第1巻-第16幕- 如月一牙のアドバイス

「はい……」

 ようやく会えた。この人が、この人が自分の探していた人なのだ。

「相談してもらう前に最初に櫻木に謝っておかなければならない。染崎校長が言ってた相談役が俺だって隠してて申し訳ない」

「俺からも、すまん」

「私からも。ごめんね」

 三人は一斉に櫻木の方を向けて頭を下げた。

 意図してない謝罪に櫻木は混乱し、頭を下げている三人を宥めようとする。

「あ、頭を上げてください。何も謝られるようなことでは……」

「いーや、謝っておかねぇと気が済まねぇんだ」

「櫻木さんが悩みを抱えてたって知ってたのに、それを避けるようなことばかりしてたから。私たちはただ近づこうと話してただけだったし……」

「結局のところ俺たちは『クラスメイトだから』や『信じて貰えないだろう』っていう安直な理由で櫻木を避けていたんだ。だから……その……すまなかった」

 避けていたの言葉の後が上手く繋がらず、さっきよりも深々と頭を下げた。

 最初は『信じて貰えない』という意味で櫻木から避けていた。その後、何度も櫻木が来店しては、こじつけのような言い訳をして自分はカウンセラーの人ではないと避け続けてきた。

 逃げる供述は簡単である。しかし受け入れるという供述は安易なものではない。それを意識している内に櫻木から逃げていたのだろうと考えた。

 櫻木は数秒間頭を下げた三人を見て「はぁ」と溜め息のようなものをついた。

「あなた方の言いたいことは分かりましたわ。今思い返してみると避けられているように見えますわね」

「「「…………」」」

「ですが、私も最初に如月さんが染崎校長のおっしゃった相談役と言われましても、きっと信用しなかったと思いますわ。ましてや会って数日しか経っていないのに自分の悩みを簡単に吐露できず、悩みを外部に漏らさないか疑いも持っていたと思いますから」

 櫻木の言うことも最もだ。他人の悩みを外部に漏らすと言うことは信頼関係を大きく損ねる事案である。一牙も多少気を付けてはいるのだが、うっかりしていると口が滑りそうになったことが何回かある。

「ですから、この件は双方に非があるかもしれないということに基づいて、無かったことにしませんか?」

「櫻木さん、いいの?」

 柊茄が顔を上げて問いた。一牙と曇妬も少し驚きながらも顔を上げる。

「ええ。むしろそうして下さるとありがたいですわ」

「……分かった」

 一牙は改めて櫻木に頭を下げた。

「ありがとう、櫻木。そしてすまなかった」

「それはもういいですわよ」

「そうだったな」

 一牙は一口コーヒーを啜った。ほろ苦い風味が広がっていく。

「それじゃあ、聞かせてくれ。櫻木が持っている悩みを」

「はい。ではまず——」

 櫻木は悩みを話す時は緊張で言葉が回らないのではないかと考えていたが、今話し始めてみてそれは杞憂だったと考えた。

 リラックスしたように言葉がすらすらと出てくる。やっと話せたからというのもあるかもしれないが、一番は最大の味方がこんなにもいるということだった。


 ♢   ♢   ♢


「ご存知の通り私は櫻木財閥の令嬢です。幼い頃からお父様に言われるがまま生活してきました。勉強は常に一番を取り、学校内では最高の立ち位置にいろと。そうして櫻木財閥の力を教師に見せつけようとしていました。それはまだ右も左も分からない小さな子供にも」

「あれ? 櫻木さんって水無月市出身だよね? 水無月小学校や水無月中学校なら櫻木さんの噂なら聞こえてくるけど、全然聞こえなかったわよ?」

 一牙と柊茄と曇妬は共に水無月中学校出身だ。一牙と柊茄は水無月小学校からの腐れ縁でもあるが、曇妬は水無月市外の小学校出身となる。中学生の時に曇妬は水無月市に引っ越してきた。

