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◇ ◇ ◇
話している最中急に黙り込み、心ここに在らずといった様子の男性は、途中で入店した女性に連れられて店を後にした。二人が本を購入することはなかった。残念に思いながらも、それ以上に気になることがあった。
「ゆかりさん、さっきの人達は……」
「とっくに死んでる。あの世へ向かう途中で迷い込んだんだろう。忌書が引き寄せるのは生きてる人間ばかりじゃないからな」
「ああ……」
僕は嘆息した。だからゆかりさんは彼がどこへ向かうのか尋ねていたのか。ゑにし堂を出たところで、彼が帰るべき場所はこの世のどこにもないのだ。
合縁奇縁とは言うが縁の種類は様々で、生きた人間同士に生じるだけじゃない。人と物、物と物、そして死者と生者の間にも縁はできる。しかし、今回のように二人以上の死者と忌書に縁が芽生えるのは珍しい事例だった。
「これ、戻しといてくれ」
「はい」
ゆかりさんに手渡された二冊の本を見て、僕はあっ、と声を上げそうになった。引き返そうとした男性を引き留めた本のうち一冊は先に見た『走れメロス』、そしてもう一冊は安珍・清姫伝説が描かれている『道成寺』。
道成寺は能にもなった話だ。旅の僧安珍に一目惚れした清姫だが、安珍は清姫の情熱的な想いを無碍にしてしまう。それを知り怒り狂った清姫はついには蛇になってまで安珍を追い続け、最後には道成寺の鐘の中に逃げ込んだ安珍を炎を吐いて鐘ごと焼き殺した――。
つまり、先の男は妻の元へ走るメロスであり、愛人から逃げる安珍でもあった……ゆかりさんは床に落ちた二冊の本を見て彼の事情を察したんだ、と納得した。
「ちなみにその忌書だが、メロスは友人に借金の連帯保証を押しつけて失踪した男の借金のカタ、道成寺はホスト狂いでホストと無理心中した女の遺品だ。せっかく波長の合う人間が現れたんだが、死人にゃ本は売れないな。仕方ない、そういう縁だったんだろう」
煙管に火を灯しながらゆかりさんは言う。
「メロスは勇敢さを讃えられて勇者と呼ばれたが、さっきの彼は勇者ではなく人間失格、とでも呼ぶべきかな」
僕は棚に本を戻す。どこに並べようかしばし逡巡した後、ゆかりさんの言葉に倣って同じく太宰が書いた『人間失格』の隣に並べることにした。
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