第2巻-第7幕- 赤飯が並ぶ定休日
プルルルル……。
「はい、森宮です」
『あ、暮撫さんっすか?』
「その声は……
『そうっす。ちょっとお願いしたいことがありまして』
「何でしょう?」
『実は来週のGWに俺の先輩の結婚式が行われるんすが、そのための祝儀金を少しだけ出していただけないかなって思いまして』
「それはおめでとうございます。私たちと同じですね」
『そ、そっすね……。で、本題なんすけど、マズいことに通帳をどっかに落としちまったらしくて、今銀行にいるんすけど、一応引き出しとかできないようにしたんす。今ちょっと手持ちも少なくて祝儀に入れる分は無いというか……。なのでお願いします! ちょっとだけ貸して貰えないっすか?』
「いくらくらいですか?」
『実はその先輩、俺が高校時代の時の先輩なんすけど、めちゃくちゃよくしてくれたんすよ。なので、ここでその感謝を伝えたいなーって思ってて……。十万あげたいんすよ』
「十万ですか……」
『だ、ダメっすかね?』
「いいですよ。先輩にしっかりとした感謝を伝えてあげてください」
『本当っすか!? ありがとうございます! それじゃあ、明日取りに伺います』
「はい。お待ちしていますね」
ガチャッ。
♢ ♢ ♢
翌日、いつも通りの時間に起床し、店の開店準備をしていた一牙。隆善が肉を焼く音と香ばしい匂いが食欲をそそる。
看板を外に出し、プレートを『Open』にして、観葉植物に水をあげて朝の業務は終了。
コップに水を入れてカウンターで朝食ができるのを待つ。
カランカラン。
「おはようございます」
「弓夏さん、おはようございます」
モーニングの時間を担当する曇妬の母親、六輪弓夏と挨拶を交わす。
「一牙君。昨日貰った赤飯美味しかったわよ。ありがとうね」
「それはよかったです。でも、その言葉は俺じゃなく、母さんに言った方がいいと思いますよ」
「それもそうね。でも、我が家では赤飯なんて滅多に作らないから」
「曇妬は赤飯が嫌いって言ってましたけど」
「そこはだいじょーぶ。あの子が食べやすいよう私が工夫したから。料理研究家の力は伊達じゃないわよ」
「そ、そうですね……」
苦笑いを返す。少しだけ曇妬の身を案じた。
弓夏は料理研究家である。テレビに出るほど名の知れた料理研究家ではないのだが、二冊か三冊ほど、アレンジレシピに関する本を出版している。舞柚もよくその本を見て、夕飯の献立を考えている。
「おーし、できたぞー」
隆善が焼いた肉を載せた皿を持ってくる。焼肉のたれと塩胡椒で味付けをした鶏肉のようだ。鶏肉は三枚ほど重なっているレタスの上に載っており、焼肉のたれがレタスにまで染みこんでいる。色合いも兼ねてか、ミニトマトが三個ある。カタッと一牙の前に置くと、一度厨房に戻り、ご飯と味噌汁を持ってきた。
しかし持ってきたご飯は白飯ではなく赤飯だった。
「朝から赤飯か……」
一牙は「はぁ……」と溜め息をしつつ、箸を手に取った。
「しょうがねぇだろ。母さんが大量に作ったんだから」
「いや、そうかもだけど……」
「なーに。弁当にも入れておいたからさ。たんと食え」
「ええ……」
暫く赤飯は見たくないアンド食べたくないと悟った一牙。小さく溜め息をついて「いただきます」と朝食を食べ始める。
赤飯の味に飽き飽きしながら朝食を食べ終えた一牙は、カウンターに用意してあった鞄を取って学校へ向かった。
五月下旬並みの今日の朝の暖かさは、来ているブレザーの上を脱いでもいいくらいだ。暑さを凌ぐための扇子でもそろそろ持ってこようかと登校途中に考える。
教室に到着すると、鞄を机の横に掛け肘をついてのんびりする。そののんびりとした一時は教室にいた先客に奪われる。
「おはようございます。一牙さん」
「おう、おはよう」
前の席で読書していた麗歌が一牙が来るや否や、一牙の席まで来た。
「やけに今日は早いな」
「ちょっと今日は早めに目が覚めてしまったんです。家にいても特にすることはないので、登校してきました」
「そうか」
