第1巻-第15幕- 如月喫茶のカウンセラー

「——分かっているのか!!」

「ひっ……」

「な、何だ何だ?」

 放課後、職員室で大きな怒号が響き渡り、通りかかった生徒や職員室で休憩していた職員は体を強ばらせた。廊下の窓の外にいた雀たちがピピピと空へ驚いたように羽ばたいていった。

 理由は至極簡単なことである。

 数日前に行われた課題テストで、全面真っ白で提出した生徒が叱られているからだ。

 その正体はというと——

 ガラララ……。

「失礼しましたー」

 職員室の扉を開けて出てきたのは六輪曇妬だった。叱られていたのは曇妬であり、怒号を飛ばしたのは担任である永嶋だったのだ。

 曇妬は気怠そうな足取りで廊下を進んでいく。

「あー、永センめ。何もあんなに怒らなくてもいいだろうが……」

 ぶつぶつ文句を言いながら曇妬はふらふらした足取りで自分の教室に戻っていく。

 教室にはもう誰もいなかった。

 永嶋に呼び出された時に一牙に「用意頼むぜ」とだけ言って職員室に向かったのだ。今頃一牙と柊茄はラブラブな雰囲気で下校しているのだろうなと考える。とその思考に「それはない!」と打ち破るように妄想の一牙と柊茄が否定してきた。

「くそ、やけ食いでもしてやろーか。金は……げっ」

 自分の席に掛けている鞄から財布を取り出して中身を見た。財布の中身は昼休みに頼んだものがちょうど支払える金額が入っており、とてもやけ食いできるほど大量に入ってなかった。

「我慢すっかー」

 やけ食いの考えは即座にポイ捨てし、鞄を肩に引っ提げて教室を出て行こうとする。

「六輪さん」

「はい?」

 廊下に出ると誰かに呼ばれた。

 ややイライラ気味の返答で振り返ると、そこには櫻木が立っていた。

「さ、櫻木さん!?」

「驚かせてしまいましたか?」

「い、いえ。大丈夫っす……。で、俺に何か用っすか?」

 どぎまぎして同級生なのに敬語で接してしまう。

「特にそれといった用ではないのですが、これから如月喫茶の方に向かわれるのですか?」

「おう、一応昼休みに一牙にメニュー頼んでおいたしな」

「でしたら、私も一緒について行ってもいいでしょうか?」

「え、ええっ!」

 まさかの櫻木の発言に曇妬は驚きを隠せず、大きな声で叫んでしまった。周りにいた生徒たちが何事かと振り返る。

「どこか不都合でもおありでしたでしょうか?」

「い、いや……ちょっと驚いただけ。で、何でまた……」

「少しお話を伺いたいと思いまして」

「……まぁそれくらいならいっか。んじゃ、一牙も待ってるかもしんねぇし、行こうぜ」

「はい」

 廊下を周りの生徒からやや変な目で見られながらも無視し、校門をくぐって国道に出る。曇妬は一度櫻木を校門前に待たせて、自分の自転車を取りに行った。

 自転車を取りに行っている最中「あれ? 何か俺と櫻木が付き合っているように見えんじゃね?」と邪な悪魔が曇妬の思考を阻害していた。しかし「櫻木が如月喫茶に用があるということは今日もカウンセラーの人を探しに行くのだ」と天使が悪魔と対立する。曇妬はあの雰囲気を見ている限り、天使の意見の方が理に適っていると判断し、悪魔を振り払って消滅させた。

 自転車を引きながら国道の歩道を歩く二人。

 恋愛経験のない曇妬にとっては、社長令嬢の櫻木と一緒に歩いていること自体が夢のようなことなので、常に緊張しっぱなしだ。心臓はドクドク鳴り響いており、今にも喉から飛び出てきそうである。

 一方、櫻木はすまし顔で特に意識もせずに歩いている。頭の中では曇妬に聞く内容を少しずつまとめていた。

「あの、六輪さん」

「は、はいっ!」

 緊張しっぱなしの曇妬は呼ばれただけで固まり、その場で自転車と一緒に気をつけをした。

「どうしたのですか?」

「あ、いや……その……」

(言えねぇ……めっちゃ緊張してるとか言えねぇ……)

