第2巻-第15幕- かつて込められた愛言葉
家に帰った柊茄と暮撫だったが、暮撫は家に帰るや否やすぐに自室へと閉じこもってしまった。台所に立たず、いつも笑って夕飯を作っていた姿はどこにもない。
十九時頃、舞柚の声が聞こえてきたが、返事をする気もなく、窓から姿を現す気にもなれず、ただ自室のベッドで布団を被って閉じこもっていた。
「お母さん? 大丈夫?」
柊茄の声がドア越しから聞こえてくる。暮撫のことを心配そうに聞いてくるが返事が返ってくることはなかった。
「舞柚さんが肉じゃがとか色々作ってきてくれたから食べてね。ドアの前に置いておくよ」
カシャッとアルミのお盆らしき音がドアから聞こえ、柊茄の足音が遠ざかっていく。
そのまま食べないという選択肢もあったが、折角舞柚が作ってくれたものだし無碍にすることはできなかった。
暮撫は小さくドアを開けると、そこにはドアに引っかからないように置かれた肉じゃがと炊き込みご飯のセットが置いてあった。五百ミリリットルのピッチャーには麦茶が注がれており、氷が浮いているのが分かる。冷めないようラップが巻かれており、水蒸気が水滴に変わって、ラップに張り付いている。
ゆっくりと持ち上げて落とさないように自室の机に運んだ。
「……いただきます」
一人寂しく食べる夕飯はいつぶりだろうか。いつもは柊茄がそばにいたが、今日は一人。いただきますの挨拶もか細く空気の中に溶けていく。
まだ温かい肉じゃがはジャガイモにまでしっかりと醤油ベースの味が染みこまれており、箸で摘まむとほろほろと崩れていく。かなり煮込まれた証拠で、人参も非常に柔らかく、玉葱に関しては溶け始めていた。如月家では牛肉を使っているようで、いつも豚肉の肉じゃがを作っている暮撫にとっては新鮮だった。クセのない牛肉の香りと味が噛むごとに広がっていく。
炊き込みご飯はしっかりと茶色に染められており、ラップを取っても微かに湯気が出ていた。一口食べると醤油とご飯の甘味が絡み、タケノコのシャキシャキとした感触が広がっていく。大きく切られているタケノコは暮撫の好物でもあった。
「……ちょっと濃いかな」
舞柚の味付けはとても美味しい。だけど、いつも薄口で作っている森宮家にはこの味付けは濃いように感じた。
氷の入った冷たい麦茶は今のもやもやした感情を綺麗に流してくれそうだった。
そうして進む一人の夕食の時間。ご飯を食べ終える頃には既に二十時を回ろうとしている。
「……ごちそうさま」
と食事の終わりの挨拶を小さく呟くと同時に、ドアから柊茄の声が再び聞こえてくる。
「お母さん? ご飯食べたら廊下に置いといてね。後で私が洗っておくから。あ、それとお風呂あと十分くらいしたら湧くから、ちゃんと入ってね」
いつもなら拗ねた柊茄に自分が言う言葉なのに、言われる立場になると何故か少し恥ずかしく感じる。
柊茄に言われたとおり、廊下に食器とお盆を置いた。
柊茄は逞しく育った。もう自分から教えることは何もないくらいに。
それに比べ、今の自分はどうだろうか。
大人にもなって、部屋に閉じこもって、娘に世話をされて。
恥ずかしいったらありゃしない。穴があったら入りたいくらいだ。
それもこれも全部あの話のせいでもあるし、自分が引き起こした種でもあるのだ。
西峰が結婚詐欺犯という言葉は寝耳に水だった。まさかそんなことあるわけないと自分に言い聞かせていたが、思い当たる節はいくつかある。
ただ、思い当たるのはこうして冷静になっているからであって、今までは気づけていたのかと聞かれたら黙るほかない。
再婚するという言葉にきっと自分自身が浮かれていたからだろう。だから西峰の不審な点などを気づくことができなかった。
仮に気づけたとしても、西峰にそのことを言えたのだろうか。
否、言えなかっただろう。
お互いとは言い難いが、少なくとも暮撫は西峰のことを愛していた。もちろん、病気で亡くなった夫の思いは今でも忘れていない。
愛している人を無闇矢鱈に疑うことはできない。それが暮撫の性格であった。
だからこそ西峰を疑うことができず、何かに気づけたとしても言うこともできなかったのだ。
カララ……。
窓を開けて夜風に身を委ねてみる。ただの気分転換だ。
「…………」
このまま自問自答を繰り返していると、いつか自分が壊れてしまいそうな気がしている。
ヒュオォと夜風は少し激しく吹いていた。それ故に昼とは温度差が違って肌寒さを感じる。
星々は綺麗に光っていた。雲一つない満点の星空が頭上に浮かんでいる。
この二年間は一体何だったのか。
自分は夫と並ぶ男性を見つけて浮かれていただけだったのだろうか。
自分はただ西峰の掌の上で弄ばされていただけだったのではないか。
自分は何もせず、このまま警察が解決してくれればいいと思っているのではないだろうか。
ブンブンブンと首を何回も横に振り、今の考えを全て捨てる。
このままで良いはずがない。塞ぎ込んでばかりいては柊茄に見せる顔がない。
それこそこの失恋でくよくよしていては、結婚詐欺から立ち上がった人たちにも会わせる顔がない。
首を振るだけでは目が覚めなかったので——
バチーン!
