Girlfriend

瀧本緑

本編

 3年前にフラれた秋吉さんがPOPEYEのガールフレンド特集の中で「ザッケローニ卓郎」なる彼氏のとなりで微笑んでいた。中目黒のクラフトビールのお店で笑っていた。不自然なくらい歯を出して笑っていた。集合写真のたびに「もっと笑って」と言われたことを思い出す。それは少人数、例えば卒業式の後の個々人のスナップ写真であってもそうだったし、クラス全体の集合写真の時でも、いつも僕は指摘されていた。歯が抜けているわけでもないのにどれだけ頑張っても歯を見せて笑えない。無理して笑うものだから変に口角だけが上がる。真っすぐだったものを斜めにするのだから歪んでしまうのは当たり前だ。だから僕は、POPEYEの誌面で抜群の笑顔を作っている秋吉さんを羨ましくも思った。

 しかし隣に男がいる。ザッケローニ卓郎?そう書いてあったことだけがソースだ。もしかすると芸名か?だとするとPOPEYEは芸名で載れるのか。新聞と違って真実を訴求しているわけでもないもんな。しかしザッケローニ卓郎はけっこう真面目な顔をして写っていた。歯を見せていない。とはいえ不機嫌ととることもできない、不思議な表情だった。どうしようもなくなったときの誉め言葉「なんか優しそー」が口をついて出た。顔の系統はイタリア系に見え、どうも本名のようだった。もしやあの、元サッカー日本代表監督アルベルト・ザッケローニの息子?しかしザッケローニが日本人女性と所帯を持っているという話は聞いたことがなかった。ポゼッションサッカー。一度も話したことのなかった、クラスメートの松本君が3日に1回くらい、昼休みに叫んでいたことを思い出した。「バルセロナになるねん!日本代表もバルセロナみたいになるねん!」


 秋吉さんに振られてから3年。3年だ。3年経てば人間関係はめぐる。僕たちはしょせんこの星の新陳代謝の一部でしかないのだから、秋吉さんに男がいることも地球の胎動のようなものだと思う。ザッケローニ卓郎は、あれからできた2人目とか3人目の彼氏なのかもしれなかった。問題は、こうして公たる雑誌で特集されていることだった。読んだ直後はかつての思い人がPOPEYEに載っている事実が少しおもしろくて笑っていたのに、だんだん気持ちが悪くなってきてお冷を頼んだ。僕はたった1人、神保町のランチョンで飲んでいた。ビヤバーに1人で来るのは精神衛生上よくない。周りが忘年会のごとくガヤガヤと声を上げている。本当に忘年会なのだろう。誰よりも声を出したい、誰よりもすべて忘れてしまいたいのは僕なのに、僕は声を上げることができなければ、若さのせいで、忘れられることの方が少ないことにも気づいていた。


 1人ではすることがないので水をあっという間に飲み干してしまう。コップが小さいんだよ。ビールを飲んでほしいお店なので当たり前だけれど。店員を呼びつけて生ビールを頼んだ。お冷もお入れしましょうか。お願いいたします。呼びつけた態度になってしまった罪悪感から、妙に丁寧な言葉尻で着飾った。とにかく、誰か、必要だと思ってLINEを開く。幸也なら、何か話を聞いてくれる気がした。あいつはたまにPOPEYEを読んでいたはずだ。一度あいつの家でPOPEYEを見たことがあった。


万喜一:今月のPOPEYEのガールフレンド特集に秋吉さんが彼氏と載ってて死にそう

桜庭幸也:POPEYEのガールフレンド特集はマジでシコれる。

万喜一:…へ?

桜庭幸也:これは間違いない、事実

万喜一:とりあえず神保町来てくれる?

桜庭幸也:POPEYE持って行った方がいい?