 そもそも櫻木財閥は水無月市に本社を構えていて、全国に分社が存在している。令嬢である櫻木は普通水無月市の小学校や中学校に通うはずだ。

「ええ。戸籍では水無月市出身ですが、水無月市に帰ってきたのは一年前なのです。年に三回か四回くらいは日本に帰ってきていましたが、それもほんの数日だけ。本当に帰ってきたのは一年前となり、それまでは別の場所にいました」

「別のって……どこだ? 俺のいた小学校でも櫻木の話は聞いたことねぇぞ」

「この水無月市周辺……ではありません。水無月市外というより日本外と言った方が正しいですわね」

「に、日本外!? っつーことは一年前まで外国にいたってことかよ」

 曇妬が背もたれに全体を預けるようにして驚いていた。

「なるほど、外国なら櫻木の凄さを俺たちが知らないわけだ」

「はい。少し記憶が曖昧ですが、三歳くらいから海外でお母様と一緒に生活していました。お父様は日本に残り、お母様は海外で櫻木財閥を広げるために動いています」

「私たちが三歳って確か櫻木財閥が海外進出をし始めた時期よね?」

「ってことは櫻木は海外進出を期に世界に櫻木財閥の力を見せようと、留学させられたって訳だな」

 一牙の冷静な分析に櫻木はこくっと頷いた。

「お父様は経営が第一で、家族のことなどはほとんどどうでもいいような人です。自分の経営方針に背く人は即刻排除して、独裁的な経済で日本を回す。それがお父様の思想のようです。現にお父様の経営方針に従わなかった従業員は次々と解雇されていきました」

「おいおいマジかよ」

 今の話が本当なら、全国の経済の一部を回している櫻木財閥は相当なブラック企業ということになる。身近なことに気付かず、自分と大きな世界のみを見て回る。典型的な独裁主義思想だ。

「私はそんなお父様が怖くて、お母様に無理言って海外に行ったのかもしれません。しかし、海外に行ってもお父様の管理からは逃れられず、私は結局お父様の言う通りに学校で一番の存在を取ろうと頑張ってきました」

 櫻木は一口紅茶を飲み、乾き始めていた舌を潤す。

「そして一年前、私はお父様に呼び戻され、水無月市に戻ってきました。海外でのアピールはもう十分らしく、海外で培った経験を日本の高校生活で見せろと言われました。十数年前のお父様と一年前のお父様の本質は全く変わってなかったのです」

「まだ海外の方にいたいって言わなかったのか?」

「言いました。ですがお母様も戻った方がいいとおっしゃっていたので、私はそれに従ったまでです。日本に戻ってからお父様は『お前は櫻木財閥の次期当主となる。お前のことは全て私が管理する』と言い、私を次期当主に仕立て上げるため、様々な英才教育を施そうとしました」

「うっひゃー、外国から戻ってきてさらに勉強とか俺は無理無理」

「お父様は毎日のように『常に頂上に君臨し続け、孤高の存在であれ』と言います。皆さんはこれがどういう意味か分かりますか?」

 櫻木は三人に問いかける。三人は「うーん……」と唸って暫くの間考えていた。真っ先に答えを出したのは柊茄だった。

「頂上ってことは学校内で上の立ち位置にいろってことでしょ? 学級委員とか生徒会長とか。あと成績一位とか」

 次に応えたのは一牙だった。

「孤高の存在ってことは、仲間は作らず、一人、孤独でいろってことか?」

「その通りですわ。私はその言葉を聞いてから学校内ではなるべく上の位置に付けるよう努力してきました。学級委員はもちろんのこと、成績でも一位をずっと保ち続け仲間は作らないように。私はしっかりと頂上に君臨し、孤高の存在になっていたのです」

 櫻木はダージリンに映る自分の俯いた表情を見た。まるで悲しそうで今にも助けて求めてそうな表情だ。

「ですが、最近になって思えてきたのです。これがお父様の望む姿だったとしても、私が望む姿なのか。私はお父様の言いなりを守っていただけであって、私が本当にしたいことは何なのかと。それが分からなくなってきまして……」

