第1巻-第17幕- 籠の鳥は檻をも揺らす
家に帰った麗歌は鞄を使用人に預けると、凜之介のいる社長室に向かった。
いつもなら足が重い道のりだが、今は何だか違う。
覚悟を決めた足取りは軽く、脈打つ心臓の鼓動は少し早くなっていた。
今日は帰った報告をするだけじゃない。自分の思いをぶつけるのだ。
社長室の前まで来た麗歌はいつもより大きく深呼吸をした。
早まった心臓の鼓動が緩やかになり、緊張した気持ちも柔らかく感じる。
正直なことを言うとまだ怖い。
凜之介はどんな反応をするのか、自分はどうなってしまうのか。覚悟と不安が入り交じって自分らしくない色が心の中に渦巻いている。
だけどここにはいないが、如月一牙や森宮柊茄、六輪曇妬の三人の面影が麗歌の背中を支えてくれている。
そう思うだけで濁った色は徐々に純粋な色を取り戻しているようだ。
生唾を飲み込む。コンコンと扉をノックする。
「入れ」
変わらない凜之介の厳格な声。
麗歌は吸い込んでいた息を思いっきり吐いて部屋の中に入った。
「失礼します」
社長室に入った麗歌は書類を鬼のように睨んでいる凜之介と対峙する。
実の父親なのに身が竦むような威圧感。落ち着いた心臓が鼓動を鳴動させる。
「麗歌か。最近帰りが遅い気がするがどこで何をしている」
読んでいた書類を置いて頬杖をつく凜之介。
麗歌はたじろぐことなく口を動かした。
「雰囲気の良い喫茶店を見つけましたので、そこで息抜きをしています」
「我が社が経営している喫茶店ではなく、個人経営の店ではあるまいな」
「個人経営の店です」
凜之介の目が変わった。
「お前は何を考えているのだ。そんな薄汚くて不浄な店のどこがいいのだか。お前は櫻木財閥の娘なのだぞ。我が社が経営している店の方へ行け」
この後凜之介の言葉の予測が麗歌にはついていた。
ここからが自分の本心を言う場である。
「大体喫茶店に行くという行為自体が愚かであると弁えよ。次期当主の身として息抜きなど必要ない。ただ真っ直ぐ家に帰って勉強だけをしていればよいのだ。分かったか麗歌よ」
「いいえ、理解できません」
「なっ……」
まさかの言葉に凜之介は面食らった。しかしその崩れた表情はほんの一瞬だけであり、厳格な表情がさらに険しくなる。
「自分が何を言ったのか分かっているのか」
「はい」
曇り無く麗歌は言い切った。
「私だって人間です。休息も無しに勉強漬けの日々を送っていると疲れが溜まってきます。なので休息も必要だと思ったからです」
「次期当主に休息の時間など必要ない! お前は将来この財閥を大きく成長させ、世界に名高いものとする義務があるのだぞ。休息に時間を費やすくらいなら、経済の流れでも勉強していろ!」
「…………」
「お前はこの財閥を成長させる糧なのだぞ。私の思うようにお前は動いていればいいのだ」
「それは、私は財閥を成長させるための道具ということでしょうか」
「それ以外に何がある」
やはり、如月一牙の言う通りだった。
凜之介は自分しか見えていない独裁主義思想の持ち主だ。いや、自分じゃない。
財閥という大きな思想を大きくしたいという願望の主張が強いのだ。それが凜之介を独裁主義に追いやった元凶。
「そのために私はお前を育ててきた。海外に行かせたのもお前が次期当主として必要な力を身につけてくることを見越してのことだ。その力を維持しつつ、こちらでさらに勉強を重ねればお前は次期当主として動く。それが私の理想なのだ」
「私の成長は全てお父様の掌の上だったということでしょうか」
「その通りだ。お前が当主となった場合でもお前は私の言う通りに動けばいい。経済も結婚も新事業等も私が提案した通りに動け。私の理想の財閥を作るための礎となれ」
「私が当主となっても全てはお父様の掌の上で動くというわけですか」
「当たり前だ」
それなら自分が当主にならなくてもいいのではないか。裏で動かしているのは凜之介なのだから。
いや、表で動かしているのが自分なら責任は凜之介ではなく自分が取らされるのではないだろうか。
黒雲が立ちこめる質問だとは承知だと思うが、念のため聞いてみることにする。
