五章

第39話 自家用車の値段

 ムルティスは肩を負傷したことにより、表の仕事も裏の仕事も二日ほど休みになっていた。


 もし潜入捜査を優先するなら、いますぐリストアップされた物件を調べたほうがいいんだろう。


 だが妹のミコットが入院したならば、ディランジー少佐には悪いが、実家に帰省することにした。


 自家用車で実家に帰ると、父親が悔しそうな顔で出迎えた。


「お前が悪い金を仕送りしてくれなかったら、ミコットを入院させることもできなかった。悔しい、悔しいなぁ……父親のおれが、もっと稼げればなぁ」


 ムルティスは、父親の気持ちが痛いほどわかった。


 本当だったら、ムルティスから受け取った仕送りには、手をつけたくなかったんだろう。


 だがミコットを入院させるためには、汚い金を使うしかなかった。


 父親が生粋の善人だからこそ、この事実に打ちのめされていた。


 なんにせよ、潜入捜査を継続するためには、建前と機密を守る必要があった。


「悪い金じゃないんだ。いいがかりはやめろよ」


 ムルティスは、家族に嘘をついたことで、ずきりと心が痛んだ。


 だが心の動きを表情に出したら、潜入捜査がバレてしまうので、あえて怒ったフリをした。


 しかし父親は、かたくなに認めなかった。


「いいがかりなもんか。おれだって中卒だから、都会で学のないやつがどういう扱いを受けるのか知ってるぞ。安月給のきつい仕事しか残ってないんだ。それなのにお前は羽振りのいい生活してやがる。なんだあの車は。安月給じゃ、あんないい車乗れないんだよ」


 ムルティスの自家用車は、けっしていい車ではない。


 ありふれた大衆車を新車で購入しただけだ。


 しかし戦争が終結した直後に、都会で一人暮らししている若者が、ぽんっと現金だけで買えない値段でもあった。


 父親の金銭感覚は、驚くほど正確だった。


 となれば、息子であるムルティスが、父親に疑われないように、ぼろぼろの中古車に乗るべきだったのだ。


 うかつな買い物だったことは認める。


 だがしかし、金の出所なんて言えるはずがないので、適当にごまかすしかなかった。


「とにかく妹の手術費用は俺がどうにかするから、父さんと母さんは普通に暮らしててくれ」


 父親は、ムルティスの肩をつかんで、ぐいぐいと揺さぶった。


「ちくしょう、なんでミコットは心臓の病気なんだ。神様がこんな意地悪しなけりゃ、お前が悪いことして金を稼ぐ必要もなかったのに」


 母親は、夫と息子の口論を目の当たりにして、ぽろぽろと泣きだしてしまった。


「残酷だねぇ。なんでこの世界は、こんなにも不平等なんだろう」


 ムルティスは、母親の気持ちも、なんとなくわかっていた。


 きっと父親よりは汚い金に抵抗がないんだろう。


 だが息子が悪事に手を染めていることに抵抗があった。


 しかし息子が悪事で稼いだ金を拒絶したら、娘のミコットが死んでしまう。


 八方ふさがりであった。


 そんな両親の心の揺れ動きで、もっとも悲しいことは、ムルティスをまったく信じていないことだった。


 どれだけ悪い仕事はしていないと本人が否定しても、これだけ稼げるなんて悪い仕事に決まっていると聞く耳を持たないのだ。


 だが、両親の疑いは的中していた。


 ムルティスは、犯罪組織の幹部クラスとして、常識外れの収入を持っていた。


 たとえそれが潜入捜査の結果だったとしても、心も体も犯罪で稼ぐことに馴染んでしまった。


 しかし犯罪で稼げる才能があったから、妹のミコットの入院費用を払えたこともまた事実である。


 もしかしたら、終戦直後の混乱期だからこそ、こんな複雑な事情が生まれてしまうのかもしれない。


 たとえば酒場の女将が、マフィアのボスを爆殺して、三人の子供の学費を払えるようになったのも、ムルティス一家と同じ事情であった。


「細かいことはともかく、妹のことは俺にまかせろ。父さんと母さんは、自分の生活を守ることだけを考えるんだ。それじゃあ俺はミコットの入院先に行くから」


 ムルティスは、強引に会話を切り上げると、自家用車に乗り込んで、妹が入院する病院に向かった。


 バックミラーは見られなかった。両親がどんな顔をしているのか想像がついたから。


 両親は、ぴかぴかの新車で逃げ出していく息子を見て、いつどこで子育てを間違えたんだろうかと号泣していた。

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