 曇妬は照れ笑いを浮かべながらも、櫻木と一緒に歩道を歩く。

「少しお聞きしたいのですが、六輪さんも如月喫茶のカウンセラーの方と話したことがありますか?」

「えっ……と……」

 この場合どうすればいいんだと曇妬の思考が渦巻く。俺が一牙のことを言っていいのか、どういったことを言えばいいのかと色々考えてしまう。

「そんなに難しく考えないで下さい。昼休みに森宮さんと話して大体の検討はついていますから」

「そ、それって……」

 いや、言うまでもないことだった。とっくに櫻木は気付いているのだ。

 一牙が櫻木の求めているカウンセラーだったということに。

 なら、別に隠し通す必要もないのではないか。

 短い天下だったな、俺の緊張感と曇妬はそれと決別した。

 今なら色んなことを言えそうな気がする。

「櫻木さんはもう気付いているっぽいから本人の要望で名前は言わねぇけど、俺も何度かそのカウンセラーの人に相談したことがあるんだ。相談しなかったら今の俺は無いと思うし、あの店の常連にもなってなかったのかもしんねぇ」

「六輪さんはどんなアドバイスを貰ったのですか?」

「そーだなぁ……。少し話長くなるけどいっか?」

「構いませんわ。まだ距離はありますもの」

 信号が赤に変わる。今日は横に小学生や中学生の姿は見えない。

 曇妬は自転車のグリップを力強く握りしめて語り出した。

「櫻木さんは知らねぇと思うけど、俺って中学の頃自転車部に入ってたんだ。数人しかいない部だったけどよ、大会はガチで頑張ってたし、俺もそれに応えようとしてたんだよ」

 思い起こされる自転車部での日々。今でも肘や膝に残っている擦り傷の痕は、努力してきた勲章だと誇りに思っている。

「みんな仲がよかったんだ。一人が怪我したらみんなで助け合って応急処置したし、初めて完走した時はハイタッチとかしたりして先輩後輩関係なく喜んでいたんだ。大会こそ頑張ってたけどいい結果にはなれなかった。みんなで泣いて叩き合って次の目標へ向かって頑張ろうと決意した。これが俺の自転車部だって思えるようになってきたんだ」

「青春……ですわね」

「ああ。今でもあの自転車部は俺の中学時代の青春だよ。入っててよかったって今でも思ってる」

 部長の雄叫びと共に河原の堤防をかっ飛ばして近所の人に叱られた思い出。あの夕日を追いかけようとして道に迷った思い出。どれもこれも曇妬の青春時代を築いたパズルのピースの一欠片だ。

「だけど俺が中学二年の時、自転車部が廃部になるって噂を聞いたんだ。元々人数が少なく、新一年生も二人くらいしか入ってこなかった。このペースでいけば自転車部は廃部になるって」

「…………」

「俺や部長はどうにかして存続させようと策を練ったが、他の部員はもうやる気を無くしてたんだ。大会に優勝して部の魅力を広めようとしたけど、誰も練習する気にならず、結局最終的には俺と部長しか部室に残らなくなった。後の部員はもう来なくなったんだ」

「それで、相談しに行ったのですね」

「ああ。元々あの店は母ちゃんが働いてるから行きやすくてな。そこで部長と一緒にカウンセラーの人に相談したんだよ。まぁその時点でカウンセラーの人がアイツだったってことは知らなかったから驚いたけどな。で、どうすれば部員は戻ってくるのか、どうすれば自転車部は廃部にならずに済むのかって聞いたんだ」

 カッコー、カッコー——

 信号が青に変わった。車が進み出し、自分たちも歩き始める。

「それでアドバイスは……」

 曇妬はふっと笑って自転車に跨がった。つま先で櫻木の歩くペースに合わせながら自転車を進めていく。

「すんごい簡単な話だった。『お前たちは策を練っていただけで行動に移していない。部員は知らせを聞いても、策だけ練って行動しようとしないお前たちに呆れて離れていった。ならまずはお前たちから動いて誠意を見せてみろ』ってな。確かにその通りだったさ。俺と部長は自転車部の廃部を阻止しようと考えていただけであって、実際に動いてなかったんだ。練習で廃部になるっていう気持ちを紛らわしていただけで、生徒会や顧問に殴り込み……じゃねぇ、話を付けに行こうとすらしてなかった」

「六輪さんはどうしたんですの?」

「部長と一回気が済むまで殴り合ってお互いの気持ちを確かめた。本当に自転車部を存続させたいのかってな。ちゃんと部長と俺の気持ちは繋がってたことを知った。ほら、ここに変な傷があるだろ? これはそん時の殴り合いの証だ」

