8-5


「あのさ」

 帰りの電車を下りて。

 ホテルまでの道を、乃子と将彰は並んで歩いていた。

「どうしたの」

「俺、やっぱり将棋やってみようかな」

「ふうん」

 乃子は、どこかでそれを言われると覚悟していた。きっといつか、惹かれてしまう血なのだと思っていた。

 幸いなのは、今からプロを目指すという年齢ではないことだった。才能が開花したとしても、普通はあきらめられる。

 将棋を始めるのに、そんなことを心配しなければならないのか。乃子は苦笑しそうになるのをこらえた。

「驚かないの?」

「そうねえ。お母さんに習えるね」

「いや、それは」

 将彰は、視線を上げた。

「教えてよ」

「私?」

「お母さんはきっと怒るし。あんまり、弱いところ見られたくない」

「ふうん」

 乃子の両親は将棋を指さない。だから、弱いところを見られたことがない。考えてみたら確かに、圧倒的に強い親に将棋を教わるのは嫌な気がした。

「いい?」

「いいけど、一度教室にも行ってみようか。同じぐらいの人と指すのが楽しいよ」

「楽しかった?」

「……楽しかった」

 ずっと、楽しかったのだ。

 乃子は、高校までのことを思い出していた。

 将棋は、楽しかったのだ。



 勝てなかった。

 先にホテルに戻ってきた美利は、ベッドに腰かけていた。

 十年以上のブランク。相手は奨励会員。勝てないのは当然だったかもしれない。しかし、初那大より強い女流棋士はいっぱいいるだろう。

 一番強くなると思っていたのに、あっさり将棋をやめてしまった、17歳の自分。東京で暮らすキラキラとした自分を勝手に想像して、浮かれていた若者。

 二つとも、幻になってしまったのだ。

 ただ、将棋は彼女のことを完全に見捨てたわけではなかった。プロと戦う権利ぐらいは、もう少しで手の届くところにある。

 夢の続きを見たい。

 美利は、天井に向かって手を伸ばした。座ったままでは、決して届かない天井。

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