『走れよメロス』

 うららかな昼下がり。ステンドグラスから降り注ぐ彩鮮やかな陽光を浴びながら、僕は堪え切れず欠伸をした。慌てて周囲を見回すが、幸いにも客の姿はない。胸を撫で下ろしながら、杞憂だったかな、と苦笑した。

 というのも、僕が働く古本屋〈ゑにし堂〉は変わった店のため、大勢のお客で賑わうことはまずないからだ。常に閑古鳥が鳴いている、と言っていいだろう。それでも潰れずに経営が続いているのは、ひとえに需要があるからだ。人間にではなく、波長の合う人間を探す〈忌書〉にとっての需要だが。

 さて、眠気を吹き飛ばすには体を動かすのが一番だ。今日は張り切って、梯子を持ってきて天井に近い棚でも掃除しようかな。気合いを入れた刹那、バタン! とドアが乱暴に開かれた。

 足音慌しく店内に入ってきたのは、スーツ姿の男性だった。走ってきたのだろうか、息が乱れている。男性は息を整えながら周囲を見渡し、怪訝そうに眉を顰めた。

「お客様、そんなに急いでいかがなさいましたか?」

 カウンターから出てきたゆかりさんが赤いヒールを鳴らしながら近寄った。

「客だって? なあアンタ、ここはいったいどこなんだ?」

「当店は本と人の縁を繋ぐ〈ゑにし堂〉でございます」

 よくぞ聞いてくれました、とばかりに胸を張って答えるゆかりさん。表情こそ変わらないが、久しぶりのお客さんに張り切っているのだろう。

「本なんか買いに来てないぞ。それより、俺は急いでるんだ。邪魔したな」

 ゆかりさんを見事にスルーしてUターンする男性。すると彼の目の前に本が二冊、ばらばらと落ちてきた。

「うわっ!?」

 男性はたたらを踏む。落ちた本を拾い上げながらゆかりさんは言う。

「ここまで走ってこられてお疲れでしょう。本でも読んで休まれてはいかがです?」

 彼の行手を阻んだ本の一つが目に留まった。『走れメロス』――太宰治の著作で、教科書に載るほど近代文学の中でもポピュラーな話だ。

 勇敢な男メロスは暴君に歯向かったために処刑されることになるが、妹の結婚式に出席するため、友を身代わりに故郷に走る。結婚式を無事に終えたメロスは友の処刑までに王都を目指して走る――そんな物語だ。ということはつまり、彼は大事な約束を抱えて目的地へと走っていた最中だったのか。

「だから、急いでるんだって――」

「では、ここを出てあなたはどちらに向かわれるのです?」

「それ、は――」

 言葉に詰まる。懸命に脳内の情報を探っているのが泳いだ目から伝わるが、成果が出ることはなかった。

 男性は頭を抱えて項垂れた。

「急いでいる。行かなきゃいけないところがある。それは覚えているのに、どこに行かなきゃいけないか、全く記憶にない……」

 いわゆる記憶喪失というやつだろうか。メロスもあるいは、走り続けた極限の酸欠状態の中で記憶の混濁もあったかもしれない。

「では、ご自分のことは? 少しずつ記憶を整理すれば、大事なことも思い出されるかもしれませんよ」

「そうか……そうだな。では――」

 促された男性は、訥々と素性を語り始めた。

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