第1巻-第18幕- 当主として、父親として
扉を勢いよく開けて、カッカッとヒール音を出しながら社長室に入ってきたのはスーツ姿の女性だった。すらっとした細い体型に、揺れる黒髪のロングヘアー。全てを貫きそうな冷徹な瞳は凜之介を捉えていた。
「えっ……」
まさかの登場に麗歌は面食らった。本来なら櫻木財閥水無月市部本社にいるはずのない女性であり、麗歌のよく知る女性だったからだ。
「お、お母様……」
「あ、
櫻木財閥水無月市部本社海外派遣部長であり凜之介の妻、麗歌の母親の櫻木愛紀音だったからである。
愛紀音は麗歌の側を素通りし、凜之介の机まで威圧感を放ちながらずかずかと歩いた。
凜之介はまだ戸惑いから逃れられておらず、しどろもどろになりながら愛紀音に問いかけた。
「お、お前……いつ戻ってきた?」
「さっきよさっき。ほんの一時間前まではまだ飛行機だったわよ」
麗歌も疑問に思っていた返答を愛紀音が答える。
愛紀音は散らばっていた書類の一枚を広い、凜之介の机の上に思いっきり叩きつける。
バンッ!
「で、さっきから話は外まで聞こえてたけど、あなたどういうつもりよ!」
「ど、どういうことって……」
「麗歌が次期当主になりたくないって話よ。言ってたでしょ?」
あの話、お母様に聞かれていたんだと心の中で思った麗歌は叱られる覚悟を決めた。
愛紀音だって麗歌が次期当主になることを望んでいるはず。凜之介のように束縛はしなかったものの、次期当主になって欲しい思いは凜之介と同等、もしくはそれ以上のはずだ。
しかし覚悟を決めた麗歌の耳に聞こえてきたのは、百八十度違った内容だった。
「いつまであなたの我が儘を麗歌に押しつければ気が済むの! いい加減麗歌の気持ちくらい考えなさいよ。それでもあなたは麗歌の父親なの!?」
「…………あぁ…………」
言葉では言い表せない心が動かされた感覚を麗歌は感じ取った。目の前にあった黒雲が愛紀音の言葉によって払われていく。
愛紀音によって優勢を崩された凜之介は、反論の余地を逡巡しつつ口を開く。
「し、しかしだな——」
「しかしも何もないわよ。自分の子供が道を見つけて歩もうとしてるのよ。それを応援しない親がどこにいるっていうのよ!」
だがすぐに愛紀音の激しさと鋭さが増していく口調にかき消されていく。
的を射る発言に含まれているものは麗歌の心を穏やかにさせ、救いの手を差し伸べているようだった。
「子供の未来っていうのは親が決めるものじゃないの。子供自身が見つけて、挫折して、成長していく道なのよ。それを真っ向から否定して、あなたの概念を植え込もうとする独裁者としてのあなたは親として失格だわ!!」
「——っ!」
完全な論破に凜之介は口も開かず、呆然とした状態で脱力したように椅子に腰を下ろした。
「そりゃあ私だって麗歌に当主になって欲しい気持ちはあるわよ。でもね、それを押しつけるのは違うと思うの。だからこそ私は、麗歌が決めた茨の道を進むことを応援するし、手助けもしようと思ってるわ。あなたはこれからどうするか今一度考えなさい」
スーツを翻して唖然としている麗歌の側に寄る。すらっとした細い手を麗歌の頭に乗せて、優しく麗歌を撫でた。
「麗歌、強くなったわね。私の見ない間にこんなに逞しくなってくれて嬉しいわ」
「お、お母様……」
久しく感じていなかった母親の温もり。頭を撫でられていることに若干とした気恥ずかしさがあったが、それ以上に嬉しさが勝っていた。
「良い友達と巡り会えたみたいね。きっとその友達に背中を押して貰ったんでしょ?」
「はい……」
「もう、そんな堅苦しくしなくていいわよ。ふふ、後でその友達にお礼を言わないといけないわね」
「……うん」
一粒の涙が麗歌の目から零れ落ちた。
「さて……」
愛紀音は麗歌の頭から手を話すと、首をかっくりとして項垂れている凜之介に目を向けた。
「あなた、これからどうするの?」
「…………」
凜之介からの返事はない。愛紀音は「はぁー」と呆れ混じりの溜め息をつくと、凜之介の机の前に立った。