一牙が早く目覚めた時は主に店の開店準備をすることが多い。たまに自分で朝食を作ることもあるが、時間的な関係で半熟の目玉焼きとインスタントの味噌汁くらいしか用意ができない。隆善みたいにもう少し料理のテンポが上げれたらと常々思う。
「昨日いただいたお赤飯、とても美味しかったです。ありがとうございました」
「そりゃあどうも」
「お父様やお母様も美味しく食べて下さいました」
「口に合って何よりさ。感謝の言葉は母さんにでも言ってくれ。俺じゃなく」
「あっ、そうでしたわね」
一牙は櫻木家の食卓の様子がどんなものなのか分からない。そこに母親の舞柚の赤飯が並んだという光景が少し異様な気がし、同時に櫻木家に出してよかったものなのかと小さく萎縮する。
やはりお嬢様の食卓の様子は豪華なものばかり並んでいるのだろうか。
気になった一牙は麗歌に訊ねてみる。
「……麗歌。今朝って何食べた?」
「どうしたんですか? 藪から棒に」
「いや、ちょっと気になっただけだ。答えたくなかったら答えなくていい」
「今朝ですか……。国産の白米と、白味噌のお味噌汁、ししゃも三尾にキャベツとほうれん草のゆかり和え、納豆ですわね。これがどうかしましたか?」
「…………」
「一牙さん?」
「あ、ああすまん。ちょっと驚いてた」
まさか自分たち一般的な庶民の食卓と同等だったとは思ってもおらず、一牙の思考はどこかに飛んでいっていた。
朝食のメニューだけは一般的な庶民と同じで、夕食だけはフォアグラなどが並ぶ豪華仕様だったりしないだろうか。質問の意図を間違えた感じがした。
「もしかして勝手な想像されてたりしていましたら嫌なので、早めに弁論させていただきます。私たちの食卓は基本的に一牙さん達と同じ食卓を囲んでいますわ。調理している人たちはプロの料理人ではありますし、食卓を囲む場所も一般的な家庭とはかけ離れていますが、使用している食材、調味料などはスーパーで売られているものと大差ありません」
「そうなのか」
「はい。ドラマなどでは豪華な食事のシーンが流れたりしますが、少なくとも櫻木家ではそういった豪華な食事はあまりしませんわ」
「なるほどな。俺の価値観が変わった気がした」
ついでに麗歌がドラマを見る程まで自由な時間が設けられていることを。
「そういった想像をされるのも無理はありませんわね」
少なくとも櫻木家では舞柚の赤飯が並んでもおかしくない食卓を毎日囲んでいることが分かった。一牙が思い描いていた憧憬が崩壊し、泡となって消えていく。
「よろしければ、一度我が家で食事してみますか?」
「またとない機会だな。ちょっと考えておくよ」
「はい。いつでもお待ちしていますわ」
自分が発言した通りまたとない機会ではあるのだが、どんな料理が繰り出されるのか想像もつかない。麗歌が「食卓を囲む場所も一般的な家庭とはかけ離れている」と言っていたが、つまりはどこかの城の晩餐場みたいな長机と燭台が置かれていたりするのではないだろうか。実際に見てみないと本当かどうか分からないが、興味がある反面、自分がそこにいていいのかと思う一牙であった。
第一、財閥の令嬢と友人関係になっていること自体、今になって考えてみればとても信じられないことではないだろうか。
「一牙さん、今日もお店の方、行きますわ」
「ほぼ毎日来てくれるのは嬉しいんだが、今日は火曜日。定休日だぞ」
「あっ! そ、そうでしたわね……」
如月喫茶の営業時間は午前七時半から午後五時、定休日は火曜日である。
「おいおい、まさか忘れてたんじゃないだろうな?」
「あ、あはは……」
愛想笑いで誤魔化す麗歌。一牙は少し呆れ目で麗歌を見た。麗歌は如月喫茶で働き始めたてであり、店の営業時間と定休日だけは頭に入っているつもりだと一牙は勝手に解釈していた。
「まぁ別に店で寛ぐことには否定しないけどよ」
「すみません。居心地がいいものですから……」
「そりゃどうも。でも、定休日の火曜日だけは俺は店にいないことの方が多いぞ」
「お店にいない……どこかに行かれているのですか?」
「まぁな。ちょっとだけ研究しに」
「研究? ですか……」
麗歌が首を傾げて思考を巡らす。
