第1巻-第13幕- 外れた道への糸口は
時間は少し遡り、如月喫茶を後にした麗歌。一牙から手渡された百五十円を財布にしまって、財布を鞄にしまう。鞄をしっかりと掛け直して歩き始めた。
小学生の集団やおばさん方から挨拶をされ、小声で挨拶を交わして進んでいく。
来た道を戻っている中、麗歌の頭の中はずっとカウンセラーのことが浮かんでいた。
確かに染崎校長の言う通り、カウンセラーの人は存在している。来るまで半信半疑なところがあったが、如月一牙の反応を見ている限り、存在しているといって間違いは無いだろう。
今日はたまたまタイミングが合わなかっただけ。日を改めて伺うと言ったのだ。きっと如月一牙もカウンセラーの人に「あなたに相談したい人がいる」と伝えてくれるはず。
いつか話せる日は来るのだ。その日が来るのを待てばいい。
まだ私は大丈夫。まだ私は壊れない。
そう自分で自分を洗脳するように言い聞かせた。
だけど……何故だろう。
目頭に涙が溜まっている。
一滴、頬を伝って地面に落ちた。
地面が涙で濡れている。
もう一滴、もう一滴と次々と雫が落ちていく。
雨粒のように雫は地面を濡らしていた。
何で涙が出ているのだろう。
ああ、そうか。
私は泣いているのか。
「な、何で……」
零れ落ちる涙を制服の袖で目を拭う。袖に涙のシミが広がっていく。
拭っても拭っても涙は止まらない。
「止まって……」
そう呟いても涙は止まらない。
視界は涙でぼやけて見えなくなっていた。
私は何で泣いてしまっているのだろう。
カウンセラーの人と会えなかったから?
カウンセラーの人に相談できなかったから?
まだあの呪縛が続くことに対する絶望なのか?
どれも違う。
違うけど、明確な答えが出てこない。
押し込まれた心の奔流が決壊してしまったのだ。
如月喫茶で紅茶を飲んだ後、何を得たのか。
何も得られてないではないか。泣いているのがその証拠だ。
得たのではない。得たと自分自身が錯覚したのだ。
如月喫茶に、如月一牙に、あの飲んだ紅茶に非はない。
あるのは自分の心の弱さなのだ。
嗚咽泣きになりながらも麗歌は一歩、一歩と歩みを進める。
足下が覚束ない。ふらふらと歩いてしまう。
「おねえちゃん?」
とその時、女の子の声が聞こえ、麗歌ははっと我に返る。
俯いてぼやけた視界をすぐに拭うと、目の前に小さな女の子が麗歌を心配するように下から覗き込んでいた。
小学校の帰りなのか赤いランドセルを背負っている。この住宅地の子なのだろうか他にも小学生を見かけたが、みんな別々の方向に歩いている。
「だいじょうぶ?」
首をこくっと傾けて麗歌の表情を伺っている女の子。
「だ、大丈夫よ」
再び目頭を制服の袖でごしごし拭って、涙を全て袖に吸収させた。
「ほら、もう泣いてないわ。だから大丈夫」
「ほんとう?」
「ええ、本当よ」
自分の目頭にはもう涙はないと女の子と同じ視線になるようにしゃがんで、自分の目を指した。
女の子は少し訝しむように麗歌の目をずっと見ていたが、涙がないことを知って小さく「よかった」と言った。
「おねえちゃん、なにかくるしいことがあったのかなっておもったの」
「えっ……」
女の子に自分の気持ちが見透かされていることに驚きを隠せなかった。
「くるしいことがあったらパパとママにおはなししたほうがいいとおもうの。わたし、がっこうであったこととか、くるしいこととか、かなしいこととか、たのしいこととかいつもはなしてるんだ」
「…………」
「そうしたらね、パパとママがわらってくれるの。だからいっぱいパパとママにおはなししたほうがいいとおもうの。おねえちゃんもかえったらおはなししてみようよ」
「え、ええ……」
「ちゃーんといまないてたこともはなそうね。パパとママがきっとおねえちゃんをたすけてくれるとおもうんだ」
「…………」
「やくそくだよ。じゃあね、おねえちゃん」
「じ、じゃあね……」
女の子は笑顔で手を振って麗歌から離れていった。麗歌はきょとんとしながらも手を小さく女の子に向かって振り返していた。
女の子の姿が見えなくなっても麗歌はずっとその場で立ち続けていた。
あの子は誰なんだろう。そして何だったのだろうと。
いくら考えても答えは出てこない。
だが、あの女の子の言葉が麗歌に小さな勇気を与えたことも事実。
決壊した心の奔流が女の子の言葉によって堰き止められた。
さっきも女の子に言ったのだ。
私は大丈夫と。
泣いたことによって心の整理がついた気がする。
まだ私は負けない。
大きな決意を固めた麗歌は力強く家に向かって一歩を踏み出した。
家に帰ると使用人たちが出迎えてくれる。麗歌は使用人に鞄を預けると凜之介がいる社長室へと向かった。帰ったという報告をするためだけに行くのである。
社長室の大きな木製の左右には使用人が銅像のように立っている。麗歌は扉の前に立ち、大きく深呼吸をした。
