第2巻-第6幕- 祝福の言葉を

 四月終わりの六時過ぎは夜の帳が降りる一歩手前くらいの風景だ。うっすらと明るく、空には星々と月が輝いている。最近まで見えていた春の大三角も住宅地の後ろに隠れて見えなくなっていた。あと三十分もすれば完全に帳が降り、夜の世界へと誘われるだろう。ぴゅうと吹いた風が、一牙の肌を撫でて通り過ぎる。

「二人も来るのか?」

「はい。私もお祝いの言葉を言いたいので」

「俺もだぞ。言ったらそのまま帰る」

「分かった」

 曇妬は自転車を押しながら、麗歌は暗い住宅地を見渡しながら一牙の後をついていく。

 周辺の家からは今日の夕飯の匂いが漂ってくる。店の正面の家はカレーのようであり、店の隣の家は回鍋肉のようだ。くうぅと小さくお腹が鳴り、今日の夕飯は何かと考えてしまう。今日だけは白飯ではなく赤飯なのだが。

 一番テーブルから見える如月喫茶前のやや広い十字交差点を過ぎ、カーブミラーがあるT字交差点を右へ。曲がって左から三件目が森宮家になる。ここまで如月喫茶から百メートルもない。

「ここが柊茄の家だ」

「ほえー、近いな」

「歩いてすぐでしたわね」

 森宮家は周辺の住宅と同じ二階建て。庭はなく、シルバーの車が雨避けの車庫に一台入っている。花崗岩で『森宮』と刻まれた表札の横には鉄製のアンティークな門。持ち手を操作してギイィと門を開け、玄関へ。ピンポーンとインターホンを鳴らす。

 数秒してインターホンから声が聞こえてきた。

『はい、どちら様ですか?』

 柊茄の声。

「一牙だ。ちょっといいか?」

『え? 一牙? 分かった。ちょっと待ってて』

 ブツッとインターホンが切れ、代わりに家の中からドタドタと忙しない音が聞こえてくる。きっと柊茄が廊下を走っている音だろうと苦笑した。

 少し待つとガチャッと玄関の鍵が外され、玄関が開く。玄関から出てきた柊茄は過ごしやすいTシャツと長ズボンの姿というラフな格好だった。

「よっ、こんばんは」

「こんばんは。どうしたの? 急に家に来て。しかも曇妬と麗歌まで」

「まずはこれを受け取ってくれ」

 ガサッとした音を出しつつ、赤飯の入っている袋を柊茄に手渡した。

「何これ? 何かちょっと温かい」

「母さん手作りの赤飯だ。お裾分けだよ」

「えっ? 赤飯? どういうこと?」

「お前のお母さん、再婚するんだろ? だからその祝いさ。おめでとさん」

「おめでとうございます!」

「おめでとうだぞ!」

 一牙のおめでとうに引き続き、麗歌と曇妬も祝賀を述べる。

「あ、ありがと。後でお母さんにも言っておくね」

「夕飯の準備中だったか」

「うん。今ちょっと手が話せないかも。油使ってるし」

「分かった」

 席を離した途端に油火災というのは起こり得る。直接言いたかったが、これは仕方ない。

「それと今日の試食会、行けなくてごめんね」

「別にいい。再婚のことで色々とドタバタしてたんだろ。気にすることじゃない」

「うん……」

「少し気持ちが落ち着いたらまたいつものように来てくれればいいさ。今は気持ちの整理だけしておきな」

「……そうね。ちょっと……まだ色々と整理出来てないの。しばらくは行けないかもだけど、気持ちの整理が出来たら絶対行くから」

「ああ、待ってる」

「絶対ですわよ」

「話聞かせてくれよな」

 再婚の気持ちの整理は一日や二日でつくものじゃない。再婚する相手のことを理解しないといけないからだ。再婚相手はどういう人なのか分からないし、柊茄も会ったことすらあるのかどうか分からない。

 今の柊茄の心はきっと、大きく揺れ動いていることだろう。一牙たちができることは、気持ちの整理をつけて店に来ることを待つだけだ。

「うん。じゃ、また明日、学校で」

「ああ。お休み」

「お休みなさい」

「お休み!」

「みんな、ありがと。お休み」

 静かに玄関を閉めて、柊茄は家の中に入っていった。

「さて、帰るか」

「んじゃ、また明日な一牙!」

「明日お会いしましょう。お休みなさい」

 一牙たち三人は、それぞれの自宅の方角へ向かって歩き出した。

 柊茄の家を出る頃には、完全に夜の帳が降りていた。

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