第2巻-第1幕- 不在の一番テーブル

 新学期を祝っていた桜の花びらもとうに散り始め、青々とした葉が木々を覆い尽くすようになったこの頃。住宅地を吹き抜ける風は少し涼しく、春の暖気を感じさせるほどに暖かくなっていた。

 日曜日の午後二時。太陽がやや傾き、春の暖気が水無月市みなづきし全体を覆う。

 そんな暖かさは水無月市の住宅街の一角にある『如月喫茶きさらぎきっさ』でも広がっていた。

 数人のお客が座っており、それぞれ新聞や本を読んだり、パソコンで作業をしていたりしている。テーブルには暖かいコーヒーや紅茶が入れてあり、水面がゆらりと如月喫茶の情景を映していた。

「ご注文のアフタヌーンティーです」

「ありがとうねぇ」

「ごゆっくりどうぞ」

 銀色のお盆に乗っていたティーカップをテーブルに置き、笑顔で応対する少女。お客のお婆さんは少女の笑顔を見てほっこりとした気分になった。

 金色に近い茶髪の少女は動きやすいように髪を後ろでくくり、如月喫茶と赤色の糸で刺繍されたエプロンを着用している。すらっとした体型はどこかの淑女を思わせるほど細く、モデルを思わせるほど整っている顔は綺麗さと可愛さを兼ね揃えている。

 銀色のお盆を規定の位置に戻すと、カウンター席でコーヒー豆を挽いている少年が言った。

「いい感じになってきたな」

「そ、そうでしょうか……」

 少年——如月一牙きさらぎいちがはそれだけ言うと、目線をコーヒーミルに戻す。清潔そうな黒髪と白と黒のエプロン姿でコーヒー豆を挽いている一牙の姿は絵になっていた。

 褒められた少女——櫻木麗歌さくらぎれいかは照れながら一牙のいるカウンターへ戻る。

「やっぱり、まだ少しぎこちないように思えますわ……」

「それでも俺は二週間前くらいと比べたら大分上達したように思えるぞ。財閥のメイドたちより少しラフでいいんだ。もうちょっと肩の力を落としてみな」

「は、はい。分かりました」

 麗歌は現代の日本を動かしている櫻木財閥の令嬢である。そんな彼女だが、二週間ほど前に、現当主であり父親の櫻木凜之介さくらぎりんのすけと人生を巡っての大きな討論を交わした。結果的に麗歌は凜之介の財閥に対する執念の束縛から解放され、自由の道を歩むこととなった。

 一牙はその財閥問題に少しだけ肩入れをしており、麗歌から相談を受け、助言と勇気を与えていた。それが麗歌自身を突き動かす原動力となり、麗歌を支える柱となったのだ。

 麗歌は束縛された人生を今まで送っており、新たな人生を見つけなければならない。そのために一牙への恩返しも兼ねてこの如月喫茶で働きながら自分の人生を探している。

 一牙も最初は麗歌が如月喫茶で働くことに驚きを隠せず、一牙の両親で如月喫茶の経営者(けいえいしゃ)である如月隆善きさらぎりゅうぜん如月舞柚きさらぎまゆも目が飛び出るほど驚いていた。最初こそ「ご令嬢様を働かせるなんてとんでもない」と真っ向から否定していたが、麗歌の熱意に心が折られてしまった。

 麗歌の方も凜之介と話して如月喫茶で働くことに関しては許可を得ている。麗歌曰くすんなり許可は出してくれたそうだが、使用人が時折様子を見に来るらしい。

「接客って意外と難しいですわね……」

「そうでもないさ」

 一牙はコーヒーミルを挽く手を止めて、麗歌を見る。

「接客ってのは要は自分の気持ちを伝える一種の方法なんだ。俺たちの誠意(せいい)という気持ちが伝わるからこそお客は楽しんだりくつろいだりしてくれし、反対に誠意がしっかりと伝わらなかったら怒るし、気分が下がってしまうかもしれない」

