第1巻-第20幕- 恩返しはこの店で

 一牙は席を立ったついでにカウンターに置いていたお盆を持って、空になったティーカップを下げる。自分と曇妬の二つのティーカップをお盆に載せた。

「あ、一牙。サイダーくれ」

「後で金払えよ」

「サービスじゃねぇの!?」

「それはさっきの紅茶だけだ」

「ちぇー、んじゃ水でいいや」

「自分で取ってこい」

 また唇を尖らせ、曇妬は頭の後ろに手を持っていって椅子にもたれた。

「二人は何かいるか?」

「私はまだミルクティーが残ってるからいいわ」

「私もいりません」

「分かった」

 一牙はティーカップが乗ったお盆をシンクまで持っていき、水が張ったその中に入れる。

 カウンターに置いたビニール袋を持ってきて、厨房で新聞を読んでいる隆善に渡す。

「一牙、これは?」

「畑風さん家からのお裾分け」

「へーぇ……明日の日替わりのサラダに使ってみるか」

 このようにお裾分けで貰ったものも商品の一部に取り入れるのが隆善の得意分野である。お裾分けをしてくださった人も「ありがとう」とお礼を言ってくることが多い。

「父さん、果物ナイフってどこにある?」

「この後食うのか?」

「一個だけ」

「どこだっけな……いっつも包丁で切ってるしあんま使わねぇんだよな……」

「それならシンクの右側の一番下の引き出しに入ってるわ」

 スーパーのレジ袋を三つほど抱えて買い物から帰ってきた舞柚が答えた。

 舞柚の言う通りシンクの右側の一番下の引き出しを開けると、鞘に収められた果物ナイフが五本入っていた。どの果物ナイフを使ってもさほど変わらないので、林檎の絵柄がハンドルにプリントされている果物ナイフを手に取る。

「畑風さん家の林檎ね。林檎パフェでも作ろうかしら」

「いや、コレは俺の明日の日替わりサラダに入れるもんだ」

「じゃあ余ったら頂戴よ、あなた」

「余ったら、な」

 何だか林檎の取り合い夫婦喧嘩でも勃発しそうなので、一牙は果物ナイフとサンドイッチ用の皿を拝借して厨房から出た。

 ナイフと皿をテーブルの上に置き、カウンターに置いた林檎を手に取る。ナイフの鞘を抜いて銀色に光る刃で林檎を切断する。八等分に切断すると芯をくり抜き、林檎の皮に刃を当てて逆Vの字に切り込みを入れた。そしてその切り込み口の付近まで皮を剥いていくと、兎型の林檎が一匹完成する。

「おーっ」

「上手なもんね」

「すごいですわ」

 三人から上がる称賛の声。一牙は特に照れることなく次々と林檎を兎型に剥いていった。

 その手慣れた果物ナイフ捌きで八等分の林檎があっという間に兎へと変化していく。一つ作成するのに時間にして二十秒もかかっていない。

 一牙の綺麗なナイフ捌きに見惚れる三人。そしていつの間にか皿の上には八匹の林檎兎が並んでいた。

「ねぇ一牙。写真撮っていい?」

「何でだよ」

「いいからいいから」

 理由を求めた一牙を柊茄は完全無視し、パシャパシャとスマホのカメラ機能を使って写真を撮影していた。

 別にそこまで珍しいものでもないだろうにと、一牙は林檎の皮を片付けながら思った。

 ティーポットにまだ紅茶が残っており、別のティーカップを取り出して紅茶を注ぐ。レモン汁を少しだけ投入し、レモンティーとした。受け皿にティーカップは乗せず、そのままテーブルへと戻る。林檎用の爪楊枝を四本取って指に挟みながら。

「なぁ一牙、この林檎食べようぜ」

 写真撮影会も即座に終わったらしく、曇妬が促してくる。

 一牙は指に挟んでいた爪楊枝を一本ずつ渡し、兎型の林檎に刺す。

 さっき切っていた時に見ていなかったのだが、芯の付近に大きな蜜が溜まっているのが分かる。これはかなり甘そうだ。

 一牙は兎型の林檎を口に運び、耳側の方から齧り付く。

 シャクッと心地よい音が聞こえ、噛むごとにシャクシャクと鳴る。

 口の中には林檎の風味が広がり、林檎の蜜がその風味を掻き立てる。みずみずしい甘さと心地よい林檎の音色が合わさってとても美味しい。

 シャク。

「うめぇな、この林檎!」

 シャク。

「ほんとね」

 シャクッ。

「甘くて美味しいですわ」

 暫くの間、四人は林檎の咀嚼音の重奏を楽しみながら林檎を味わった。

 そして皿にあった八匹の林檎兎がなくなると、それぞれの飲み物を飲む。甘い林檎を食べた後に紅茶を飲むのは、口の中をリセットしているような気がした。

「んーっ」

 柊茄が腕と背を伸ばしてリラックスする。

「ねぇ櫻木さん、一つ聞いてもいい?」

「何ですか?」

 紅茶を飲んで寛いでいた麗歌に柊茄が声をかけた。

「櫻木さんってこれからどうするの?」

「どうする……とは?」

 どうやら聞きたいことの言葉が足りなかったらしく、柊茄は「えーっと……」と考えながら付け足していく。

「ほら、櫻木さんって自由になったんでしょ? だからこれからどうするのかなーって思って。厳しいこととから解き放たれたわけなんだし」

「そ、そうですね……」

 凜之介に認めて貰えたことにより、確かに麗歌は自由になった。麗歌の目指すものは自分自身の人生。だけど、その明確なビジョンというのが聡明に浮かんでいない。

 何をして生きていくかはこれから考えればいいと思っていた。しかし、よくよく考えれば少しでもやりたいことを見つけておかないと、今後の高校生活が何の意味で過ごしているのか分からなくなってしまうのではないだろうか。