「で、幸にも染崎校長が俺のことを話したから相談しようと思った訳だな」

「はい……。如月さん、私はどうすればいいのでしょう……」

 一牙はコーヒーを啜り、頭の中でまとめたいくつかの質問を櫻木に繰り出す。

「櫻木、何個か質問させてくれ」

「何でしょうか……」

「まず、お前の父親の性格上、お前を次期当主にさせる願望が強いように感じる。そのため、次期当主に必要な知識等を無理矢理詰め込ませているような気がするんだ。つまり、父親に束縛されているような感じはしないか?」

「——っ!」

 櫻木の悲しそうな目が急に見開いて一牙を見つめた。まるでどうして分かったのかと言いたげに。

「はい。その通りですわ。でもどうして……」

「自分のことしか見えない独裁主義思想の人が目の前の相手を自分の思うように好き勝手できるとあれば、束縛や洗脳させて思い通りに動かす、もしくは使えないと判断した際には切り捨てるの二択しか存在しないと俺は思う。他にも選択肢はあると思うがな」

 難しい心理学的な話をされて曇妬の頭は混乱し、柊茄も微妙な表情を浮かべている。

「今のことから、櫻木の父親は次期当主に必要な物を詰め込んで、財閥を発展させるために櫻木を束縛しているのかもしれないと俺は推測したんだ」

「束縛されているかもしれないという自覚はありますわ。数日前だって……」

「数日前だって?」

「お父様に『お前の人生は私が決める。お前自身が決めていいものではない』と言われましたから……」

 その言葉は三人に大きな衝撃を与えた。

「ひっでーなそれ!」

「全くよ。櫻木さんの人生を勝手に決めてるとか頭おかしいんじゃないの? 普通は櫻木さん本人が決めるものでしょ?」

「だな! まるで櫻木さんを道具として見ているようだぜ、櫻木の父ちゃん。櫻木さんは財閥を大きくさせるための道具じゃねーだろ」

 曇妬と柊茄が凜之介のことをボロボロに貶していることから、櫻木は憤りを感じるどころか、逆にスッキリしたような感覚を覚えた。

「だが、今ので確信できた。櫻木は完全に父親から束縛されている。それも人生という大きな束縛だ」

「私も『お前の人生は私が決める』という言葉を聞いた途端、得も言えぬ感情がこみ上げてきましたわ。どうして私は自由に生きられないのだろうと考えましたもの」

「自由?」

「はい。そもそも私、櫻木財閥の次期当主と謳っていますが、当主になんかなりたくないのです」

「ま、同感ね」

「だな。俺もそんな親から継ぎたくねーわ」

 柊茄と曇妬は櫻木に同情した。一牙も同情する。

 如月喫茶がブラックな喫茶店だった場合、自分は進んで店を手伝わなかっただろうし、継ごうとも思っていないだろう。また、このブラックな環境を変えようと決意して、店を引き継ごうとしていたかもしれない。