「嫌な気分で応対されたら私も少し嫌な気分になりますわね」

「そういうことと同じさ。楽しく接客するから楽しい雰囲気を味わえるし、暗く接客するから暗い雰囲気が伝染する。店というのは入ってきた時の雰囲気だけで決まるものじゃない。俺たち従業員の気分も含めて初めて店の雰囲気が作られるんだ」

「なるほどです」

 麗歌はしっかりと一牙の言葉を胸に刻み、接客への気持ちを忘れないようにと決意した。

「…………」

「…………」

 店内に流れるクラシックが二人の間にぎこちない沈黙を生み出す。麗歌は何をすればいいのか特に分からず、コーヒーミルを挽いている一牙の隣で立つ。

 ごりごりとコーヒー豆が削れていき、削れていくと同時にコーヒーのほろ苦い香りが麗歌の鼻孔を擽る。挽いている一牙は小さく鼻歌を歌っているらしく、楽しそうに見えた。

「一牙さん、楽しそうですね」

「な、何だ急に……」

「ふふっ、鼻歌まで歌っていらしたようですから」

「き、聞こえてたのか……」

 一牙は赤面しつつ、照れ隠しをするようにコーヒーミルに視線を戻す。

「ええ、それはもちろん」

「…………」

 コーヒーミルを挽く速度がやや遅くなり、力んでいる。

 普段から冷静で掴み所がない一牙だと思っていた麗歌だったが、こんな意外な一面があることに気付き、少し嬉しくなった。

 こんなゆったりとした生活ができることになったのは一牙や森宮柊茄もりみやしゅうな六輪曇妬むわどんとの三人のおかげであることを改めて振り返った。一牙たちに出会わなければきっと自分はまだ弱い心のまま凜之介の言いなりになって過ごしていただろう。束縛された自分に自由という新たな世界を見せてくれた三人に再度、多大なる感謝を伝えたいと密かに考えている。

 そして自分は一体何がしたいのか。高校二年生というまだ成人には程遠い未熟な自分だけれども、いつかは必ず見つけてみせると声に出さずに豪語した。

「すみません、ちょっといいですか」

 不意に過去の走馬燈から現実世界に引き返されるお客からの呼び声。麗歌は無意識の内に足と口を動かしていた。

「はい、ただいま」

 注文用紙とボールペンを持ち、注文しているお客の元へ向かう。

 何やら大量の資料とパソコンの画面とで睨めっこしているスーツ姿の青年は麗歌が来ると、視線を麗歌に向ける。

「ご用は何でしょうか?」

「ミルクティーをもう一杯」

「ホットにしますか? それともアイスですか?」

「ホットでお願いします」

「はい、かしこまりました。では、少々お待ち下さい」

 麗歌は空になったティーカップもついでに下げ、一牙の元に戻ってくる。注文用紙をマグネットで挟み、下げたティーカップを厨房の水の張ったシンクに入れた。

 一牙はコーヒーミルを挽く手を中断し、アールグレイの茶葉を取り出す。慣れた手つきでティーバッグの中にアールグレイの茶葉を入れていき、カウンター席の下の空間にあるティーカップ置き場からティーカップを取り出す。

 麗歌が手を拭いて戻ってくると、ティーカップの中に茶葉の入ったティーバッグが入っており、紅茶完成の一歩手前まで一牙の手によって済まされていた。

「ありがとうございます」

 働き始めてこそ一牙の手際の良さに感銘と驚きがあったが、今では「ありがとうございます」の一言で済んでしまうことが多い。まだ注文も聞いていないのにいきなり準備をし出し、それが注文通りだと流石にまだ驚かされるが。

