次の話:あなたは恋愛小説を書き上げた

 脇目もふらずに書き上げた小説を、あなたは食いいるように読み返している。完成したたばかりの恋愛小説。一心不乱に書き上げた六千文字の物語を読み終わると、あなたは満足げにうなづいた。

 この小説はあなたが高校生だった頃の……そう、あなたがまだ純粋な好奇心に目を輝かせていた頃の経験を元に、あなたが書き上げたものだ。

 あの日……そう、十七歳のクリスマスの夜、あなたは恋人とその妹、そして親友を招いてクリスマスを祝った。もちろんあなたはクリスチャンではないし、クリスマスを祝うというのは口実にすぎない。あなたはただ、仲間たちと楽しい時間を過ごしたかっただけだ。

 日付が変わる頃には恋人と友人が眠ってしまい、残されたあなたと妹は二人きりで会話を楽しんでいた。いつしか二人は寄り添い、肩を抱き合い、そして恋人から隠れるようにして唇を重ねていた。

 なんとも甘酸っぱい思い出じゃないか。あなたはあの時の胸を締め付けるような甘い感情に突き動かされて、この小説を書き始めた。もちろん冒頭は、恋人の妹ノブコと隠れて口づけを交わすシーンだ。ぎこちなく重ねられた唇の感触や、張り裂けそうなほど高鳴っていた胸の鼓動……純粋だったあの頃を噛みしめるようにして、あなたは言葉をつづっていった。

 あなたはどうして、恋人に隠れてノブコと口づけを交わしたのだろうか。

「お姉ちゃんには、絶対に内緒。約束だからね」

 そう言いながら、小説の中ではノブコが迫ったことになっている。姉の浮気を知ったノブコは、同情心からあなたへと近づいていった。

 あなたの恋人は、本当に浮気をしていたのだろうか。小説の中のあなたは、クリスマスから二年後の春に浮気の事実を知り、打ちひしがれることになっている。本当にそうだったのだろうか。

 答はもちろん、あなたが知っているはずだ。

 クリスマスから二年後の春、小説の中であなたは再会したノブコに思いを告げようとする。花冷えの春の夜アパートにやってきたノブコを、温かい鍋でもてなそうとするシーンで小説は終わる。もう一度二人で抱き合えたのなら、彼女に好きだと伝えよう……そう心に決めながら。

 現実の世界でそんなことが起こり得ないことくらい、あなたにだって解っているはずだ。それなのにあえてノブコと寄り添うラストを描いたのは、あなたはノブコと添いとげることを望んでいたのだろうか。

 答はもちろん、あなたが知っているはずだ。

 あなたが愛そうとした、愛したかった、愛すべきだったノブコはもう居ない。この「居ない」という表現が比喩でしかないことは、あなたも解っているはずだ。そう、もちろんノブコは、死んでなんかいない。ノブコの正気が失われてしまっただけだ。クリスマスのあの夜に……あなたの手によって。

 いや、正気が失われたなどという曖昧な表現では、事実が事実として伝わらないかもしれない。あの日以降、ノブコは気がれてしまったのだ。ノブコの心はもう、この世にはない……。

 たった一晩の間に、ノブコ身に何があったのだろうか。あなたの恋人と友人が寝静まったあと、あなたはノブコに、何をしたのだろうか。

 答はもちろん、あなたが知っているはずだ。


 あなたはもう、自分のしたことすら判らなくなってしまったのだろうか。それとも、意図的に忘れ去ってしまったのだろうか。

 あなたがあの奇妙なのろいの話を耳にしたのは、クリスマスの二週間前のことだ。

 科学万能の時代に、呪いなどと何を馬鹿な事を……あなただって最初はそう思ったはずだ。その呪いはまるでウイルスが感染するかのように、人と人の間を血液や唾液を媒介して広がるという。つまり二人の関係が親密であればあるほど、呪いを移してしまう。

 宙を漂って空気感染したりはしない。呪いは宿主の元を離れると、程なくして霧散してしまう。体液が触れあうような、濃厚な接触でのみ呪いは感染する。

 そしてウイルスの感染が発症と同義ではないのと同じように、呪いの感染がそのまま呪いの発動になる訳ではない。キッカケを得て、はじめて呪いが発動する。発動のキッカケは何なのか、それはあなたがよく知っているはずだ。なんと言っても、発動の瞬間を目の当たりにしているのだから。