万喜一:いや俺今持ってるから

桜庭幸也:今武道館でライブ見終わったとこだからすぐ半蔵門線乗っていくわ。万くん待っててね。


 幸也は僕のことを万くん、と呼ぶ。寿君みたいだからやめてよと一度言ったことがあるが通じなかった。彼はFANZAの半額セールが始まると必ず教えてくるようなやつだった。ずいぶん前に僕がアダルトビデオを買うのをやめたそのあとも、セールが始まった旨と注目作、目をつけているデビュー2カ月以内の女優をピックアップし送ってくる。7つ離れたサークルの後輩に毎朝、オススメの曲のSpotifyリンクを送ったOBの先輩がいるという話をふと思い出して、まだこっちの方がいいのではないかと思ってしまった。人はやわらかな繋がりを求めていて、その手段が彼の場合これなのである。次のビールを飲み干す前に、彼は早くも到着した。


「想像すんだよ。2人がその店で思い出を作ったあと、家に帰って野生に帰る瞬間をさ。つい1時間前までは文明人ですって顔してたやつらがさ、一気に縄文時代とか弥生時代までさかのぼって、そいつらと同じことをするんだぜ。それがたまらなくてしょうがないの。歴史を勉強していて良かったと思うし」

「背景を知れば知るだけ抜けるってこと?」

「そういうこと!だから俺はAVだって、ドラマものか、20分以上インタビューがある素人ものでしか抜かない。ヘルスでも嬢と30分以上会話してからプレイに入る」

「怖くね」

「怖くねえよ。それでさ、POPEYEのガールフレンド特集は別格なんだよ。AVは一方通行だろ?インタビューしてる側の男のことはなんもわからねえし、ヘルスだって、自分自身をネタにシコるのは自分のチンコ咥えてるみたいでいやだ。でもさ、あれは2人映ってんじゃん。そこにあるのはそいつらの日常じゃん。ちょっと高い金出していいとこ行ってるフリしてるけど、普段は王将とか日高屋なわけじゃん。だって20代だし。日高屋のあとのセックスと中目黒の自然派ワインの店のあとのセックスはまるっきし違うわけじゃん。前者は日常が続く幸せを、後者は特別な日を共に過ごす幸せを感じるわけだ。そういうのって、2000年代に生まれて、この社会があるから存在する喜びだよな?なのに、だぜ?それだけ文明が生んだ貧富を清濁併せ吞んでおいたクセに最後はセックスに至る、多くの人間に組み込まれた子孫繁栄のメカニズムに至ってしまう!それが抜けるんだよ!エロい。その過程を細かく想像するのにめちゃくちゃ手っ取り早いのよあれ。これほど興奮することはないよなあ。そういう想像が止まらなくなって5回抜ける」

「なんか怪獣みたいだなお前。もっとシンプルで良くね?みんな、乳首立ってることとかイクときの声がいいとかキスがエロいとかそういうので抜いてると思うよ?それじゃあお前、日常で常にオカズが転がってるってことにならない?もし大衆の前でシコることが犯罪じゃなかったらそこらじゅうでオナニーするんじゃない?お前」

「正解!」

「怪獣じゃん」

「でも現実、人前ではシコれないだろ?わいせつ罪。もっとちゃんとした名前があるかもしれないけど。そうやって世界はうまいことなってんだよ。現に俺がそういうシコり方をしているのも、この話を聞いた万くんしか知らない。これって何も悪いことじゃないよな。誰にも迷惑かけてないわけだから」


 久々に呼び出した幸也はやはりというか想像の10倍はイかれていた。素人系AVが好きだというやつの脳内を覗いた時の平均的な光景。歪んだ視座、性欲の怪獣。

 しかし幸也は童貞だから、あいつが求めている仰々しい一つ一つは、彼女ができるだけでおおよそ満たされることを知らなかった。ほかのカップルの日常をオカズにシコるという異常性癖に見せかけて、あいつが求めているのは純愛なのかもしれなかった。あいつはありふれた日々をオカズにオナニーをしている。あいつがその「ありふれた日々」を手に入れたその日、月に降り立った人類と同じ景色を見ることになると思う。そんな希望を常に身に纏っているからこそ、最低な性欲大怪獣たるあいつを僕は嫌いになれなかった。幸也は嬉しそうにビールを飲みながら、「そろそろ10円セールの季節だな」と笑っていた。


 帰り際、「とりあえずその場に凸してみたら」と幸也に言われた。「俺と違って万くんは多分、POPEYEの誌面を遠くの国のニュースか、夢物語のように感じてるんじゃないかな。現実のものととらえられてないんだよ。自分ごととして処理するべきことに対して他人事だから気持ちが入らないんだ。実際にその目で見れば、いろいろ諦めがつくかもしれないし、やっぱりザックから秋吉ちゃんを奪いたい、と思うかもしれない。いずれにせよ誌面を見てるだけでは何も変わらないぜ」