 曇妬は頬を指さした。櫻木は曇妬が指さしたところを見ると、確かにそこには殴り合いの形跡のようなものが残っていた。

「で、あとは部員たちに話を付けた。俺と部長の気持ちは本気だってこと。自転車部を存続させるためだけに何もしなくてすまなかったと土下座までしてな。まぁそんな土下座一つで許してくれる連中じゃなかったし、一人二発くらいは殴られたよ。だけど殴られたことによって絆が生まれた。そうして顧問の先生や生徒会に話を付けて、何とか存続させるための条件を得ることができたんだ」

「条件……ですの?」

「水無月市主催の自転車大会で優勝すれば存続を認め、優勝できなかったら廃部っていう条件。山みたいにすんげー壁だってのはみんな知ってた。だけど存続させるにはやるしかねぇということで、みんな大会に向けて必死に練習したんだ。俺は思ったよ。こんなにも一致団結したのは初めてだなって」

「大会の方はどうだったんですの?」

「……準優勝」

 曇妬は乗っていた自転車から降りた。

「一位のチームとほんの僅か一秒差で負けた。でも、不思議と悔いは無かったんだよ。みんなが全力を出して一致団結してやった結果だからじゃないかな」

「でも、部の方は……」

「察しの通り廃部に…………ならなかった」

「えっ?」

 櫻木は歩みを止めて、曇妬の方を向いた。

「あの後、一生懸命やる姿に感激したとか、俺も自転車やってみてーって奴らがいろいろ押しつけてきてな。部員が急に増えたんだ。だから廃部にはならなくなった」

「よかったですわね」

「ああ。カウンセラーの人に相談して、部員たちと殴り合って気持ちが分かり合えたからこそ、今の自転車部があるんだ。だから、俺は相談したカウンセラーの人に今でも感謝してる。お礼なんかできそうもないくらいに」

 曇妬の脳裏には殴り合って気持ちを分かち合った光景が浮かんでいる。青春っぽいことをしたなと振り返りながらも、あれも今の自分を成長させたものの一つなんだなと思っている。

「そのことはカウンセラーの人には伝えたんですの?」

「ちゃんと伝えたさ。だけど『俺は相談に乗っただけだ。実際に動いたのはお前たちなんだから俺は何もしていない。お前たちの努力の結晶が実を結んだんだ』って言うんだよ。もうちょっと照れてもよくね?」

「ふふっ、あの人なら謙遜しそうですわね」

「だろ?」

 二人はある人物を思い浮かべながら笑い合った。

 住宅地にさしかかろうとした時、目の前から自転車が猛スピードで通ろうとしていた。その自転車に乗っている人は曇妬の見覚えのあるユニフォームを着ていた。

 『水無月中学自転車部』とそのユニフォームには刺繍が刻まれていた。

 まるで風のように疾風を巻き起こして通り過ぎた自転車の人を見て、曇妬はふっとほくそ笑んだ。

「六輪さん、今のって……」

「ああ。俺たちが築き上げて遺した卵だよ」

 決まった……と曇妬は今の台詞に百点をあげたいと思う。

 櫻木はいまいち曇妬の台詞の意味が分からないように首を傾げていたが、特に気にせず住宅地へと入って行った。


 カランカラン。

 櫻木が扉を開けると聞き慣れてきた音が響いてきた。と同時に——

「いらっしゃいませ」

 とこっちを向いて接客してくれる店員の声も一緒に。

 今の時間帯の店内はがらんとしていた。お客も柊茄しかいなく、今来た櫻木と曇妬を加えると三人しかいない。店内に流れているゆったりとした曲がよく聞こえてくる。扉を開けたと同時に入り込んできた風が、中央にある観葉植物の葉を揺らした。

「おーっす。来たぜー」

 櫻木の後ろから曇妬がひょっこりと手を挙げながら姿を現した。

「準備は出来てるぞ」

「さんきゅー」

 曇妬はそのままいつもの席である柊茄の正面に座った。机の上に用意してあったオレンジソーダをまずは勢いよくストローで吸い、おしぼりで手を満遍なく拭いた後、できたてのチーズ大盛りのピザトーストの一枚を鷲づかみして齧り付く。