 一牙は給湯器からお湯をティーカップに注ぎ、紅茶が染み渡っていくのを確認する。

 一方、麗歌はミルクティー用のミルクと、ティーカップ置き場に置いてあるミルクピッチャーを取り出し、ちょろちょろとミルクを注いでいく。角砂糖とグラニュー糖の入ったスティックをティーカップの受け皿に置き、紅茶とミルクピッチャーをお盆に乗せる。

 美味しそうな色にまで染まった液面と、甘く香しい紅茶の香りがまた鼻孔を擽った。

 麗歌はあまり揺らさないように紅茶をお客の元まで運び、静かに紅茶とミルクピッチャーをテーブルに置く。

「失礼します。ご注文のミルクティーです。ごゆっくりどうぞ」

 ぺこりと一礼し、少し足早に戻る。

 青年はティーバッグをくるくるとかき回し、テーブルに置いてあるティーバッグ入れに茶葉の入ったティーバッグを入れた。ミルクピッチャーのミルク、角砂糖、スティック一本のグラニュー糖全てを投入し、テーブルに常備してある竹のかき混ぜ棒で混ぜ始めた。

 麗歌はスイングドアを通り、カウンター席に戻ってくる。そしておもむろに一牙に何かを訊ねる。

「一牙さん、あのお客様、ミルクや砂糖を全て入れましたが、あれでは甘すぎませんか?」

「いや、人によってはちょうどいい甘さになる」

「そうでしょうか……」

 ミルクティー等の飲み物には角砂糖一個とグラニュー糖のスティックを一本必ず付ける。お客によって角砂糖を入れる人もいればグラニュー糖を入れる人もいるからだ。甘くするという本質は同じだが、角砂糖とグラニュー糖では甘さの違いがはっきり別れる。

 本来、飲み物に入れるのはグラニュー糖だが、砂糖は甘さをしっかりと出したい時に入れることがある。グラニュー糖は飲み物本来の味をあまり損なわないので、それぞれの糖にも一長一短はあるのだ。

「それにお前の知ってる人もミルクティーを飲む時は両方入れるぞ」

「えっ……誰ですか?」

「柊茄だ」

「ああ……そうでした。確かにいつも角砂糖とグラニュー糖を入れていましたわね」

「だろ? 甘くて美味しいっちゃあ美味しいんだが、ずっと飲んでるとくどくなりそうで俺はあんまり好きじゃない」

「私も紅茶は渋さが残る甘みがちょうどいいですわ」

 何度も「糖尿病になっても知らないからな」と忠告(しているため、大人になって柊茄が糖尿病を患った時は「自業自得だ」と言うつもりでいる。

 柊茄の話題が出たところで、はたと麗歌が何かを思い出す。

「そういえば柊茄さんは今日はいらっしゃらないようですわね」

 いつも陣取っているスイングドア近くの窓際の一番テーブルには今日は誰も来ていない。

 柊茄と曇妬の和気藹々とした会話が聞こえてこないだけで、どこか哀愁が漂うテーブルと化している。

「柊茄は家の用事、曇妬は補習だって聞いてる。まぁ麗歌にしてみたら珍しいかもな」

「そうですわね。毎日来ているような感じがありましたので」

 休日にまで学校に呼び出されて、補習を受けている曇妬にはドンマイとしか言えない。

 金曜日の帰り際に曇妬が担任の永嶋勝騎ながしまかつき先生に首根っこを掴まれて、学習指導室へ強制的に放り投げられていた。その様子を見ていた一牙は、永嶋先生の強引な指導はやや曇妬に同情せずにはいられなかった。一牙が強いてできたことと言えば、涙目で訴えてくる曇妬に親指を立てて「頑張れよ」と言うことだけだった。

「柊茄さんがこの店に来ないのは何回くらいですか?」

「そうだな……店に来ないのは年に……五回くらいか?」

 一牙は店に来ない柊茄の回数を指を折って数える。その数は片手の指だけで数えられるほどだった。

「その五回くらい以外は全て来ているのですか?」

「そうだな。入り浸ってるって言った方が正しいかもしれない」

「何か家の方で帰りたくない事情等があるのですか?」

「いや、帰りたくないって事情じゃない。柊茄の家は母子家庭で、母親は十八時くらいまで帰ってこないんだ。だから学校が終わって母親が帰ってくる時間まで家で一人だからここに来るんだよ」

