第5話  Bad Orangez(前編)

 ディアナ・ボルゾイの朝は、原材料レベルでこだわった朝食から始まる。日本に渡ってからは素材が変わったものもあり、少し辟易したが、食材の中には祖国で食べるものよりも上等なものもあって、存外悪いことばかりではない、と思ったりもした。

 朝食後は、軽いストレッチをはじめとするモーニングルーティーンを行う。これには毎日、たっぷり2時間以上をかける。その後、ブラッシングを受けながらその日の予定を確認する。今日は、ディスクドッグメディアの取材、競技会への参加、日本のイヌ人政治家との会食が予定されている。

 ユリウスに車を回させ、乗り込む。

「おはようユリウス」

「ディアナ、おはよう。調子はどう?」

 ユリウスは運転席から気さくに聞いてくる。ディアナも微笑んで答える。

「変わりありません。今日は暖かいですね」

「そうかな?ニュースの予報では寒いって言ってたけど」

「故郷の春に比べたら、温室にいるようなものです」

「違いないね」

 ユリウスは特徴的な赤毛を揺らしながら笑う。会話に意味はない。『我々はチームである』『お互いに敬意を払っている』ということを確認する、儀礼のようなものだ。調子の確認はともかく、ディアナは気温にも天気にも関心はないし、おそらくユリウスもそうだろう。本当に必要な場合は、競技場のコンディションなども含めて説明してくるはずだ。それでもやるのは、敬意のあるコミュニケーションが、スポーツ選手として正しいことだからだ。だから、意味や必要はなくても、無駄ではない。

「競技場まで少し時間があるね。君の好きな音楽を流してもいいけど、余裕があるなら『ディスクマガジン』のオンライン取材を受けるかい?」

「かまいません。つないでください」

 ディアナのタブレットに、日本人の顔が映る。何度か取材を受けたことのある記者だった。彼女は何か日本語で言いながら頭を下げたので、ディアナも微笑んで頭を下げた。

 日本人の記者は、食べ物やプライベートについての質問をよくしてくるので、ディアナは返答用の原稿を記憶していた。もう何度「お寿司が好きです」と言ったか覚えていない。彼女も御多分に漏れず、通り一遍の質問をしたあと、話題は今日ディアナの参加する地元の競技会に移った。

『今回の競技会は、同年代の日本の選手と競い合う場になりますが、注目されている選手はいらっしゃいますか?』

 日本人の質問が翻訳されて表示される。

「皆さん、とてもよく練習されています。日本のディスクドッグ選手はレベルが高いので、私も全力で臨もうと思います」

 ディアナの返答から間があって、翻訳された内容が伝わり、記者はうなずきながらメモをとっていた。そして、少し言いにくそうな顔で次の質問を投げかけてきた。

『先ほど、日本の選手のレベルが高いとおっしゃいましたが、今回の競技会では、ディアナ選手を上回る自己ベスト記録を持っている選手はいません。巷では、パフォーマンス目的の出来レースという批判もありますが、そのことはいかがお考えですか?』

 想定していない質問だった。聞いていたユリウスが、バックミラー越しに大げさに顔をしかめてみせた。ディアナは頭の中で正しい返答を用意して、答えた。

「前提として、その質問は、これから私と全力で戦う日本の選手に失礼です。ディスクドッグは何が起こるかわかりませんし、誰も負けるつもりで試合に臨むことはありません。日本の選手を下に見る発言を引き出そうとするのは、やめていただきたいです」

 表情をこわばらせる記者に、その上で、とディアナは続ける。

「私は、正しい練習を積み重ねています。正しいフォーム、美しい姿勢、強いディスクドッグを追及しています。その練習量は誰にも負けないと自負しています。幸運にもフィジカルにも恵まれました。チームやスロワーにも恵まれています」

 ディアナはにっこりと微笑む。牙をむき出しにするのはマナー違反なので、見えないように注意する。

「私は正しく、私は恵まれていて、私は強い。だから勝つ。誰が相手であろうと、どこの国であろうと、私は変わらずそう答えるでしょう」

 最後の言葉だけは、ディアナの本心だった。ビデオ通話を切ると、ディアナの意識は夜の会食相手の政治家に移り、タブレットでプロフィールを検索しはじめた。

「なかなかいい受け答えだったんじゃないかな」

「面倒な質問をしないように、あとであなたから言っておいてください」

 ユリウスは苦笑した。

「しかし、『出来レース』か。ひどい言われようだ、こっちは政府の後押しで留学に来ているのに」

「本来であれば、彼ら・彼女らが私と戦うのは、もっと上のクラスの大会……世界大会やオリンピックです。場を荒らしていると思われるのは、仕方ないかもしれません。ですが、関係ありません。大局的に見れば、私に負ける時期の後先の問題でしかありません」

「それが事実なのが、君の恐ろしいところだ」

 競技場が近づいてくる。以前、拠点にしている施設のグラウンドが整備不良だった時に、少しだけ利用した運動公園だ。

「日本の子犬パピーたちに、ディスクドッグを教えてあげましょう。そうでも思わないと、退屈なだけですから」


◆◆◆


 大輔たちが運動公園に着くと、普段はガラガラのディスクドッググラウンドには大勢がつめかけていた。エリによれば、年に数回行われる競技会は、ディスクドッグ選手への登竜門なのだという。

(デカいな……)

 大輔は集まったキャッチャーのイヌ人たちを見ながら、改めてサクラとの差を実感していた。シェパード系やレトリーバー系、ハスキー系やトサ系など、サクラと比べると総じて体が大きい。

「ごくり……ここが噂の競技会場ね……エリ、毎回見に来てるけど、参加者の付き添いで来るのは初めて」

 参加者たちは思い思いにストレッチしたり、グラウンドで順に練習をしたりしている。スポーツの試合前の、独特の緊張感が周囲に充満していた。それを感じ取ってか、サクラは口をつぐんでいる。

「よぉ、お嬢ちゃん、だれの付き添いィ?」

「って『負けイヌ』サクラじゃねえか。また負けにきたのかァ?」

 大輔の頭上から声がした。見上げると、ドーベルマン系のイヌ人の男が2人、にやつきながらサクラを見ていた。

「うるさいわね。失礼よ」

 サクラはドーベルマンたちを睨みつける。文字通り大人と子供ほどの差がある男たちに囲まれても、サクラは一切怯えることなく、むしろ喧嘩腰だ。試合前にトラブルがあってはならない、と大輔は止めに入ろうとする。

 その時、少年の声がした。

「ミカド、お前が止めろ。お前の取り巻きだろう」

 二人組の間から、人間の子供が、ひときわ屈強なドーベルマン系のイヌ人を連れて出てきた。小学生ぐらいに見える、身なりの良い男子だ。スロワーでの参加を示す腕章をつけている。

「……フン、お前ら、ガキにかまうのはそのへんにしとけ」

 ミカドと呼ばれた一番大きなイヌ人が、サクラを見もせずに言う。

「ガキですって?あたしはあんたたちと歳変わらないわよ。子供っていうなら、そっちの新しいスロワーのほうが子供じゃない」

「ハァ?アキラクンのことバカにしてんのかァ?!偏差値80あンだぞ?!」

「明クン舐めてんじゃねェぞ?!俺ら明クンのおかげでここまで来れてンだぞ?!」

 ガラの悪いドーベルマンの二人は、サクラに噛みつかんばかりの勢いだ。

「明クン!このガキどうしますか?!」

「試合前に一丁ノしときますか?!」

 明と呼ばれた少年は、手に持っていたタブレットをしまい、大人みたいにため息をついた。

「馬鹿なことを言ってるんじゃない。アップをするぞ、ストレッチしとけ」

「「ハイ!!」」

 二人組のドーベルマンは耳をピンと立てて、グラウンドのほうへ駆けていった。


「……うちの馬鹿イヌがすまないな。ミカド、お前も謝れ」

 少年はメガネを正して、大輔とサクラに軽く頭を下げ、連れているドーベルマンにも促した。

「……フン、ガキにガキと言ってなにが悪い。一度でも俺に勝ってから口答えするんだな」

「くっ、このぉ!毎年毎年ザコとかバカとか言って!今年こそあんたに勝つんだからね!」

 サクラがきゃんきゃん吠えてるのを見て、大輔は思い出した。ミカドは、インターミドルベスト8の実力者で、サクラが何度も敗北している相手だった。サクラとの練習でも、過去の競技会の記録を目安にしていたのだが、その記録の保持者がこのイヌ人だった。ディアナの突然の参加がなければ、彼が最後の壁になるはずだった。

「だが、まあ……」

 長身のドーベルマンがサクラを見下ろし、口の端を吊り上げた。

「基礎能力の足りてないザコも、自分の特性にあってないスロワーを選ぶバカも卒業したようだ。今年は期待してるぞ」

「ああ、そうだなミカド。映像で見るよりも筋肉量が増している。データを入れ替えないと……それでも、お前が負ける確率は0.1%だけどな」

 サクラは今まで見たことのない反応に、きょとんとして首をかしげた。

「……ねえエリ、今の何?」

「ほめられてるんだよ、サクラちゃん」

 そんなやりとりをしている間に、ミカドと明は去っていった。グラウンドの反対側では、ディアナが到着したようで、メディアや参加者が殺到していく。

「あたし、ミカドに少し認められた?ってこと?」

「そうだね……見てわかるぐらい、練習の成果が出てるってことだよ!」

 サクラはぐっと肉球を握りしめた。今までとは、周りの扱いも違ってきているようだ。この大会は、今までと違う。大輔にも、サクラのひりついた気合が伝わってくるようだった。

「アップにいきましょう、ダイスケ!」

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