「あなた、よく聞きなさい。確かにあなたの理想の財閥を作るというあなたの方針は間違って無いわ。あなたの考えを押しつけて作る財閥はあなたの理想の財閥かもしれない。でもね、あなたにとってはそうかもしれないけど、私たちからしたら理想の財閥でも何でも無いのよ」
周りの目と個人の目とでは価値観も思想も違う。
自分では優れていると思っていても、周りから見れば落ちこぼれという可能性もある。今の櫻木財閥は凜之介の思想で独裁的に経済を回しているのだ。
もちろんそれで経済が回っているのならいいのかもしれない。
だが、独裁的な経済はいずれ破綻が訪れる。それは社員の体力や精神力の限界であったり、そもそも経済が回らなくなってしまうことであったりするからだ。
「周りから見てあなたの理想の財閥が悪印象と思われたら、それは永久的に拭えることはないの。そう思われたら理想の財閥でも何でも無い。ただの悪徳財閥に成り下がるだけよ」
世間の目というのは時に厳しく、時に暖かく見守る第三者の視点である。
自分と相手、又は社員が良いと思っていても、世間の目は違う視界が広げられている。悪印象、好印象は自分たちが決めるものではなく、第三者である世間が決めるものなのだ。
「あなたは頑張ってきた。櫻木財閥という会社を大きくして、今まで支えてきた。だからこそ櫻木財閥の傘下の企業はあなたを信じてついてきたんじゃないの?」
「そ、それは……」
「あなたの独裁的思考、行動は公にできる範囲まで迫ってきているわ。突発的な社員の解雇や反対を押し切る市の政策等……ここに麗歌の強制的次期当主相続が加わったらどう? あなたの地位はズタボロに引き裂かれるわよ」
「う……」
凜之介は愛紀音の言葉に自分は今窮地に立たされていることを改めて実感した。
凜之介の独裁的思想が公にされた場合、櫻木財閥の印象は地に下がり、下手をすれば解体という可能性もある。
日本のほとんどを支えている財閥が解体されてしまったら、日本の経済はどうなるか想像もつかない。だからこそ、安易に公にはできないのだ。
「いい? あなたは日本の経済の中心にいる人物の一人なのよ。私もそうだけど。自分じゃなく、周りを見て気配る意識を保たないと、あなたの理想の財閥はいつまで立っても完成しないし、仮に麗歌が相続したとしても維持出来ないわ」
「…………」
「櫻木財閥はあなただけの財閥じゃないの。私や麗歌、そして傘下の企業たちが合わさってできている財閥よ。改めてこの財閥がどんなものなのか考え直しなさい。それがあなたの理想の財閥を作る唯一の手段よ」
凜之介は愛紀音が叩きつけた書類を見つめた。
その書類は櫻木財閥との契約をして傘下に入りたいという中小企業からの申請書だった。丁寧な言葉遣いに経済をよく考えている企画、設立仕立てではあるものの、書類を見るだけで中小企業からのやる気というものが見えてくるようだった。
今までの自分はそんな企画等考えもせず、ただ単純に傘下に入ってくれる企業がいるというだけで印を押していた。それが櫻木財閥を大きくする一歩だったから。
ただそれのせいでどの企業が何をしていて、どういうことをしてあげればいいのかさっぱり分からず、秘書や事務員に多大な仕事を押しつけている。企画が失敗すればそれはその企業を選んだ秘書や事務員のせい、はたまた企業のせいにして自分は難から逃れる。
要するに自分は自分だけ見て自分だけ逃げようとしていたのだ。
自分という大きな財閥だけを見て、自分に飛んで来る責任や火の粉を秘書や事務員に使い捨ての盾要員として逃げ場を設けているにすぎない。
『我が神無建築株式会社は創立してまだ月日が浅い株式会社ではございますが、全社員一丸となって、櫻木凜之介社長様のご期待と水無月市の発展に尽力致しますことをこの書類を以て宣誓します。どうかよろしくお願い致します』
書類に書かれていた中小企業からのメッセージに凜之介は目を通した。
書類上の言葉など机上の空論に過ぎず、いくらでも弁明や虚言を吐けると思っていた心が今までの凜之介にはあった。