「…………」

「本人も父親が他界したことは特に気にしてないみたいだからな。麗歌が気に病むことじゃない」

「……!」

 見事に図星を突かれて麗歌は目を丸くする。

「今日は少し物悲しいだろうけど、明日になればきっと元気な姿で甘々のミルクティーを飲みに来るさ」

「そうですわね。では私、少しだけ洗い物を片付けてきますわ」

「ああ」

 麗歌は腕まくりをすると厨房へ入っていった。水を出す音と水が立つ音が聞こえてき、食器同士が当たってがしゃがしゃと鳴り響く。

 いつの間にかコーヒーミルに入っていたコーヒー豆が全て挽かれ、細かな粒子となって下に落ちている。

 挽いたコーヒー豆の粒を四角い褐色のガラス瓶の中に移し替える。挽き立てのコーヒー豆の粒を使うのが一番美味しいのだが、酸化を促進させず、光や湿気に当てずに温度変化があまりないところで保存したコーヒー豆も二週間ほどであれば挽き立てと大差ない。

 ただ保存期間が長すぎると劣化してしまうため、コーヒー本来の美味しさが損なわれてしまう。一牙はなるべくガラス瓶の中のコーヒー豆の粒の量を確認し、必要に応じてこうしてコーヒーミルで挽いているのだ。

 褐色のガラス瓶とコーヒーミルをカウンター席の下にある収納スペースに入れておく。頭の片隅にはコーヒーミルを後で洗うということをメモしておきながら。

「さて……」

 寛いでいるお客を見て、暫くは注文が来ないだろうと予想する。

 一牙は台拭きとアルコール消毒液が入っているボトルを手に取ってスイングドアを通った。そして台拭きにアルコール消毒液を吹きかけ、常連の柊茄の特等席である一番テーブルを拭き始めた。

 テーブルの隅から隅まで綺麗に拭き、ラミネート加工してあるおすすめメニュー表やいつものメニュー表もしっかりと拭く。ティーバッグ入れに使用済みのティーバッグが入ってないか確認し、爪楊枝や塩等の消耗品が少なくなっていないかチェックする。一番テーブルは基本的に柊茄しか座っていないため、あまり消耗品を補充することはない。

 続いてその隣の二番テーブルを拭こうとしたその時——

「一牙君、お会計いいかね?」

 と三番テーブルにいた四十代くらいの男性が一牙に声をかけた。

「はい、ただいま」

 一牙は台拭きをアルコール消毒液が入っているボトルをカウンターに置き、レジへ向かう。三番テーブルのお客は席を立ってレジ前にいた。

「ハムカツサンドランチセットにブルーマウンテンが二杯で合計一三五〇円です」

 男性は使い古してボロくなっている長財布から、五千円札を取り出して一牙に手渡した。

「五千円お預かりしますね」

 ピッピッピッガッシャーン。

「まず大きい方が一……二……三枚と、小さい方で六五〇円です」

 お札をパラパラと捲って三枚あると確認させ、小銭は数字が見える方を見せて手渡した。男性は「ありがとう」と言うと、お札と小銭を長財布にしまう。

「今日も美味しかったよ。隆善さんにも伝えておいてくれ」

「はい。岸越きしごえさんは今日は非番ですか?」

 この男性は岸越と言い、水無月高校前の交番で勤務している警察官だ。警察官歴十五年のベテランであり、隆善と知り合いで、非番の時にはよく如月喫茶を訪れる。

「そう。ちょっと今日だけは交代してもらって、お休み貰ったんだ。ゆっくり寛げてよかったよ」

「それは何よりです」

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