「お父様、もしかしてその新事業を現在ご計画されており、その統括責任者を私にするおつもりではありませんか」
小さく口元をニッと綻ばせたのを麗歌は見逃さなかった。
「その通りだ。新事業は水無月市全体、いや日本全体を包み込む大きなことだ。それはお前が当主になった最初の仕事でもある。つまり、この事業に成功すればお前の名声は上がり、財閥の方も大きく成長するということだ」
「それがお父様の目指す財閥に近づくと」
「そう。お前の名声が財閥を成長させる糧となる」
「新事業が失敗するというお考えはないのですか」
新たなものにはそれ相応に対するリスクと言うものは付きものだ。失敗無くして現在の経済は動いていない。
「失敗するわけがない。この財閥の社員は優秀者ばかりを取り揃えておるのだぞ。才能が無い劣等者は即刻排除している。才能が無いということは人間としての価値も無いと同然のことだ。そんな者が財閥にいてもらっては困るというものだ」
「——っ」
いつの間にか作っていた握り拳をさらに強く握った。
麗歌は今まで何人ものクビにされてきた社員を見て来た。納得のいかない表情を浮かべていたり、凜之介に対する怒りを露わにしていた者もいた。
それでも麗歌は彼らが劣等者だとは思っていない。
この財閥が支えられているのは辞めていった社員たちのおかげでもあるのだ。彼らの功績がどういうものなのかは分からないが、少なくとも財閥を影ながらも支えていた功績は誇ってもいいものだと思う。
財閥のことしか考えていない独裁主義は、この調子だと破滅を迎えそうと麗歌は推測した。それに裏に凜之介がいるとはいえ、自分も独裁主義思想に毒されそうなのはさらに嫌である。
そもそも自分は次期当主になりたくてこの話をしている訳ではない。
次期当主になりたくない。自由な人生を歩みたいからこの場にいるのだ。
そろそろ本題を切りだそう。
(見ていて下さい、皆さん。私の決意を)
この場にいない三人の面影を心の中に浮かべた。
「これが私の財閥としての理想であり、お前に継いで欲しい理想でもある」
「…………」
「分かったら部屋に戻れ。そして先ほどの自分の行いを反省し、夕飯時にそれを述べよ。今後同じような真似をした場合のことも考えておく。軽率な行動は慎むよう努力せよ」
「…………」
「分かったか、麗歌」
ここで「はい」と言って引き返すのは今までの弱い自分のままだ。
変わりたいと願っていたのは麗歌自身だろう。
だから如月一牙に相談したんじゃないか。
今の自分には味方がいる。
(俺たちはお前の味方だ。これからもずっとな)
(そーそー。私言ったでしょ? 櫻木さんの一番の味方になりたいって)
(俺の味方が一牙であったよーに、俺も櫻木さんの味方になりてーんだ)
背中を支えて勇気をくれる自分の一番の味方。
変わるのは今からなんだ。
麗歌は握り拳を開き、凜とした表情で凜之介を見つめた。
「お父様、改まってお話があります」
「何だ。手短に事を済ませよ」
「はい。では単刀直入にいいます」
一呼吸置く。
そして渾身の決意を露わにした。
「私は次期当主の座には就きません!」
社長室に響いた麗歌の決意。
たった十五文字の決意。
それだけが今まで心の中に押し止めていた麗歌の気持ち。
凜之介は麗歌の決意を聞き、こめかみに血管が浮かぶほど苛立っている。
そして麗歌の決意をかき消すかのような怒号が社長室を包んだ。
「自分が何を言ったのか分かっているのかこの大馬鹿者!!」
「——っ」
反射的に眼を閉じてしまう。それほどまで凜之介の怒号は大きかった。
足が竦み心臓の鼓動がさらに唸りを上げる。
だけどもう後戻りは出来ない。
「いいか! お前はこの櫻木財閥を継ぐためだけに生まれてきたのだぞ! お前が生まれた時からお前の人生は決まっていたのだ。それを今から否定するなど許さん!」
勢いよく席を立ち、腕を振るう凜之介。腕を振った風圧で机の上に積まれていた書類がパサパサと落ちていく。
書類が落ちたことなどお構いなしに凜之介は言葉を繋げる。