今では先ほど感じた企業からのやる気、そして社員全員の期待が文字を通して凜之介の背中を押しているようだった。独裁者の世界にいた凜之介の背中を押し、麗歌や愛紀音と一緒に共に作る経済の世界へと。
(改めてこの財閥がどんなものなのか考え直しなさい)
愛紀音の言葉が蘇ってくる。
「……そうか……」
櫻木財閥は凜之介のものではない。ましてや凜之介が一人で立ち上げた財閥でもない。麗歌や愛紀音、そして成長してくれると信じて付いてきた社員と企業たちによってできた財閥なのだ。
一番大切なことを凜之介は見失っていたのだ。
「……覚めたみたいね」
愛紀音の小さな独り言。麗歌には聞こえなかったが、その独り言が何を目的にして言われた言葉なのかは凜之介を見れば理解できた。
凜之介は部屋の右手に飾ってある大きな壁掛け写真を見ていた。それはこの財閥が設立した日に凜之介と愛紀音、さらに社員たちと様々な企業の社長たちと一緒に撮った集合写真だった。まだ若かりし頃の凜之介はきりっとした表情で映っている。撮影年月日的に麗歌はまだ生まれていない。
その写真を見れば一目瞭然である。この財閥を作ったのは凜之介とその周りにいる社員や社長たち、そして愛紀音の力があってこそ設立できたのだと。
「……愛紀音」
凜之介は真剣な眼差しで愛紀音を見つめた。
「……どうやら私は大切なものを見失っていたようだ。すまなかった」
だが愛紀音は凜之介の言葉を背中で聞き流し、代わりに麗歌の背中を腕で押す。
愛紀音に押されたことによって、麗歌は少し倒れそうになった。
「その言葉は私じゃなくて麗歌に伝えるものでしょ」
「えっ……」
「そうだったな」
麗歌は愛紀音を見て、一対一で凜之介と話せと視線からその意味を察する。
一歩踏みしめて、眼前に立つ凜之介の真剣な目を見つめた。
「お父様……」
「麗歌よ、すまなかった」
ゆっくりと頭を下げた凜之介からは悲壮感や罪悪感がひしひしと伝わってくる。
麗歌も凜之介が頭を下げたことにより、どう対処すればよいか半ば頭の中はパニック状態に陥っていた。
しどろもどろになりながらも言葉を紡ぐ。
「だ、大丈夫ですお父様。お顔を上げてください」
凜之介は顔を上げなかった。それほどまで麗歌にしてきたことと今までの自分の行いを反省しているのだろう。
また「大丈夫です」と言っても凜之介は頭を下げたままかもしれない。
麗歌はあまり父親に向かってこんな態度は取りたくなかったが、意を決した。
「確かにお父様は許されないことをしていたのかもしれません。それは私や社員、それに子会社の方々に向けてなのかもしれません。ですから、私もお母様と同じようなことを言いますが、今までのことを顧みて、今後の財閥運営に向けた慎ましい行動を取るべきだと思います」
「麗歌……」
「私は次期当主になるつもりは今のところありませんが、お父様の娘として影ながら支えていこうと思っています。もちろん私の人生を見つけるという最大の目標をこなしながらになりますが」
凜之介は頭を上げ、真っ直ぐにそれでいて堂々とした麗歌を見て、目頭に液体が溜まってきていることを感じた。
「お父様は私の新たな人生を応援してくださいますか?」
その質疑に応答する項目は一つだ。
「ああ、応援する。約束しよう」
浮かんだ雫が一滴零れ落ち、書類の文字を少しだけ滲ませた。
先ほどまで麗歌の新たな人生を否定していたことが嘘のように口が動いた。
忘れていた親という感情が一気に戻ってきたからかもしれない。
欲望に塗れ淀んでいた凜之介の心は愛紀音と麗歌の言葉により、白く清らかに浄化されていた。
愛紀音は麗歌と凜之介の捻れが無くなったことを確認すると、足音も立てずに社長室を後にした。
「少し、愛紀音に似てきたな……」
「そ、そうですか!?」
数秒後、麗歌と凜之介はお互いの顔を見て笑い出し、廊下を歩き進んでいた愛紀音も口元を少し解けさせていた。
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