◇ ◇ ◇


 俺は……そうだ、確か不動産関連の企業に勤めていたはずだ。そこそこ重要な役職も与えられて、毎日忙しなく働いていたな。はは、こんなことは覚えてるんだな。仕事が生き甲斐って訳でもないのにな。

 結婚してるのかって? 指輪? ああ、そうらしいな。待ってくれ、今思い出してみる。

 ……会長の娘、いや姪だったか。とにかく、上司からの紹介で付き合うことになったんだった。これでも上の奴らからは可愛がられてて、重要な役職もらってるのもまあ、その関係だ。社会は世渡り上手な奴が出世するようにできてるもんだ。いや、そんな話はどうでもいい。俺が結婚してるとすればソイツだ。

 アイツは一昔前の女だった。女は男を立てるもの、なんて古臭い価値観が未だに染みついたままの親に育てられたんだろう。絶対に俺に逆らわなかった。いや、俺はDVなんかしてないぞ。愛していたのか、だって? 勿論愛したとも。アイツと一緒になりゃ会長の親戚で、将来は重役に就くこと間違いないんだぜ? そりゃあ丁重に扱ったさ。

 あー、でもな……もう一人いたな。俺と結婚してそうな女。

 一年くらい前に俺の部署に配属された新人。仕事の覚えが遅い役立たずで、愛嬌だけで世渡りしてるような女だが、顔もスタイルも俺の好みだった。ほら、手のかかる奴ほど可愛いって言うだろ? 仕事を教えてる内に部下じゃなく女として見るようになってた。アイツも俺に気があったみたいで、ベタベタと露骨にスキンシップしてきた。まあ、悪い気はしなかったよ。

 しかしわからんな、俺はどっちと結婚していたんだ? 会社と関係ない別の女だったか? 自分で言うのもなんだが、顔は悪くないと自負しているしなかなかモテるからな。そもそも、指輪をしちゃいるが本当に結婚していたのか――?

「だって、結婚してないんでしょ? じゃあいいじゃない」

 脳裏にフラッシュバックした、女の甘ったるい声。これはあづみだ。賢しいあの女は何かと理由をつけて俺をホテルや自宅に誘い込んだ。俺も満更でもなかったため、流れに任せて何度も体を重ねた。

 しかし、あの日だけはどうしても都合が悪かった。悪くなってしまった。どうして、と喚くあづみに俺は事実を突きつけた。

「妻が産気づいたみたいなんだ。立ち合わないと」

 あづみは激昂した。

「結婚してないって言ったじゃん! 私を弄んでたんだ、子供もできてたなんて信じられない! 嘘つき、嘘つき、嘘つき!」

 ――ああ、そうか。

 ようやく思い出した。俺が結婚していたのは会長の姪の方で、新人の女は愛人として囲っていただけだったんだ。

 みっともなく泣き喚いたあづみは、絶対に俺を妻の元へ行かせないと言い出した。

「許さない。アンタを殺して私も死んでやる。子供の顔なんて拝ませてやるものですか」

 あづみは台所から包丁を持ち出して切りかかってきた。俺は咄嗟に切っ先を避ける。学生の頃剣道をやっていて良かった、と心底思った。あづみが諦めることはなく、鬼の形相で追いかけてくるものだから、俺はマンションを飛び出して必死に逃げた。

 息が上がる。苦しい。脳に酸素が行き渡らない。足は止められないが、体は限界だ。ならばタクシーを拾い、あづみを撒いて病院に駆けつければいい。刹那の間に思考を巡らせ振り向いたその時、視界いっぱいにトラックが映り込んだ。

 目を奪う目映い光。轟音に次いで、体が弾けるような衝撃。何も感じられなくなった。

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