「お前を次期当主にさせるために私がどれほど費やしたと思っているのだ! 経済学の学習や海外留学等全ては次期当主に必要だからやらせたもの。経験させて貰った親への恩を忘れたのか!」
それらは麗歌が望んで行ったものではない。全て凜之介がやれと言ったからやったもの。それでも——
「様々な経験を積ませて下さった恩、忘れてはおりません」
「なら、今すぐ先の発言を撤回しろ! そしてお前はどういう立場なのか今一度理解するのだ!」
「ですが、先ほどの発言は撤回いたしません。あれは私の本心ですから」
「なっ——」
凜之介の言葉が止まる。
麗歌はすかさず発言した。
「私だって財閥の令嬢だということは重々承知しています。最終的には財閥の当主となる存在、周りの人々とは次元が一回りも二回りも違うということは学校生活を通じてよく理解しているつもりです」
「なら——」
「ですが、私もこの世界に生まれてきた一人の人間です! 一人の人間には一つの人生があるのはお父様だって理解されているのと思います」
今まで歩んできた人生と言う名の道は凜之介が定めた道。
麗歌自身が決めた人生は未だない。
「お前は私の決めた人生を歩んでいればいいのだ!」
「それは違いますお父様!」
麗歌は淡々と否定した。
「人は誰しも自分の決めた人生に沿って歩んでいきます。誰かに定められた人生じゃなく、自分自身が決めた人生に沿って。だから——」
麗歌は大きく息を吸って言葉を放った。
「私は私自身が決めた人生を歩んでいきたいのです! お父様の次期当主を目指す人生ではなく、私自身が決めた自由で何もない平坦な人生を!」
堂々と、それでいて逞しく言い放った麗歌の完全な決意。
如月一牙たちも「よく言った」と褒めてくれていることだろう。
凜之介の拳が強く握りしめられ、血管が湧き出ている。小刻みに震えているその手は今にも麗歌を殴りかかろうとしているように思える。
「次期当主になるつもりはありませんが、考えが変わりましたら改めてご連絡します。もう一度言います。私は次期当主になる気は今のところありません。そのことをよく覚えて置いて下さい。私からは以上です」
麗歌は踵を返して社長室から立ち去ろうとする。
「ふ——」
凜之介は握り拳を血が滲むくらいまで強く握り、扉へ向かっている麗歌を睨みつけた。
「ふざけるな麗歌!」
そして社長室を震撼とさせる大声を張り上げ、麗歌の歩みを止める。
「何が次期当主になる気がないだと? 虚言も大概にすることだぞ! お前がこの財閥を引き継ぐというのは覆りようもない事実なのだ! 新たな人生を探求するというのはどれほどの茨の道か知っているのか? そんな茨の道を通るよりは舗装された道である私の人生に従っておればよいのだ!」
「……っ」
確かに凜之介の言い分も一理ある。
麗歌は単純に自由な人生を歩みたいと持っているが、何をすればいいのかは全くと言っていいほど見当が付いていない。茨の道に入って棘で大怪我をするようなものだ。
高校二年生というあと少しで社会人の仲間入りを果たすこの時期に、自分探しの旅をしていけるのだろうか。
(いえ、それでも見つけるんですわ。絶対に)
自分一人じゃ挫折してしまうかもしれない。
だけど自分には味方がいる。きっと見つけられるはずだ。
「全ての発言を撤回し、次期当主になる考えを改めよ!」
「撤回いたしません!」
今一度凜之介の方を振り返り、強い口調で麗歌は言い放つ。
「確かにお父様の言う通りの茨の道かもしれません。ですが、茨の道だからこそ私が歩みたいと思える人生が見つかるかもしれないのです。私は、私の信念の元、茨の道を歩んでいきたいのです」
「いい加減にしろ!」
ゴンッ!!
「——っ!」
間髪入れずに飛んできた凜之介の怒号。頭に血が上っており、机に思いっきり拳を叩きつけた。麗歌はその殴音に一瞬体を強ばらせたが、突如として後ろから響いてきた音と、凜々しく品のある声に意識を持っていかれた。
バアン!!
「いい加減にするのはあなたよ!」
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