですか? あの忌書が復讐するつもりだって」

「そこまでは流石に私にもわからんよ。そもそも忌書が実体化するのも滅多にないことだからな。何かあるとは考えちゃいたが、よりによって復讐とはね」

 含みのある言い方だった。僕は堪らずゆかりさんに瀬戸のことを聞こうとしたが、寸でのところで踏み止まる。本人に聞けなかったことを他人を介して聞くものではない。

 視線を彷徨わせた時、ふと目に飛び込んだ棚の隙間。確か、アンデルセンの本を並べていた辺りだ。つまり、人魚姫の忌書が差してあった空白。

 マリンの持ち主だった彼女は、代わりに復讐しようとしてくれる存在がいて、果たして報われたのだろうか。


 × × ×


 私は小さい頃から人魚姫の物語が好きでした。身を削る一途な愛を持ちながら、愛する人の幸せのために泡となることを厭わない人魚姫。なんて健気で素敵な女性なのでしょう。大きくなったら彼女のようになりたい、と子供心に思ったものです。

 社会人になり、同じ会社に勤める彼に一目惚れしました。彼は人望も厚い営業部のトップ、かたや私はしがない事務員。とてもじゃないけど釣り合いません。遠くから見つめているだけで充分でした。

 ある日、彼のパソコンをチェックしていると、次のプレゼンに必要な書類に致命的なミスを発見しました。大事なプレゼンの最中に発覚すれば、彼は困ってしまうでしょう。ひょっとするとクビになってしまうかも。私はこっそり修正しておきました。

 彼のプレゼンは無事に成功したようで、大手との契約をもぎ取ったようです。私も自分のことのように喜びました。しかし、待てど暮らせど彼から感謝の言葉はありません。照れているのかな、なんて考えていると、信じ難いニュースが飛び込んできました。

 彼の結婚の話で社内は盛り上がっていました。彼は私でなく、別の女を選んだのです。彼と同じ営業部所属の女で、先のプレゼンの際も相談に乗り献身的に支えたと聞きます。彼のミスを帳消しにしたのは私なのに。許せない、許せない。彼を殺して私も死のう。何度もいけないことを考えました。

 でも、彼への憎悪が募るほど、過日に見た幸せそうな笑顔が脳裏を過ります。憎い。でも、それ以上に愛している。貴方の笑顔を崩したくない。私が愛した貴方を傷つけたくない。私を見てくれないなら、いっそ――

 板挟みの感情に揺れている時、ふと幼い頃に何度も読んだ『人魚姫』の絵本を手に取っていました。ボロボロになったページを捲る度、物語の世界に引き込まれ、幼い頃の気持ちが蘇りました。最後まで読み終えた時、私の決心は固まりました。

 あの人のために、私は泡になる。それが私にできる最大の祝福。彼の幸せが私の幸せだから。邪魔にならないように、大人しく身を引こう。このまま生きていれば、彼への想いでどうにかなってしまいそうだから。

 私は海に身を投げました。願わくば、憧れた彼女のように天に昇れるように、と。

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