 「おそらく中目黒に行くやつは学芸大学にも生息している」という妙に現実味を帯びた幸也のアドバイスで、僕は毎週末学芸大学で一人飲むようになった。なかなかザッケローニ卓郎と秋吉さんは現れなかったが、どの店も本当に美味しいものが出てきた。自然派ワイン、ヴィーガンフード、発酵食品、タコライス…POPEYEの誌面で描かれていた日常が、本当にそこにあったのだ。夢物語ではなかった。しかしPOPEYEに出てくる20代の収入は幻想なので、案の定僕の財政は底をついた。これ以上ここには通えないのではないかというタイミング、G1大阪杯でポタジェ単勝が的中、お金を取り戻したその次の学芸大学、勝ったお金で幸也を奢ろうとした自然派ワインと発酵食品のお店に、ザッケローニ卓郎と秋吉さんは現れた。


 「あ」と先に声を上げたのは幸也の方だった。僕は少し固まってしまったし秋吉さんも同じだった。ザッケローニ卓郎に至ってはこちらについて何も知らない。

「秋吉さん」

 ようやく声が出る。

「万さん」

「久しぶり」

「久しぶり。こんなところで…偶然」

「ああ、偶然」

「ちょっと俺、トイレ行ってきます」

 幸也はやけに焦ってトイレに行ってしまい、ザッケローニ卓郎と秋吉さんと僕、の3人だけになった。ザッケローニ卓郎が顔で疑問符を表明したので、秋吉さんが「万さん。大学の先輩」と手短に説明した。例えば付き合ったばかりの2人なら、こういう時もう少し丁寧なやりとりをするかもしれないが、非常に端的なやりとりに思え、この2人がそこそこ年月を共にしたことを滲ませた。

「あ、今付き合ってる人。ザ…卓郎くんです」

「初めましてザッケローニ卓郎です」

「あ、初めまして。あの、POPEYEで、見ました」

「ハハハ!POPEYE!」

 ザッケローニ卓郎が笑った。きちんと「ハ」を発音して笑う人間か。歯が茶色かった。カレーを食べすぎたり、コーヒーや紅茶を飲みすぎると歯が黄色くなると聞いたことがあったが、ザッケローニ卓郎のそれは黄色ではなく茶色であった。全体的に茶色いのではなく、ところどころにスポイトで垂らしたように茶色いステインが刻まれていた。それを厭わず彼は口を大きく開けて笑った。誌面では意味ありげに真顔だったというのに。そして僕はようやく、嫉妬することができた。

「卓郎くん、行こっか。じゃあ、万くん、また」

「ああ、また…」

 嫉妬。大きく口を開けて笑うから?歯が汚いやつが秋吉さんと交際しているから?軽妙なやりとりに2人が重ねた歳月を感じたから?僕にとって女神に等しかった秋吉さんを人間扱いするこの男に?思えば僕はあまり嫉妬をしたことがなかった。初めて知った。嫉妬は熱情だった。こめかみが熱い。幸也の言うように全ては子孫繁栄のためにメカニズムされているならばこの嫉妬という感情もそれ由来なのだろうか。ネアンデルタール人も嫉妬したのかどうか、考古学者は解明したのだろうか。そうやって、深い思考の森に僕はまた迷い込んでいくのか。


「いつも見てます!!ありがとうございます!!」

 大声でハッとさせられた。幸也だった。熱い握手をザッケローニ卓郎と交わしているではないか。アイドルの握手会、危ないオタクのそれだった。というかおそらく、その手は今さっきトイレでシコってきた手じゃないのか。

「いつも?」

「はい!いつも!」

「い、いつも」

 ザッケローニ卓郎は「いつも」にピンと来ていないようだった。そりゃそうだ。「いつも」POPEYEのガールフレンド特集を読んでいるやつなんてこの世にいないだろうしましてそれをオカズにしている人間がいるなど想像せずに生きていける、幸福な人生なのだから。