「別に無理して考えなくてもいいんじゃね? 急に見つけろって言う方が難しくないか?」

 曇妬の言うことも一理ある。

 曇妬の言うことと柊茄の言っていることが麗歌の頭の中で矛盾を生じさせ、混乱を引き起こしていた。

 早く見つけた方が人生が豊かになるかもしれない、けどそんなに人生を変えるようなことは見つからないしどうすれば……。

 考えれば考えるほど自由という人生は単純で難しい道なのだと思い知った。

「如月さん、どうすれば……」

「お、俺か?」

 助けを求められてもどうすればと思い悩む一牙。

 自分はこの店を継ぐという道の元歩いており、麗歌のように真っ白で平坦な道を進んでいるというわけではない。

 麗歌の人生の分岐点の補助をした今、一牙が導き出せる回答は……。

「正直なところ俺は曇妬の意見に賛成だ。そこまで無理して決めなくてもいいと思う。普通に生活していく中で見つければいいんじゃないか。人生ってのは短いようで長いもんだからさ。ま、早めに見つけるに越したことはないが、見つけるのに気を使いすぎて倒れたら元も子もないからな」

「自由って難しいですわね……」

「それでいて選択の幅は広い。やりたいことがあるなら挑戦してみればいいし、頑張りたいことがあるなら頑張ってみればいい。俺やコイツらも応援してくれるだろうからさ」

「応援してくれるじゃないわよ。するの。絶対に!」

「柊茄の言う通りだぜ」

 やはり如月一牙という人に出会えて良かったと麗歌は心の底から思った。森宮柊茄、六輪曇妬という人とも出会えたことも。

 見ず知らずの人の家の事情に巻き込んでしまったことには謝罪の気持ちがあるが、それでも一切の嫌味を見せず紳士に援助してくれたことには感謝の気持ちしかない。

 きっとここまで援助してくれるのは世界中を探してもこの人たちだけだろう。

 ならば自分のしたいことはもう見つかったのではないか。

 この人たちへの恩返し。

 それがきっと今の自分がやりたいこと。

 ならば答えは一つ。

「あの、如月さん。一つお願いがあるんですがいいでしょうか?」

「何だ?」


「わ、私もこのお店でお手伝いさせてもらってもよろしいでしょうか?」


「「「……えっ?」」」

 一牙の目が点になる。柊茄と曇妬の目も点になっており、理解が追いついていなかった。

「すまん、櫻木。もう一度言ってくれるか?」

「はい。私もこのお店でお手伝いさせてもらえませんか?」

 どうやら聞き間違いではなかったようだ。

 しっかりとした確信を得た三人は——

「「「ええええっ!」」」

 と声を揃えて驚いた。

「ど、どうしたんですの?」

「ご、ごめんね。余りにも突拍子すぎて……」

「まさかって思ったわ……」

「さ、櫻木。な、何でこの店を手伝おうって思ったんだ?」

「はい。あの如月さんには私の一件で大変お世話になりましたし、森宮さんや六輪さんも私に勇気を与えてもらい、同時に私を支えてくださいました。なので恩返しをしたいと思ったので……」

「……いや、俺としちゃ有難い申し出なんだが、櫻木はそれでいいのか? さっきまで人生を決めることについて考えてただろ」

「そうですね。でも特にそれといって思いつきませんし、今やりたいことと言ったら如月さんたちに恩返しがしたいんです。恩返しをしながらも私の人生を探すことはいくらでもできますから」

「や、やっぱ思考はお嬢様ね……」

「だな……」

 柊茄が麗歌には聞こえないような声のトーンで曇妬と会話した。

「…………」

 一方、一牙は頭を抱えるような思いで考えを巡らせていた。

 別に麗歌の申し出を否定する気はない。むしろ肯定派だ。

 しかしただ相談に乗っただけなのに、この店で手伝いさせてもいいのだろうか。

 自由の身になったとはいえ、麗歌は財閥の令嬢なのである。お嬢様が小さな喫茶店で手伝いをしているという噂が流れてしまっては如月喫茶の命運が危うい。

 きっと隆善や舞柚も麗歌の申し出を快く歓迎するだろうし、麗歌の両親も自由を認めたということから麗歌がこの店で手伝いすることを認める可能性が高い。

 さらに言うと人手があまり足りないのだ。弓夏は朝から昼までの間の時間になっており、アルバイト従業員の大学生は大学が忙しいのか時間はまちまちなのである。なので少しでも人が増えてくれることにはありがたい。

