第58話 人智を越えた心臓移植

 チェリト大尉と、ミコットは、ちょうど病院に到着したときだった。


 ミコットは、銃撃戦の現場から離脱したことで、心労から解放されていた。


 ただし心臓の調子は悪いままだから、いますぐ医者に見せないといけない。


 自動車を降りて、病院に入ろうとしたら、ひゅっという風の音が聞こえて、ずしりと振動が響く。


 大きくて黒い巨体が、すぐ近くに着陸していた。


 神話の怪物、ブラックドラゴンである。


 しかもこの恐ろしい怪物は、大きな手でムルティスを鷲づかみしていた。


 チェリト大尉は、あ然とした。


「ブラックドラゴン……召喚されてしまったのか……」


 ブラックドラゴンは、チェリト大尉を無視。


 ミコットを凝視した。


(このか弱き娘が、お前の妹だな。たしかに心臓が弱っていて、いまにも動きを止めようとしている)


 神話の怪物は、人間の文脈を無視して、自分のやりたいことをやっていく。


 ドラゴンの強力な魔法を指先に込めると、ムルティスの心臓を生きたまま引き抜いた。


 どくんどくんと元気な心臓が、ブラックドラゴンの指先で跳ねていた。


 医学で判定すれば、指先で摘出された臓器が生きたままなんて、目を疑う光景だろう。


 だが神話クラスの魔法であれば、こんなこと序の口であった。


(ちょっと痛いぞ、我慢しろよ)


 ブラックドラゴンは、兄から摘出した心臓を、妹の胸に押し当てた。


 まるで、おしくらまんじゅうみたいに、妹の古い心臓が外に飛び出して、兄の元気な心臓がすっぽり収まった。


 ミコットは、胸に手を当てた。


「えっ……わたし、生きてる」


 妹の古い心臓は、地面に落ちていた。いかにも病気を患った臓器の色をしていて、すぐに活動を停止した。


(ミコットよ。お前は兄の心臓を手に入れて生き延びた。だが今後の人生は苦難の連続だろう。ではさらばだ、特等席でそんぶんに楽しませてもらうぞ)


 ブラックドラゴンは、黒い幻影を空間に生み出すと、一瞬で消えた。


 どうやら自分の世界へ帰ったらしい。


 なぜこれまでの通例に従って、呼び出した国を滅ぼさなかったんだろうか。


 まったく理由がわからないが、一つだけわかっていることがあった。


 ムルティスは、ブラックドラゴンの魔力により、短い時間だが、心臓を失いながらも妹と会話できることだ。


「よかったな、ミコット。これで健康体だぞ」


 ムルティスは、妹の頭をなでた。


「でもお兄ちゃんの心臓が」


 ミコットは、兄の胸に手を当てた。ぽっかり穴が開いていて、心臓は消えていた。


「いいんだ、これで。お兄ちゃん、たくさん悪いことして、お金を稼いでしまったから」


「でもそれは、あたしの心臓のためで、しょうがなく」


 妹は兄の無実を信じていた。本当はそんな人じゃなくて、心臓移植の費用を稼ぐために、仕方なくやっていたんだろうと。


 だがムルティスは、妹の将来のために、本音を伝えることにした。


「違うんだ、ミコット。お兄ちゃんは、犯罪者なんだ。みんなと一緒に悪いことをしてお金を稼ぐのが、本当に楽しかったんだ」


 大尉、軍曹、少尉。この三人と一緒にBMPを密売をして稼ぐ日々は、軍隊にいたころより楽しかった。


 思い描いていた未来もあった。


 もっと多くの悪事で大金を稼いで、ガナーハ軍曹みたいに立派なお金の使い方をしたかった。


 休日になったら、新しく友達になったジャラハルと一緒に観光スポット巡りを楽しむのもいい。


 もちろん軍曹と一緒に、傷痍軍人レストランで談笑するのもいいだろう。なんなら軍曹にジャラハルを紹介してもよかった。


 なんて幸せな生活だろうか。人生の充実とはこのことか。この人生が、ずっと続けばいいのに。


 そう思っていた。だが失われてしまった。


「お兄ちゃん……」


 ミコットは複雑な表情で、ムルティスの手をぎゅっと握りしめた。


 徴兵される前の兄は、人を殺すことも、誰かに殺されることも恐れていた。


 それなのに、戦争から帰ってきたら、職業犯罪者として順応してしまった。


 だが犯罪に適応した兄が、妹を助けるために全力を尽くして、最後は自分の心臓を与えたことも、また事実だった。


 こんなわけのわからない情報、肉親としては、どう受け止めていいかわからないだろう。


 ムルティスは、妹の混乱を取っ払うために、はっきりと伝えた。


「ミコット。お兄ちゃんは、悪いやつなんだ。こんなやつを目標にしちゃいけない。お前は、真面目に生きるんだ。ディランジー少佐みたいに」


 ディランジー少佐が正しかった。たとえ元軍人たちが迫害されようとも、警察に転属してまで筋を通そうとした。


 ああいう生き方を妹はするべきなのだ。


 自分のようになってはいけない。


 なぜならこうやって妹に別れを告げているときも、心は犯罪組織に残っていたからだ。


 ムルティスは、チェリト大尉と握手した。


「大尉、お世話になりました。俺は軍曹のところへ行きます」


 チェリト大尉は、ムルティスの手を握り返すと、ぽろりと一滴だけ涙を流した。


「あの世にいってからも、仲良くやってくれよ。お前らは最高の義兄弟だった」


 義兄弟。いい響きだと思った。


 ずっと兄貴分と弟分でやってきたが、いっそのこと生きているうちに義兄弟の誓いを立ててしまえばよかったのだ。


 そんな後悔は、あの世に行ってからでも間に合う。あの世で軍曹と再会したら、義兄弟の誓いを立てればいいだけだ。


 だがもう一つの後悔、潜入捜査という嘘をチェリト大尉に話すべきかどうか迷った。


 本当は話すつもりだった。心臓移植をする前に。


 だが妹のミコットのために、申し訳ないが秘密にしておくことにした。


 もし潜入捜査のことを話したら、ミコットはムルティスのやってきた悪事は、潜入捜査のための建前だったと勘違いしてしまう。


 それではダメなのだ。ムルティスは正真正銘の悪人だ。妹の反面教師にならないといけない。


「ミコット、父さんと母さんに謝っておいてくれ。俺はどうしようもない悪人だったって」


 潜入捜査の秘密を抱えたまま、ついにブラックドラゴンの魔力が切れた。


 ムルティスの肉体は、急速に力を失って、ぱたりと倒れる。


 心臓を失っているのだから、即死であった。


 ムルティスの死体も、笑顔を浮かべていた。やりきった表情である。造幣局の戦いで死んでいった戦士たちと同じであった。


 チェリト大尉は、ムルティスの死体を抱きとめると、がくっと膝をついた。


「みんな死んでしまった……だがおれだけは生き残らないと、ムルティスとの約束だからな」


 妹のミコットは、兄の死体を見下ろして、そっと涙した。


「わたし、忘れないよ。お兄ちゃんが、わたしのために、がんばってくれたこと」

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