「幸也、もう行こう」

「万くん、いいの?」

「いいよ」

「何も言わなくて、いいの?」

 幸也はなぜかまともっぽいことを言う。

「いいよ」

「お前のこの数カ月は、いいのか」

「いいよ」

「良くはない!ザッケローニさん、やっぱりザッケローニさんのお父さんはあのザッケローニさんなんですか?」

「いや、違いますけど」

 どうやら幸也は時間を稼いでくれているつもりらしい。「ポゼッションサッカーはバルサだからできたのであって」とかいろいろ言っている。なんかため息が出た。ついたというよりは出た。

「秋吉さん」

「何ですか?」

「まだ好きです。秋吉さんにいつしか会えないかと思って、この4カ月僕は毎日のように学芸大学に通ってました。それであの、今日会えました」

 ため息のまま出た言葉はほぼ呼吸のようなものだったが思いのほか長く話した。自動的に出たもので、それは吐き出してから気づいた。

「そうですか…」

 一方でため息のようなセリフだった。真っ暗になったと思ったら、目の前にザッケローニ卓郎が立っていた。多分こいつは190センチはあるだろう。目の前に立たれて初めて、その大きさに気が付いた。彼は僕を睨みつけながらも、手を出す雰囲気は全く感じさせなかった。それでも無言の圧というか、今すぐこの世からいなくなれと要請してくる雰囲気は強く伝わってきたけれど、それよりも秋吉さんの無関心を貫く平板な表情に僕はいたく寂しさを覚えた。別にどちらでもいい、と言わんばかりのその表情に。可もなく不可もなく、どちらにも選ばれないことがいかに虚ろであるか。別に言わなくても良かった今日会えた理由さえ述べて究極に気持ち悪いはずの僕に向けられた無関心。傷ついているうちに幸也はいつのまにか支払いまで済ませており、手を引かれて店を出た。その間ザッケローニ卓郎はずっと僕を睨み続けていた。


 中目黒のタワーマンションが目に入る。「あれっていくらくらいだろ」と幸也が言うので「5億とかじゃね」と適当に答える。東京はなんか、誰に関しても無関心だと今は、自分の感傷も災いして思わされる。これほどこっちは絶望しているというのに、タワーマンションの中層階はみな光が灯っていて、おそらくそこでは穏やかな家庭が育まれている、そう思うだけで僕はまた嫉妬でおかしくなりそうだった。目黒川沿いを歩いて、春になればここら一帯はすべて桜に覆われることを思い出した。そしてあの2人もやはりここに来るのだろうか、そしてクラフトビールを飲んで、その後には――あながち幸也の果て無い妄想とその先にある自慰行為というのは的を得た行為なのかもしれないと思った。思えば明治、大正、昭和の純文学でこういう場面がよく登場したような、そんなことない気もした。しかしそれらは呪いでしかなかった。必死に意識を目の前に戻す。タワーマンションを眺める。呼吸をする。息を吸って吐く。普段意識せずともできることをあえて行ってみる。冬ではないから、僕の吐く息は視覚的には存在しないけれども、それでも強く息を吐き出した。幸也はFANZAのセールがあるからとタクシーで帰った。




 ガールフレンド。あれから恋人ができて、それでも一度も、その相手をガールフレンドと名状したことはなかった。「パートナー」と呼ぶのも照れる。本人に対しても名前を呼べず、「ねえ」とか「おはよう」とか、時と場合に応じた呼称になってしまっている。でも心の中では恋人と呼ぶ。恋人がPOPEYEを買ってきた。マフラーを巻いたままでソファに座る僕の隣に転がり込んできて、2人で誌面をめくっていく。そこにザッケローニ卓郎はいないし秋吉さんもいなかった。ただ隣に、新しいクラフトビールのお店を探したい彼女がいるだけだった。これが幸せだろうか。この幸せを幸也はオカズにするのだろうか。マフラーをほどいてあげると、彼女は「まあでもPOPEYE読む男信用できないんだよな」と笑った。良くない歯並びすらいとおしい。僕は苦笑して、最近よく笑っていることを自覚した。その種類はなんでも良かった。マフラーを頭に巻いて「酔っぱらったサラリーマン」と言うと彼女は笑ってくれた。

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