3
◇ ◇ ◇
僕らは該当の人物が働いているというビルに揃って赴いた。オフィス街の中でも一等地にあり、ここで働く人間は収入も高いエリートなのだろう。
入り口が見える向かいの路地で待ち伏せする。営業か昼休憩か、しばらくしない内に件の男性がビルから出てきた。爽やかな営業マンという風貌で、いかにも女性に人気がありそうだ。
「こんにちは。お時間よろしいですか?」
さりげなく男性に近寄った瀬戸は、有無を言わせず言葉を続ける。
「自分はこういう者でして。古本の買取を行なっております。お宅に眠っている本を是非買い取らせていただきたく……」
「はあ……」
職業病か、条件反射で名刺を受け取った左手薬指に指輪をはめている。まだ若いので新婚だろう。やはりマリンの持ち主の恋は叶わなかったのだ、と事実を突きつけられ、またもや胸が痛んだ。
「やっと……やっと見つけた」
男性を間近にしたマリンの身体は歓喜に打ち震えている。これで故人の未練を晴らせる。僕の子守りもこれで仕舞いかな。安堵と一抹の寂しさを感じていると。
「あの子の仇! やっと取れるわ!」
いつの間にか、マリンの手にはナイフが握られていた。恋に破れ、泡になる定めの人魚姫を救うべく、姉達が魔女から手に入れたもの。王子の心臓を貫き、その血を足に塗れば人魚に戻れると伝えたが、人魚姫が愛しい人を殺すことはなかった。だけど、マリンは違う。本気で殺す気だ。
ナイフの切先が男性に向けられ、狙いが定まる。彼は突然持ち出された凶器に目を見開いて固まっていた。止める暇もない。僕は目を瞑って、直後に訪れる惨劇から目を背けようとした。
しかし、幾ら待っても悲鳴の一つも聞こえてこない。恐る恐る、目を開く。眼前に広がる光景に目を瞠った。
「離してよッ」
彼の心臓に届く前に、瀬戸がナイフの刀身を握りしめて止めていた。マリンが暴れる度に刃が指に食い込み、血がぱたぱたと滴り落ちる。男はすっかり腰を抜かしていた。
「復讐は結構ですが、それはきみの領分じゃないでしょう」
瀬戸の物言いはどこまでも冷静だ。それが却ってマリンの激情に火をつけた。
「あんたに何が解るっていうの!」
「解りませんよきみの事情なんて。でも、一つだけ確かなことは知っています。きみは『人魚姫』の忌書だ。人魚が王子を殺してしまっては物語が破綻する。きみが大切にしたい彼女との思い出を無碍にする気ですか?」
「う……うぅ……」
嗚咽を漏らしたマリンは、耐え切れずわっと泣き出した。マリンの姿が徐々に薄くなり、空気に溶けて消えていく。人魚姫の絵本が床に落ちた。それを傷ついていない手で拾い上げ、瀬戸は言う。
「この子は僕が預かります。落ち着かないとお嬢さんのお店に置いておけませんから」
「ごめん……」
僕は項垂れた。ゆかりさんにマリンのことを任されたくせいに、結局最後まで瀬戸に頼りっぱなしだった。自分が情けなくて仕方ない。
「きみのせいじゃないでしょ。平気ですよ、これくらい痛みのうちに入らないし」
血塗れの手を振りながら瀬戸は寂しそうに微笑んだ。痩せ我慢には見えない。彼は痛覚が麻痺しているんだろうか。
「復讐なんて虚しいだけですよ。故人のため、なんて言いつつも結局はただの自己満足ですから」
瀬戸の物言いはどこか実感が籠っているようだった。彼は復讐を考えたことがあるのだろうか。訊ねるのは憚られた。
突然の事態に腰を抜かしていた男性は我に返ったのか、泡を食って逃げ出す。このままここにいたら通報されるだろう。怪我をしていない瀬戸の手が僕の背中を押した。
「さ、帰りましょうか」
促す優しい声音に、小さく頷いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます