第3話 サントラ(前編)

 プロ野球選手に憧れて野球を始める者は少なくない。しかし、高校の野球部を出て、プロ野球選手になれる確率は、0.2%に満たない。それでも、0.2%の側の人間は存在する。ディアナ・ボルゾイも、間違いなくそちら側の存在だった。

 グラウンドの端に、赤毛の青年とディアナが並んで立つ。青年の手にはディスクが握られている。

「ディアナ、GO」

 青年が短く告げると、ディアナが走り出す。垂れた耳と豊かな毛皮が揺れる。所作からはゆっくりとした印象を受けるが、長い脚が大きなストライドで動くたびに、ディアナはのびやかに加速していく。

 青年がディスクを投げた。ディスクは正確な軌道でディアナを追う。ディアナはそれを振り返って確認しない。走っている勢いをそのままに、優雅に、しかし力強く、体ごとターンして踏み切り、ふわりと跳躍した。高い。バレエかフィギュアスケートのジャンプを見ているようだった。着地の姿勢も全くブレがない。

「キャッチ位置、ぴったり基準点の倍だ……高さは、3.5m?!ターンキャッチで?!はぁーー、やば……世界レベルじゃん……」

 録画と並行して一連の動きを目に焼き付けていたエリは終始感心しっぱなしで、サクラはディアナの一挙手一投足を眼で追っていた。そのあと、ディアナたちは十数回キャッチを行い、何かの連絡を受けて引き上げていった。

「施設のグラウンドが復旧したので、帰ります。キミタチ、ありがとう」

 帰り際、赤毛の青年が頭を下げてきた。ディアナは、ずっと練習を見ていた二人の手をにぎり、外国語で何か話しかけた。

「『競技会ではよろしくお願いします』って言ってます」

「え……?!え?!あ、あはい」

 二人の尻尾が、その言葉にぴんと張り詰めたのが見えた。彼らがいなくなったあとも、二人はまだ現実を呑み込めていないようで、しばらく呆然としていた。

「……そうだ、格が違いすぎて一瞬忘れてたけど、あの人、エリたちと同い年なんだ……」

「『よろしくお願いします』ってことは……あたしと同じ競技会に出るってこと……?」

 つい先日ディスクドッグに関わり始めたばかりの大輔でも、ディアナとサクラには決定的な実力差があることがわかる。本人にとってはなおさらだろう。

「れ、練習するわよ!なんにしたって、競技会では優勝するしかないんだから」

 サクラは明るく言ってグラウンドに戻っていったが、三角の耳はずっと伏せられていた。


 その後のサクラの練習は、以前に増して熱が入っていた。しかし、動きはどうもぎこちなく、ミスを繰り返している。サクラの持ち味である爆発的な加速が、切れ味を失っている。

(さっきのボルゾイ系の動きに引きずられてるな)

 誰でも、眼の前で『本物』を見てしまったら、その強烈な印象からは逃れられない。テレビや動画で、画面越しに見るのとはわけが違う。『本物』の強烈な存在感を受けて、自分の中でイメージしていた動きが壊れてしまう、というのは、想像に難くないことだ。

 サクラは飛び上がってディスクを捉えようとしたが、手が届かずに失敗した。ディスクはグラウンドの向こうに飛んでいく。

「サクラ、休憩にしよう」

 大輔が言うと、サクラは悔しそうな顔をして頷いた。


 プロテインのドリンクを渡しながら、大輔はサクラと並んで座る。エリは家の用事で席を外していた。

「……ふがいないところを見せたわね」

 サクラは手に持ったドリンクを見つめていたが、しばらく口をつけることはなかった。

「いや、あれに影響を受けるのは仕方ない。……お前はあのボルゾイにはなれない。サクラだって、サクラのやり方があるだろう。落ち着いてペースを戻していけばいい」

「……いいのかしら。あたしのやり方で」

 耳と尻尾を見なくても、サクラが弱気になっているのがわかった。

「どんなスポーツでも、体のサイズで有利不利はある。それでもやるなら、やるしかないよな」

「ダイスケは人間で、しかも体も大きい方だから、そんなことが言えるのよ」

「……ごめん」

「……いいえ、あたしこそ、よくない言い方だったわ」

 またしばらく沈黙が流れた。

「聞かないの?」

「何を?」

「あたしが何で、ディスクドッグなんて向いてないスポーツをやってるのか」

「いや、それは、まあ」

 サクラの速力は、イヌ人の中でも上位にあると思う。あのボルゾイとも、単純に走る速さを比べたら負けないだろう。陸上競技であれば、かなり上位の結果が出せるはずだ。他にも、ディスクドッグと違い、体の大きさによる階級分けのあるスポーツもある。それなのになぜディスクドッグにこだわるのか、たしかに気にかかるところではあった。

「あたしのおじいちゃん、ディスクドッグの選手だったの。シバ・タケルっていって……当時のオリンピックで金メダル取ったこととかもある、有名な選手で」

 大輔は全く詳しくはないが、シバ・タケルの名前は聞き覚えがあった。日本のディスクドッグ選手で唯一のオリンピックメダリストだったと思う

「あたしが生まれた時には、おじいちゃんはもう走れる体じゃなかったけど。たくさんお話を聞かせてくれた……ディスクドッグの修行の話とか、海外で戦ったときの話とか。それで、言っていたの。『信じて走れば、なんとかなる』って。なぜかパパはおじいちゃんのことが嫌いで、あたしにもディスクドッグをさせたがらないんだけど……」

 サクラはそこで言葉を切り、ドリンクを飲み干した。

「あたし、小さいときから、おじいちゃんの話を聞いたり、映像を見たりしてて。だから、おじいちゃんが憧れなの。あたしと同じ小さな体で、他の国のおっきなイヌ人にも勝っちゃうんだから。あたしも、おじいちゃんみたいになりたいの」

「そうだったのか」

「おじいちゃんにも、相性のいいスロワーがいたわ。ちょっと前まであたしの練習も見てくれてたんだけど……今、ダイスケに投げてもらって、改めておじいちゃんの言葉の意味がわかった気がするわ。『信じて走れば』って、マシンに投げさせてちゃ、信じるも何もないもんね」

 サクラは笑った。口角のあがった、イヌ人らしい表情だった。沈んでいく夕日が、顔の輪郭の毛皮に透けて、金色の光になっていた。

「うん、やっぱり、もっと頑張らなきゃ。ダイスケも頑張ってくれてるし……あのディアナが相手なんだもん」

「まだやるのか?もう日が暮れるぞ」

「あとちょっとだけよ。ダイスケは先に帰ってていいわ。お疲れ様」

 ディアナの動きに影響されすぎている今、しばらく無心で動いて自分の感覚を取り戻したい、というのもあるかもしれない。昼間にもかなりの練習量を重ねていたが、イヌ人の体力なら問題ないのだろう。

「ああ、お疲れ様。ムリはするなよ」

 大輔はグラウンドを後にした。背後からは、ディスクを射出するマシンの音が聞こえた。


 その夜、大輔が風呂からあがると、スマホに連絡が来ていた。エリからだ。

『サクラちゃんから練習あがったって連絡がないんですけど、何か聞いてますか?』

 嫌な予感がした。サクラは練習が終わると、マネージャーがわりのエリに、必ずメニューを連絡していたからだ。

『聞いてないな。18時ごろに俺が先にあがって、その後自主練するって』

 今はすでに20時を回っている。大輔はエリにメッセージを送った。

『公園を見に行ってくる。何かあったのかも』


 大輔は服を急いで着替えて運動公園に向かい、ベンチの影でぐったりとしているサクラを見つけた。

「サクラ!!」

「サクラちゃん!!」

 ちょうどエリも同じタイミングでついて、二人でサクラに駆け寄る。呼吸と脈拍、外傷の確認。幸い、全て正常だった。グラウンドはすでに閉鎖されていたが、サクラの小さい体は見回りの警備員にも発見されなかったようだ。

「んあ……あれ、ダイスケ……エリも……」

 サクラが目を覚まし、ぼんやりと大輔たちを見る。

「サクラちゃん、どこかケガしてない?痛いところは?」

「ないよお……ちょっと休憩して、帰るつもりだったんだけど……」

 そして、また目を閉じて、寝息を立て始めた。大輔は胸をなでおろす。

「ひとまず無事そうだ……寝ているだけに見える」

「よかった……前もあったんです、こういうこと。エリが止めないと、ずっと練習しちゃって」

「……俺が、ちゃんと見てれば……」

 イヌ人の体力を過信しすぎていた。一歩間違えれば、もっと大きな事故になりかねなかった。大輔は歯噛みした。その横で、エリは手早くどこかに電話している。

「サクラちゃんのご両親に連絡しました。迎えにきていただけるそうです」

「そうか」

 サクラの両親が来るとなれば、自分の監督不行き届きを謝らなければならない。サクラがディスクドッグをやっていることをよく思っていないのなら、なおさらだ。

 しばらくして、車が公園に乗り付けた。サクラの父親らしきシバ系のイヌ人が出てきて、サクラに肩を貸した。

「やあ、君が増田くんだね」

 当たり前だが、父親もシバ系だった。穏やかな表情で、声のトーンは落ち着いていた。文字通り噛みつかれてもおかしくないと思っていた大輔は、少し拍子抜けだった。

「すみません、俺が……」

「いや、話は聞いているよ。サクラが世話になったね」

 サクラを車に乗せると、父親は大輔を見上げて言った。

「君もこんな夜遅くに、わざわざ大変だったろう。乗っていきなさい。うちは近所だから、お茶でも飲んでいきなさい」

「い、いえいえ、そんな」

 頭を下げて遠慮する大輔の言葉を、父親は遮る。

「乗りなさい、と言っているんだよ」

 街灯の光が、父親の黒い目に鋭く反射した。

「少し、話をしよう」

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