「だから自由なんだな。次期当主の座から離れて、自分が求める自由の人生を歩みたいと」

「はい。定められて束縛された人生じゃなく、自由に探求する私の人生はどんなものなのか見つけたいのです」

「見つけられたな。やりたいこと」

「あっ……」

 櫻木は口元を手で隠し、頬を少し赤らめた。その様子に曇妬と柊茄は笑い、一牙も笑みを浮かべた。

 一牙は人差し指と中指を立てる。

「それじゃ二つ目。束縛されている人生を顧みて、楽しいと思ったことはあるか?」

「……それは……」

「無理なら答えなくていい。こっちも無理して聞き出そうとは思ってないから」

「いえ、大丈夫です。楽しいと思ったことは…………無いですわ。去年の高校生活一年を振り返ってみても、楽しいと感じたことは一度もありません」

「そうか」

 一牙は櫻木の様子を見つつ、次の質問を出した。

「三つ目。学級委員や学年一位は自分が望んで行った結果か?」

「……違いますわ。お父様の言いつけを守った結果です。本来ならそのようなこと私自身は……望んでいませんでした」

「分かった」

 一牙は親指を折って四を表した。

「四つ目。自分の思ったことを素直に父親か母親に言おうとしたことはあるか?」

「…………」

 櫻木は黙ってしまった。紅茶に映っている自分の顔しか見ていない。

 一牙はマズい質問でもしてしまったかと少しだけあたふたし、訂正しようとする。

「わ、悪かった。今の質問は無しにす——」

「……ありませんわ」

 訂正しようとした質問を櫻木は答えた。

 一牙はてっきり櫻木の地雷を踏んでしまった質問をしてしまったのではないかと考えたが、それは考えすぎだったのかもしれない。

「話そうと思ったことはあります。ですが、どう言葉にしていいのか分からなくて……」

「……そうか」

 一牙は宥めるように言って、指を全部広げた。

「最後の質問だ。櫻木、お前は……変わりたいか?」

 この質問に一牙の言いたかったことの全てが含まれている。

 変わりたいならそれを手助けしようと考えるし、変わりたくないのであればそれもまた一つの人生だ。

 ただ、今までの櫻木の様子と質問の応答から推測するに答えは一つしかない。

 櫻木は目を見開いて大きな声で答えた。

「変わりたいですわ!」

 決意の籠もった大きな主張は一牙たち三人の心に響く。

 一牙はしっかりと櫻木の決意を胸にしまい込み、コーヒーを啜った。

「櫻木の決意、しっかりと受け止めたぞ」

「ええ、私も」

「俺もだ」

「皆さん……ありがとうございます」

 櫻木は髪をダージリンに付けないように頭を下げた。

「ただ櫻木、一つだけ言わせてくれ」

「はい、何でしょう」

「この問題は櫻木自身の問題だ。俺たちが介入できるものじゃない。あくまで俺たちは助言を与えるだけしかできず、事の顛末はただ傍観することしかできない。事の顛末を変えるのは櫻木自身だ。それをまず頭に入れておいてくれ」

「はい」

 相談役が事を解決することは何も珍しいものじゃない。ただ、一牙のような一般人が相談役の場合、櫻木のような日本全体を揺れ動かすような大きなことに介入してしまうと、どのようなことが起こるのか想像がつかなくなる。

 解決するのは依頼者自身だ。相談役が解決するのはミステリー小説やドラマに登場する探偵だけで十分である。

 一牙が聞く相談は『依頼者の悩みを聞き、背中を押す助言をすること』であって解決するものではない。

「如月さん、私はどうすれば……」

「櫻木自身が変わろうって思うんなら、その覚悟を父親に伝えればいい。お前の本音を伝えれば、いかに独裁主義思想の父親でも変わってくれるはずさ」

「で、でも……」

「怖いのか?」

「…………」

 櫻木は俯いてしまった。

「そりゃあ俺だってお前の立場からしたら、自分の本音を伝えようとするのは怖いさ。怒るんじゃないだろうか、どのようなことを言ってくるのだろうか、自分は何をされるのかって考えるだけでも恐怖ってのはいくらでも押し寄せてくる」

「…………」

「今だって父さんや母さんに本音をぶつけようとするんなら、きっと尻込みしちゃうだろうな。長年一緒に暮らしていた家族でも、本音を話すのは誰だって怖いもんさ」

 友人だからこそ話せる本音と、家族だからこそ話せる本音は同一だ。自分の思いを聞いて欲しいからこそ、恐怖という感情の波は大きく押し寄せてくる。

「改めて聞くぞ。怖いんだろ。父親と話すことが」

「……如月さんの言うとおり、怖いです。私は海外から戻ってきてからお父様と面と向き合って話し合いをしたことがありません。一方的にお父様の方から話すことばかりなので……」

 櫻木は俯きながら細々と呟いた。

「私にはお父様と話すのは……無理です……」

「面と向き合って話さないとお前自身変われないんだぞ!?」

「そんなこと分かっていますわ!」

 バンッ!!