 ただやっぱりそういったことで麗歌を手伝わせてもいいのだろうか。

 という負の葛藤と正の葛藤が同時に巻き起こり、一牙の思考をぐちゃぐちゃと掻き乱していく。

「あ、あの。如月さん?」

「ああ、とりあえず頭の整理はできたからちょっと待っててくれ」

「はい」

 実のところをいうとあまり整理できていないのだが、自分の考えがもしかしたらの場合もある。それに報連相は大事だ。

 一牙は切った林檎の芯が乗っている皿と果物ナイフを持って厨房へ。ゴミ箱に林檎の芯を捨て、皿を水が張ってあるシンクの中に入れる。さっき入れたティーカップを割らないよう、やや離れた場所から斜めに入れた。

 足下に林檎の入ったビニール袋を置いて新聞を眺めている隆善にさりげなく聞いてみる。

「父さん、俺の友達がここで手伝いをしたいって言ってるんだがいいか?」

「その手伝いってバイトか?」

 正直麗歌の言っている手伝いがバイトなのか無償でのボランティアなのかは分からない。聞きそびれたというのもあるが、多分バイトなのではないかと勝手に想像する。

「多分」

「いいぜ。お前の友人なら大丈夫だろ」

(信用の仕方が雑すぎだろ……)

「何なに? バイト?」

 と夕飯の準備をしていたらしい舞柚がフライ返しを持って厨房にやってきた。

「一牙の友人がバイトしていいかってさ」

「いいじゃない。私は賛成」

「だとよ。明日その友人に伝えときな」

「……はーい。詳細はまた今度話す」

 一牙はすんなり通ったことに変な虚脱感を感じつつ、会話しながら洗った果物ナイフを元合った引き出しにしまった。

 先ほどまでの懸念と葛藤はどこへいったのやら。もはやそこまで小難しく考える必要がなかったのかもしれない。

 テーブルに戻った一牙は隆善と舞柚の反応を麗歌に伝える。

「あー、えっと……父さんと母さんに聞いてみた結果、OKだとよ」

「本当ですか!?」

「ああ。ただ、俺の父さんと母さんがOK出しただけで、櫻木の方はまだ出てないからちゃんとOK貰ってから来てくれ」

 手伝わせる側としても櫻木の方の両親の許可がないとやらせられない。無断で手伝っているか、こっちが強要してやらせているように思われてしまうためである。

「はい。分かりましたわ」

「良かったわね、櫻木さん」

「んじゃ、これから俺は櫻木さんに注文頼もっかなー」

「曇妬、お前だけ明日から金額二倍な」

「何で!?」

 笑いの渦が巻き起こったところで——

 ゴーン……ゴーン……。

 と店仕舞いの時間を示す壁掛け時計の音が店内に鳴り響いた。その低く鈍い音は五回響き、午後五時を伝えている。

「もうそんな時間かよ」

「それじゃ帰りましょ。また明日学校で」

 柊茄と曇妬と麗歌は荷物をまとめて出て行く。一牙も店仕舞いがあるため、一緒に外に出る。

 外は夜の帳がもうすぐ降りそうで、やや暗くなっていた。あともう少しすれば街灯が点灯するだろう。春とは言え、やや肌寒い。

「あの、最後に一つだけ……いいでしょうか?」

 外に出て曇妬が自転車に跨がると、麗歌が右手の人差し指を立て、一つを表した。それを見て曇妬と柊茄は帰る足を止める。

「何? 櫻木さん」

「厚かましいのは承知なんですが、皆さんのことを……下の名前で呼んでもよろしいでしょうか?」

 小さく降りる沈黙。だが、そんな沈黙を打ち消したのは柊茄の声だった。

「いいよいいよ。むしろ大歓迎! いっくらでも柊茄って呼んで」

「俺もいいぜ。気軽に曇妬って呼んでくれたら嬉しいな。というか呼んで下さい」

 二人はあっさり承諾。曇妬に至っては角度きっちり四十五度のお辞儀をしている。

「如月さんは……」

「俺も一牙って呼んでくれていい。というかそっちの方が言いやすいかもな」

「はい、ありがとうございます。私のことも麗歌って呼んで下さい」

 屈託のない笑みを浮かべて麗歌は言った。

「おう、じゃあな麗歌。と一牙」

「また明日ね、一牙と麗歌」

 曇妬は自転車を走らせてまっすぐ国道方面へ。

 柊茄は手を振りながら住宅街の方へ進んでいった。

 二人の姿が見えなくなるまで見届ける。

「それでは、失礼しますわ。一牙さん」

「ああ。気を付けてな。麗歌」

「はい」

 麗歌は一牙に軽く手を振りながら国道方面へ歩いて行った。

 麗歌が交差点を曲がって見えなくなると、一牙はドアのオープンクローズプレートの表示を『Close』にし、メニューが書かれている看板を中に入れる。

「さてと、片付けるか」

 一牙は袖をまくり、店の後片付けをし始めた。

 ぴゅうと吹いた寒風が、袖をまくった一牙の腕を軽く冷やした。

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