 激しい感情のたかぶり……恐怖でも歓喜でも絶望でもどのような感情でもよいらしいが、特に恋愛感情のたかぶりが呪いを発動させるトリガーとなり得るのだそうだ。

 あなたは呪いの噂を聞かされると同時に、その身に呪いを受けていた。呪いなどありえないと思いながらも、二週間という時間を努めて平穏に過ごそうとした。しかし感情を高ぶらせないようにすればするほど、あなたの心は乱れた。理不尽を突きつけられた怒りに、死ぬかもしれないという恐怖に、どう頑張っても心穏やかでは居られなかった。それでもあなたが耐えることができたのは、呪いから逃れる術を聞かされていたからだ。なんとか助かりたいという一心で、二週間を耐えぬいたのだ。

 そしてあのクリスマスの夜、あなたはノブコに呪いを移した。偶然だなんて言わせない、意図的に移したはずだ。だってあなたは、他人に移せば呪いから逃れられることを知っていたのだから。

 あなたが小説に書いたように、少なくともノブコと濃厚な口づけを交わしたはずだ。そして小説に書かれている通りキスごときで感情をたかぶらせたノブコは、そのまま呪いを発動させてしまった。

 呪いが発動すると、どうなってしまうのか……これもあなたの方が、よく知っているはずだ。噂では呪いによって、この世から連れ去られてしまうことになっている。たとえ命が助かったとしても、精神は別の世界へと連れ去られてしまうのだそうだ。

 なんとも悪趣味な呪いだ。親しい者を犠牲にすることで、自分が助かるというのだから。しかも呪いは、恋愛感情のたかぶりで発動する……これが呪いである限り、呪った者が居るはずだ。術者が溜めこんでいる、大きな悪意を感じずには居られない。

 呪いによって、ノブコは連れ去られてしまった。いいえ。あなたによって、ノブコは壊されてしまったと言ったほうが正しい。あなたが助かるために、ノブコは壊れてしまった。ノブコを犠牲にして、あなただけが生き残ったのだ。

 でもこの事実に耐えられるほど、あなたは強くなかった。ノブコが正気を失ってから程なくして、あなたも後を追うようにして気がれてしまった。

 もしかすると、移し切ることができず呪いが発動してしまったのかもしれない。いや、他人に移せば自分は助かるという噂自体が、嘘だったという可能性もある。しかし、今となってはどうでも良いことだ。

 あなたは他人を犠牲にして自分だけが助かろうとしたクズのような人間だけど、良心の呵責を感じるくらいには人の心が在ったのだ。喜ばしいことではないか。


 あなたがその身に呪いを受けた頃、ノブコはあなたへの恋に身を焦がしていた。そのことは、あなたもよく知っているはずだ。ノブコのアプローチに、断るでもなく受け入れるでもなく、曖昧な態度でもてあそんでいたのだから。そういう態度がさらに、ノブコを燃え上がらせてしまうのだと知りながら。

 そしてノブコはあろうことか、あなたの恋人である姉に恋心を打ち明けていた。もちろん、恋の相手があなたであることを伏せながら。しかしいくら名を伏せようとも、自分の恋人を狙っていることは伝わってしまう。

 略奪愛を成就させる妙案はないものかと問いかけられ、この厚顔無恥な妹に対して一計を案じることにした。

「おまじないって信じる?」

「なにそれ。効くの?」

 懐疑的な風を装っていても、強く興味をひかれていることがわかる。

「手順をきちんと守ることができるなら、教えてあげるけど?」

 このおまじないはとても強力だけど、それだけに手順を間違えば災いが降りかかることになる……説明の言葉を、ノブコは真剣な面持ちで聴いていた。

「このおまじないはね、三日間かけて行うの。用意するのは、片面が黒い紙、ペン、画鋲、赤い■■■■の四つ。一日目に黒い紙にペンで彼の名前とライバルの名前を書くの。書き終わったら四つに折って、真ん中に画鋲を刺して部屋の暗い場所に置くのよ」