一牙は定休日の火曜日には研究のために自分の趣味に没頭する。その研究は家や如月喫茶ではできないため、いないことが多いのだ。店の手伝いを本格的にやり始め、店を継ぐ意識が高くなってからか、この研究兼趣味に目覚めた。
この研究は自分自身の腕を磨くための勉強でもあり、同時にその業界のことを学ぶ時間でもあるのだ。有意義に時間を活用したいため、定休日の火曜日だけは店の手伝いを行わないこととしている。
「一牙さん、一体何の研究をしているのですか?」
「それは教えられないな。少しだけヒントを与えるなら、入学式当たりの麗歌の境遇に若干近いかもしれない。ま、束縛されてた時みたいに強制的ではないけどな」
「私の境遇に近い……」
傾げていた首を反対側に向けて麗歌はさらい脳を回転させる。十数秒間、上の蛍光灯を見ながら答えを探していたようだが、見つからなかった。
「分からないですわね。一牙さん、教えて下さいませんか?」
「それじゃあ店で寛ぐ時間を、俺の研究を知る時間に変えるか?」
「そうしますわ」
「了解」
一牙の研究は誰かに知られてもどうということはない。ただ、一牙と同じ境遇の人に話したり、研究している場所に関係する人に知られたりすると少しマズい事態になる可能性がある。
「よーお二人さん」
「おはよ」
そこに一緒に登校してきたらしい曇妬と柊茄が来る。荷物を下ろし、席に座って一牙たちの話の輪に参加した。
「おはよう」
「おはようございます」
一牙と麗歌はしっかりと朝の挨拶を二人に返す。
「今日は体調の方は大丈夫なのか?」
「うん。平気。寝不足とお母さんの再婚話でちょっと参ってたみたい。心配してくれてありがと」
今日の柊茄の顔色からいつもと同じ明るい感じが伝わってくる。昨日のようなどんよりとした感じではなくて一牙はほっと安堵した。
「体調が元に戻って何よりですわ」
「あ、それと赤飯ありがと。すごく美味しかった。お母さんもありがとうって」
「それそれ。赤飯微妙に嫌いな俺でも普通の白飯のように食えたんだよ。すんげー美味かった。あんがとよ!」
「そりゃどうも。帰ったら母さんに伝えておくよ」
大好評で何よりだ。これを舞柚に伝えたら喜ぶ反面、喜びすぎてまた赤飯を大量に作らないかどうか懸念する点がある。
曇妬の赤飯に関しては、今朝に弓夏が食べやすいようにしたと言っていたが、それのおかげなのだろう。
「ねぇ一牙、気持ちが落ち着くまで店には行かないって決めてたけど、やっぱ行っていい? お店でちょっと落ち着きたいの。精神的にも」
「そりゃ構わないけどよ、今日火曜日だぞ」
「あっ、そっか……」
柊茄も今日が定休日だっていうことを忘れていたらしい。とても珍しいことだ。
「うーん……今日は思いっきりあのミルクティーの気分だったんだけどなぁ。でも定休日じゃあ仕方ないよね」
「仕方ねぇじゃん。また明日行けばいいだけの話だろ?」
「そりゃあそうなんだけど、今日、お母さんの再婚の人が家に来るっぽいのよ。だから会う前に気持ちを落ち着かせたかったの」
「ふーん……柊茄も色々と大変なんだな。俺はよく分っかんねぇけどよ」
「別に曇妬の同情なんかいらないわ」
「ひっでぇ……」
二人の仲はいいのか悪いのか、何とも言えない会話が一牙の間で交錯する。
柊茄のためにも店は開けたい気持ちがあったが、先ほど麗歌と一緒に一牙の研究をしに行くと約束したばかりである。麗歌も店に来たがっていたので、研究を取りやめにして店を開けてもいいのかもしれない。
一牙の研究もそこまで重要視する程のレベルではない。今日ができなければまた来週の火曜日に研究をしに行けばいいだけである。
今日の予定の取りやめを麗歌に伝えようとした時——
「なぁ一牙、定休日ってことは今日もどっか行くのか?」
曇妬が机から身を乗り上げてきて一牙が伝えようとしたことを遮った。
「あ、ああ……」
「なら俺も行くぞ!」
「でもな……」
一牙は横目で柊茄を見た。柊茄は一牙が伝えたかったことを察したのか、小さく溜め息をついて答える。
「はぁ……別に私のためだけに店は開けなくていいわよ。どーせいつもの研究でしょ?」
「そうだが……」