「「「——っ!」」」

 机を叩きつけて怒号を放つ櫻木。一牙も曇妬も柊茄も櫻木の怒号と机の叩く音に面食らっていた。

 櫻木の目頭にはじんわりと涙が浮かんでいる。

「分かっているんです……。変わりたい、自由を手に入れたいならお父様と話すしかないっていうことは……。でも、無理なんです」

「どうしてなの?」

 柊茄が優しく声をかけた。

「私には……そんな勇気なんて……」

「勇気くらいいくらでもあげるわよ。ねぇ」

「えっ?」

 柊茄の発言に櫻木は目を丸くした。

「だな。俺だって大量に分けてあげるぜ」

 最後の一枚のピザトーストを頬張って曇妬が親指を立てた。

「勇気がないなら周りから受け取れば良い。自分で勇気を作り出すことなんて非常に難しい話さ。俺の勇気でよければいくらでも持っていけ」

 一牙は櫻木を優しく見つめた。

「俺たちはお前の味方だ。これからもずっとな」

「そーそー。私言ったでしょ? 櫻木さんの一番の味方になりたいって」

「俺の味方が一牙であったよーに、俺も櫻木さんの味方になりてーんだ」

「皆さん……」

 潤んでいた瞳に涙がさらに浮かび上がってくる。

 一滴、櫻木の頬を伝って床に落ちた。

「櫻木が父親と話す時に俺たちはいないが、俺たちの気持ちは櫻木の周りにある。話している時は一人かもしれないけど、一人じゃない。俺たちがいるからな」

「櫻木さんは今までずっと孤高の存在だったけど、今は孤高じゃないでしょ? 私たちがいるからね」

「ガツンと言ってこいよな。俺だって自転車部の奴らと言い合って、殴り合ったから分かり合えたんだ。きっと櫻木さんだって言い合えば分かり合えるはずなんだよ」

「……あり……がとう……ございます……」

 櫻木は口元を手で覆って大粒の涙を流していた。

 一粒、また一粒を浮かぶ雫は一牙たちに感謝を伝えると共に、これから歩み出す自由への道を決意しているように落ちていった。


 少しの間泣いていた櫻木だったが、徐々に落ち着きを取り戻していく。柊茄からハンカチを借りて涙を拭いていた。

 ティーカップにあったダージリンはいつの間にか無くなっていた。

 一牙は席を立ち、ダージリンの葉と別の葉をティーバッグに入れて紅茶の準備をした。茶葉が全体的に広がったことを確認すると櫻木のところに持っていく。

 コトッとティーカップを置くと、櫻木は不思議そうな表情をして一牙を見た。

「あの、私頼んでいませんが……」

「俺からのサービスだ。遠慮なく飲んでくれ」

「ありがとうございます」

 櫻木は礼を言い、すすっと一口紅茶を飲んだ。

 ダージリンの芳醇な香りが広がっていく中、落ち着くような味も広がっている。その落ち着きの味は心まですぐに浸透していた。

 これは家やここで飲んでいるダージリンのストレートティーではない。

「如月さん、この紅茶は……」

「ダージリンとハーブのブレンドティーさ。ハーブは心が落ち着くものを入れてる。……口に合わなかったか?」

「いえ、とっても美味しいですわ」

「それならよかった」

 一牙はドリップしたコーヒーが入ったポットを持ってきて、少なくなっていた自分のコーヒーカップの中にコーヒーを注ぐ。立ち上る湯気と共にコーヒーの苦い香りが漂った。

「皆さん、改めていろいろありがとうございます」

「どういたしまして」

 一牙は謙遜することなく言った。普段なら謙遜してこんな言葉は言わないのだが、今だけは流れに身を任せるように口が動いた。

「別に無理して今日話さなくてもいい。櫻木自身の気持ちが落ち着いたら面と向かって話をしてみろ」

「いえ、この後帰ったらすぐに話しますわ」

 キリッとした瞳には涙を浮かべそうな雨雲はなく、決意を露わにしているようだ。

「今得られたことを忘れる前にお父様と話をしたいのです。もう気持ちの整理はついていますので」

「そうか。俺はこの場から頑張れとエールを送ることくらいしかできないが、しっかりと話してこいよ」

「はい」

 櫻木はもう一口、ブレンドハーブティーを飲む。

 心を落ち着かせて話し合う覚悟を決めていた。

 自分はまな板の上の魚でもなければ、籠の中の鳥でもない。

 自分の人生は父親に定められる束縛とした人生なわけない。

 掴むんだ。自由を求めて自分自身の人生を。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る