 ノブコが生つばを飲む音が、ことさら大きく響いた。

「二日目に、赤い■■■■に彼の名前を刻んで。そしてこれが重要なんだけど、この日は誰にも会っちゃダメなの。休みの日を使えば、できるでしょ?」

 神妙な面持ちで、ノブコがうなづいた。

「三日目に部屋を暗くして、黒い紙と赤い■■■■を並べて置くの。紙から画鋲を抜いて、■■■■の名を刻んである部分をかじり取って口に含んでね。そして■■■■を口に含んだまま、紙に書いた二人の名前が分かれるように破るの。破り終わったら、■■■■を噛み砕いて飲み込んで。残りの■■■■もその日のうちに食べてしまってね。破いた紙の片方、ライバルの名前が書かれた方は燃やして。彼の名前の方は川か海に流せばいいわ。これでおしまいよ。きっと彼はライバルを捨てて、あなたに振り向いてくれる」

 聴き終わるとノブコは「やってみる」とつぶやいて、立ち上がった。そしてふと立ち止まると、震える声で訊いた。

「せ、成功すると、ライバルはどうなっちゃうの……かな」

「ふられておしまいじゃない? 所詮おまじないなんだし、死ぬようなことはないでしょ」

 このおまじないは……いや、この魔術は強力だ。これは嘘ではない。この魔術が成功すればノブコの願いは叶い、あなたの気持ちはノブコに大きく傾いていたことだろう。

 そして強力であるがゆえに、決して手順を間違ってはならないというのも、本当のことだ。手順を間違ってしまえば、術者に災いが降りかかる。

 だが、ノブコが教わった手順は偽りだ。

 本当は四日間かけて行う魔術だ。誰とも会ってはいけないのは、二日目ではなく三日目だ。三日目は何もせず誰とも会わずに過ごし、四日目に黒い紙を二つに破るのだ。

 ノブコは本当に、この魔術を実行したのだろうか。手順を間違えた術者は、どうなってしまうのだろうか。あなたは知っているだろうか。そう、やはりあなたは知っているはずだ。術者の末路を、目の当たりにしているのだから。


 さて、最後の挨拶のつもりで立ち寄ったのだけれど、長居してしまった。そろそろ行くことにするよ。

 あなたが書いたその滑稽な小説を見て、ワタシの復讐もようやく成就したのだと実感することができた。未来永劫、そうやって妄想の世界に浸っていればいい。美しい思い出に……いや、美しい思い込みに肩までつかりながら、ゆっくりと朽ちていけばいい。

 ワタシを裏切ったあなたとノブコを決して許すつもりはないし、気がれてしまった恋人と妹を哀れだとも思わない。因果応報、自業自得なのだから……。

 誤算があったとすれば、ワタシも因果をねじ曲げた報いをうけてしまったことか。しかしこれは、まぁいい……これこそ自業自得というものだ。復讐が成ったのだから、ワタシは満足だ。

 もう二度と会うこともないだろうから、もう少しだけ話をしようか。と言ったところで、今のあなたに理解できるかどうか判らないが。

 呪いなんてなかった……と言ったら、あなたは信じるだろうか。クリスマス前にワタシから受けた呪い、二週間もの間あなたを苦しめ続けた呪い、他人に押し付けることでしか助かることができないあの呪いのことだ。そう、あなたがノブコに押し付け、しかし良心の呵責に耐えきれず狂いの世界に逃げ込む原因となった呪い。そんなものはなかった……そう言ったら、あなたは信じるだろうか。

 もしくは、魔術なんてなかった……と言ったら、あなたは信じるだろうか。嘘の手順でノブコを破滅させた魔術。もしかすると、誤った魔術の影響は術者のノブコだけではなく、対象者であるあなたにも降り掛かっているのかもしれない。そう、あなたたちを破滅させた魔術。そんなものはなかった……そう言ったらあなたは信じるだろうか。

 はたまたどちらも本当で、どちらも実際にあったことだ……そう言った方が、あなたの耳には心地よく響くのだろうか。いやしかし、今となってはどうでも良い事か……。

 あなたは、あなたが信じたいものだけを信じればいい。どれもこれも信じたくないのならば、どれもこれも信じなければいい。もとより人は、そうするようにできているのだし……。

 さぁ、無駄話はこれくらいにしてもう行くよ。

 あなたはこれからも、そのくだらない小説を書き続けるのだろう? その見苦しい妄想の垂れ流しの中にせめて、あなたの安寧の場所が在らんことを……元恋人として願っているよ。


(了)

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