柊茄と曇妬は火曜日に一牙が行っている研究のことを知っている。たまに付いてくることがあるが、お金が無いとか都合が合わないとかで基本は一牙一人で研究している。一牙の研究の邪魔をしたくないからか、一牙から誘っても断ってくることもあるのだ。
さらに言うと、この二人が一緒に一牙に付いてくること自体稀なケースである。
「私は気にしなくていいから。むしろちょっと今日は一牙に付いて行こうかしら」
「柊茄も来るのか?」
「そ。如月喫茶もいいけど、たまには別のところで気分転換したいし」
人数が増える分には特に一牙の研究に影響や支障は無い。
正直なことを言うと、一牙の研究は人数が多い方が研究しやすいのだ。曇妬と麗歌にはまだ言えていないが、この研究には二人の力が欲しいのである。一牙の邪魔かもしれないと二人は勝手に解釈して断っているようだが、一牙の本音としては二人に研究を手伝って欲しい。
それの方がより多くの意見が出せて、一牙の研究を効率よく進めることができるからだ。
それでもあまりにも人数が多いと研究としてのデータが薄くなってしまう。三人から四人くらいが一牙の研究にとってちょうどいい人数になる。
キーンコーンカーンコーン……。
朝のSHRを知らせる予鈴が鳴り響く。周りの生徒たちは会話を切り上げて自分たちの席に戻っていった。
「どこ行くかはもう決めてあるんでしょ? なら放課後まで楽しみにしておくわ」
「どういった研究をしているのか、今から楽しみですわ」
「あんま高くないとこにしてくれよ。ちょっと少ねぇんだわ」
「知るか」
頬杖を付きながら一牙は短とその三文字を言い放った。
麗歌は周りの生徒たちに倣って前方の席に座る。麗歌が座ると同時に永嶋先生がガララと教室の前の扉を開けてSHRを始めた。
♢ ♢ ♢
「それじゃ、気を付けて帰れよ」
かったるそうに教務手帳で肩を叩きながら永嶋先生の帰りのSHRは終わった。生徒たちは机に出ていた教科書やノートを鞄に片付け始め、帰宅の準備をする。
一牙はすでに片付け終わっていたので、鞄を持って席を立ち上がった。
「さーて、一牙の研究に付いていくのって案外久しぶりかもしれないわね」
「そうだな」
「ま、一牙の行く場所にハズレは無いから期待してるけど」
「過度な期待はやめてくれ。それに俺が行きたいから行く研究だってことも覚えているだろ?」
「分かってるわよ」
「だといいんだが」
そうこうしている内に帰宅の準備が整った麗歌が、鞄を持って一牙たちのところに来た。
「では、行きましょうか」
「ああ。で、お前は何してるんだ?」
行く準備万端の三人に対し、一人だけ鞄の中身を全て机の上に出して探し物をしている人がいた。
「物理のノート。俺だけ先週出し忘れて大目玉食らったんだよ」
「あっそ」
「でさ、昨日家にノート忘れたから今日提出しねーと次は雷が落ちてきそうなんだよ」
「で、今探してるけど無いと」
「そーなんだよ……。おっかしーな……昨日ちゃんと入れたんだけど……」
机に上に出ているノートや教科書の山には、くしゃくしゃになった紙切れや埃、砂が溜まっている。曇妬の使い方の荒さが物語っているようだ。
よくノートの山を見てみると、ノートの中にノートが挟まっているものがあった。まさかこれじゃないよなと思いつつ、ノートの山からその二冊を取り出す。下手な字で『古典』と『物理』と書いてあった。
「あったぞ。物理のノート」
「マジ!? サンキュー」
一牙からひったくるように物理のノートを取った曇妬は、バババッと机の上にあった教科書やノートを無造作に片付け始めた。
「二冊重なってるもの見逃すか? 普通」
「テンパってたんだから仕方ねーだろ」
「はいはい。じゃあ早くノート出してこい。校門で待ってるから」
「おうっす!」
はぁ、と一牙は頭を抱えつつ、柊茄と麗歌は一牙をあははと苦笑する。
机の上にゴミとなった紙切れや埃、砂を残しつつ、曇妬は物理のノートを持って教室をダッシュで出て行った。
「ったく……」
小さく愚痴を零し、一牙たちも教室を後にした。
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