 ザクッというトーストの美音が鳴り、細かなパンの粒子が皿や机に飛び散った。

「うんめーっ」

「アンタねぇ、もっと行儀よく食べることは出来ないわけ? 目の前に私がいるんだけど」

 曇妬の行動を見て、柊茄は若干睨みつけるように頬杖をついた。片手で持っていたミルクティーを机に置く。グラニュー糖が入っていたスティックは空になっており、ミルクピッチャーの中には何も入っていなかった。

 だが曇妬はそんなことお構いなしに、ピザトーストをオレンジソーダで流し込んだ。

「いいだろ別に。な?」

 右目をパチンとウィンクして、曇妬は一牙の方を見た。

「別にいいけど、俺の手間も考えろ」

「へーい」

 一牙の忠告は半分耳の中に入れ、もう半分は耳を突き抜けた。

 扉の前で呆然と立ち尽くしている櫻木は、その光景を見てくすっと笑っていた。

 一牙とその姿を見ていた柊茄も口元を緩めた。

「さ、お好きな席にお座りください」

「ええ」

 櫻木が最近よく座っている場所は初めて来た時と同じ二番テーブルだ。毎度毎度曇妬は後ろに座られているという緊張感と恐怖心に苛まれていたが、櫻木とたまに話すようになってから苛まれていないらしい。

 今日も二番テーブルに座ると踏んでいた一牙だったが、櫻木は二番テーブルを通り過ぎ、柊茄と曇妬が座っている一番テーブルの前まで来た。

「あの、森宮さん。お隣いいでしょうか?」

 突然のことに柊茄は目を白黒とさせ、曇妬はピザトーストを食べる動きが止まった。櫻木の思いを感じ取った柊茄はそういうことかとすぐに冷静さを取り戻し、置いていたミルクティーのカップを持って立ち上がった。

「いいわよ」

「ありがとうございます」

「あ、でも今コイツが散らかしたパン粉があるからちょっと注意してね」

「え、ええ……」

 苦笑を浮かべながら櫻木は柊茄が座っていた席に腰を下ろした。柊茄はいつも荷物を置いている窓側の席に座る。

 散らかしていたパン粉は一牙がさりげなく台拭きで取り除いていた。

「それで、注文はどうしますか?」

「では……ダージリンのストレートをお願いしますわ」

「はい、ダージリンのストレートですね。少々お待ちください」

 一牙は従業員専用のスイングドアからカウンターに戻って作業をし始めた。紅茶を淹れる様子を櫻木はずっと見つめていた。

 やがてお盆に乗ってダージリンのストレートが到着する。

「お待たせしました。ダージリンのストレートです」

 静かにコトッと置かれたティーカップと受け皿。一牙は「ごゆっくりどうぞ」とだけ言って再びカウンターに戻っていった。

 櫻木が何度もティーカップに入っているティーバッグを揺らして、茶葉を全体に染み渡らせる。この作業は何度も店に来てから常連客の仕草などを見て覚えた。

「森宮さん、ティーバッグ入れ取って貰えますか?」

 窓際に置かれているティーバッグ入れを柊茄に取って貰い「ありがとうございます」と返す。

 何度か来るうちにティーバッグの使い方やその処理の方法も身についた。

 全体に茶葉が染み渡ったらティーバッグを取り外し、取って貰ったティーバッグ入れに入れる。角から落ちる紅茶の水滴が落ちないよう素早く入れた。

 そして一度ティーカップを軽く回すように振り、匂いを嗅ぐ。鼻孔が擽られ飲みたい気持ちが増加した。

 そしてゆっくりとティーカップを傾け、紅茶を飲む。

 芳醇な紅茶の香りが口の中全体に広がり、甘さと渋みが混じり合う。

 ティーカップを受け皿に置き、一息ついた。

 今なら自分のありのままを話せそうである。

 話せそうではない。

 話すんだ。

 そのために来たのだから。

 櫻木の気持ちが落ち着いたのを確認した一牙は、自分用に入れたブラックコーヒーを持って一番テーブルに向かった。

「曇妬、お前奥いけ」

「へいへ」

 嫌そうな言葉遣いながらも、曇妬はオレンジソーダのコップとピザトーストの皿を奥の方へ移動させ、荷物置きとして使っている奥の席に座った。

 一牙はブラックコーヒーのカップを静かに置き、櫻木の目をしっかりと見て話し始めた。


「それじゃ、改めて自己紹介させてくれ。俺は如月一牙。この店の継ぎ者であり、相談役でもある。櫻木の言うカウンセラーの人だ。よろしくな」

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