『泡沫と消えた恋心』

 ゑにし堂は今日も今日とて閑古鳥が鳴いている。人と本の縁を繋ぐ古書店であるゑにし堂は本に呼ばれた人間のみが辿り着ける。つまり、客入りはまばらなのだ。一日に何人も訪れる時もあれば、今日のように誰も来ないこともある。

 店主のゆかりさんが退屈そうに煙管キセルを吹かす姿を横目に、僕はハタキで本棚の埃を払っていた。人が触らないとすぐに埃が集ってしまうのだ。

 ふう、とひと息ついた時、棚と棚の合間に佇む女の子が視界に映った。見覚えのない顔だ。はて、妙だなと首を傾げる。来客を告げるベルはしばらく鳴っていないはず。まさか、お客さんが子供を忘れて帰ってしまったのか? だとすれば大変だ。

「ねえ、きみ……」

 声をかけると、華奢な肩がびくりと跳ね上がった。こちらを見上げるまん丸な瞳が驚愕に見開かれる。

「あなた、わたしが見えるの……!?」

「え?」

 女の子は手に持っていた本を胸の前に突き出した。それは『人魚姫』の絵本。デンマークの童話作家アンデルセンが描いた、世界的に有名な悲恋譚だ。人魚姫の恋は成就することはなく泡と消えたが、原作をモチーフにしたアニメーション映画では目の前の少女くらいの年頃の子供が憧れる内容に大きく改変されている。つまりはハッピーエンドだ。

「わたし、この本なの」

 僕は本と女の子を順番に見比べた。艶やかな長い髪の毛と海を思わせる青い瞳が印象的な美しい少女。どう見ても彼女は人間だ。

「訳があってこの姿をとってるの。人魚姫だからできるのかも、だけど」

 物語の中で、人魚姫は人間の王子と添い遂げるために魔女に頼んで人間の姿を手に入れた。代償として人魚姫は美しい声を失い、歩く度に足に激痛が走るようになっていたのだが、この子は流暢に喋るし歩いても顔を顰める素振りもない。忌書だというこの子に呪いは反映されていないようで安堵する。

「前の持ち主はね、想い人に気持ちを伝えられないまま死んでしまったの。だから、わたしは願いを叶えてあげたいの」

 ゑにし堂で取り扱う、人の想いが色濃く残っている本を僕らは〈忌書〉と呼ぶ。多くの場合、そこには故人の未練が残っているものだ。今回は人魚姫の忌書であるため、間違いなく以前の持ち主は恋が叶うことなく亡くなっているだろう。僕の胸が痛む。

 そんな忌書は未練を果たそうと、同じ境遇の人間を引き寄せる。それがゑにし堂に訪れる客という訳だ。しかし、忌書自身が未練を果たそうとするのは初めてのケースだ。僕はたまらずゆかりさんに指示を求めた。

「うん、いいんじゃないか?」

 ゆかりさんは相変わらず気怠げに煙管をふかしながら言った。

「ただし、キミも同行して彼女の面倒を見ること。それが条件だ」

「ええっ、僕もですか?」

「キミが最初に見つけたんだ、責任を取れ。これも社会勉強だ、いいな」

 ゆかりさんに強く言われては逆らえない。僕は女の子の手を引いて店の外に出た。

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