と頬を両手で叩く。
「——つっ」
頬に痺れる程の激痛が走るが、むしろこの激痛がいい興奮剤となった。
浮かれていた自分に対しては反省の予知があるが、今は目先のことをのみを考えていればいいのだ。
自分と同じ境遇の人を出さないために、西峰……東川長佐は必ず逮捕せねばなるまい。
奪われたお金はいつか取り戻すことができるが、この二年間という時間は二度と戻ってくることはない。
ならばせめて自分ができる手段を用いて警察に協力することが、今の自分にできる唯一の方法だろう。
「……ふふっ」
ほんの数分前の塩らしさは一体どこへ行ってしまったのだろう。自力で立ち直った今の自分とさっきの自分を比べると、途端にバカらしくなって笑った。
ビュオッ!
不意に風が強くなり、部屋の中に強風が吹き荒れる。それはほんの一瞬のことだったが、その一瞬を突かれ、本棚からあるものが落下した。
本棚からガーンガッと豪快な音を立てて落下したものは小さなお菓子箱で、落ちた弾みで蓋が開き、中身が床に飛び散っていた。
「これは……」
お菓子箱に入っていたものはラミネートされた栞だった。いくつも歪(いびつ)な形で暗号のような文字が書かれているが、暮撫はすぐにこれが何なのか思い出す。
「これ、柊茄が小さい頃の……」
床に散らばったのは、柊茄が子供の頃に如月喫茶に通い詰めて大量に作った栞の数々だった。綺麗なラミネートが施され、十数年経った今でも丈夫に作られているのが分かる。
「懐かしい……あの人も一時期ハマってたわね」
栞のクオリティーで柊茄が作った栞なのか、夫が作った栞なのか一目瞭然であった。柊茄でも夫のものでもない栞も数個混じっていたが、これはきっと一牙のものである。
栞一つ一つを懐かしむように柊茄が作った栞と、夫が作った栞とで分けていく。
栞の数はそんなに多くなかったため、すぐに分けることができた。
柊茄の栞は色画用紙を切って糊で貼り付けてラミネートしたシンプルなデザインとなっている。独創的な模様の数々が埋め込まれ、子供の頃の豊かな創造力に思い知らされそうだ。クレヨンで書かれた歪な文字には「おかあさん」と読めるものもあった。
一方、夫の栞は色画用紙を細かく丁寧に切り、花形や星形を作って糊で貼り付けたデザインの栞だ。色鉛筆でグラデーションされたものは雪景色や満天の夜空を思い浮かべるデザインとなっている。
「これじゃあ、あの人の方がハマってたと言わざるを得ないわね」
ふふっと笑いながら栞をお菓子箱に片付けようとする。すると、夫の栞の片隅に何か文字が書いてあるのが見て取れた。目を凝らしてよくその文字群を見てみる。
『この夜空の星のように、俺はずっと君を見ている』
『雪はすぐに溶けるが、俺たちの愛はすぐには溶けない』
『桜の出会いはきっと素晴らしい運命の一片』
「これって……」
まるでポエムのような一節だが、暮撫にとってこの一節はポエムでも何でも無かった。
この一節は夫が自分に向けたメッセージ。単調でも優しい愛言葉。
今、この場にはいないけど、きっと空から自分を見守ってくれている。そう感じるサプライズみたいな贈り物だ。
「尚更、負けるわけにはいかないわよね」
挫けている姿をあの人はきっと見たくないだろう。
なら、これから自分がやるべきことをしっかりと見据えた姿の方が見たいのではないだろうか。
絶対、空の上から応援してくれている。なら、その声援に応えるべきだ。
と改めて意気込んでいると——
ガチャッ。
「お母さん? お風呂湧いたよ?」
風呂が沸いたことを知らせに来た柊茄が入ってきた。
「あ、ごめんね柊茄。これから入るわ」
「あ、うん……」
暮撫はまとめていた栞をお菓子箱に戻し、蓋を被せる。
本棚の上に置こうとすると、柊茄がお菓子箱を見て「あっ!」と言った。
「お母さん、それって私が小学校の時に作ってた栞?」
「ええ、そうよ」
「ちょっと見せて!」
柊茄は暮撫からお菓子箱を受け取ると、蓋を開けて栞を手に取って眺め始めた。
「まだあったんだー。ねぇお母さん、一牙ったらね、私がプレゼントした栞、今も使ってるんだよ」
「あら、よかったわね」
「今度、麗歌と一緒に作ろうって話になったんだ」
「ふふっ、楽しそうね」
キラキラと目を輝かせて話す柊茄から、どこか夫の面影を感じる。
暮撫は柊茄と夫を照らし合わせて話を聞いていた。
「お母さん、もう大丈夫なの?」
「ええ。もう大丈夫。心配かけてごめんね」
「そう? ならよかった! お母さんには負けて欲しくないもん」
「そうね。さて、お風呂入ってくるわ。柊茄、色々ありがとう」
「いいよいいよ、気にしないで。ゆっくり入ってきてね」
「そうさせてもらうわ」
今日のお風呂は時間が経っていたせいか少し温く、けど心地良い温さだった。
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