実の父親とは言え、あまり良い印象は持っていない。そしてこの社長室もあまり入りたくないのだ。
コンコン。
軽いノック音が鳴る。
「入れ」
厳格そうな凜之介の声。
麗歌はドアノブをゆっくりと下に下げてドアを開いた。
「失礼します」
バタンとドアを閉め、社長室に入る。
社長室の左右は一面本棚で覆われている。お客用のアンティークなソファやテーブルがピリピリした社長室の雰囲気と合っている。バックの窓は黒いカーテンで外の光景が遮られている。
数メートル先にいる凜之介は机に座りながら資料を睨み続けていた。
「ただいま戻りました」
「麗歌か。少し帰りが遅かったようだが?」
如月喫茶に言っていたことは黙っておく。安易に余計なことを言って墓穴を掘りたくない。
「少し、学校に残って先生と一緒に授業の復習をしておりました」
凜之介は今日の学校がテストであることを知らない。
「教師の指導など当てにならん。専属の教師に復習してもらえ」
「はい。すみません」
「何度も言っておろう。お前は次期当主なのだ。ボロい布教師より、こちらが用意した新品の教師を使え。お前と一般人の身分を考えろ。付き合う相手を選べ」
「はい」
「お前には我が財閥を引き継いで、元気な子を産み、後世に残すのがお前の仕事だ。それ以外の考えや娯楽は捨てろ。今は財閥の未来のことだけを考えていろ」
「はい。分かりました」
「お前の人生は私が決める。お前自身が決めていいものではない」
「——っ」
「分かったのなら部屋に戻れ。あと三十分後に夕飯にする」
「はい」
麗歌は踵を返して「失礼しました」と言い、社長室を後にした。
自分の部屋に戻った麗歌はベッドに寝転び、溜め息をついた。使用人に預けた鞄は麗歌の机の上に置かれている。机の上は経済学の参考書や国語、数学の参考書がぎっしりと詰まっている。机の隣にある本棚も哲学の本が並んでおり、とても読む気になれない。
勉強机とベッド、そして休憩用の椅子と机のみという殺風景な部屋。テレビもなければぬいぐるみもない。娯楽から完全に隔絶された異次元空間。それでも壁紙は淡い桃色で覆われており、一つの娯楽と言えなくはなかった。
家の中で心が落ち着く場所はない。この自分の部屋も数時間後には教授や教師が来て勉強を教えに来る。夕飯後に来る勉強漬けの缶詰が、この部屋の印象を悪くしてしまっているのだ。
たまに考えてしまうことがある。どうして私は社長令嬢という立場で生まれてしまったのか。どうして私は他の人のように自由に生きられないのか。私の本当にやりたいことは何なのかと。
私はまな板の鯉なのだ。人生という命を凜之介のまな板であしらわれている。全ては凜之介に言われるがまま動くただの傀儡。定められた道のみを歩き続ける愚かで悲しい人形、それが私なのだ。
逃れられるものなら逃れたい。この凜之介が定める運命から。
まな板で抵抗も無しに魚は捌かれるか?
違う。まな板に乗せられた魚でもビチビチと跳ねて抵抗する。
私はまだ凜之介に抵抗出来ていないのだ。
でも、どうやって抵抗すればいい。
どうやって……。
どうやって……。
どうやって……。
「お、お嬢様?」
ベッドに寝転んで考えているとメイドが心配そうに自分を見ていた。
「さっきから少し魘されていたような感じがしましたが、大丈夫ですか?」
どうやら考え事はいつの間にか悪夢に変わっていたようだった。
麗歌はベッドから起き上がって腰掛ける。
「ええ、大丈夫ですわ」
「そうですか。よかった……」
メイドは安堵したようで胸をなで下ろした。
「そうですわ。少しダージリンを貰えないかしら?」
「ダージリンですか……。でも、もうすぐご夕飯のお時間でございますよ?」
「少し喉を潤す程度で構いませんわ」
「か、かしこまりました」
メイドは軽く頭を下げるとそそくさと麗歌の部屋を後にしていった。
考え事をして魘されている時に、水分が奪われてしまったようで喉が渇いたのだ。
それに少し落ち着きたい気分でもある。今日は感情が不安定なようだから。
数分後、白いトレーにティーポットとティーカップを乗せてメイドが戻ってきた。慣れた手つきでティーポットから紅茶を注ぐ。ティーカップからゆらゆらと白い湯気が少し立ち上っていた。
「お嬢様、ダージリンでございます」
ティーカップを差し出され、麗歌はティーカップの取っ手を持って受け取る。
軽くティーカップを回し、味が均一になるようにする。立ち上る湯気に鼻を添えて匂いを嗅いだ。
如月喫茶で嗅いだ匂いとほぼ同じ。だが、少しだけこっちの紅茶の方が濃いような感じがした。
火傷に気を付けながらティーカップを傾けて紅茶を一口入れる。芳醇な香りが口の中に広がって鼻孔を擽った。気分が落ち着く甘さである。
心が紅茶の甘さを味わったのか、無意識の内に大きく息を吐いていた。
「はぁ……」
「お、お口に合いませんでしたか?」
メイドはそれを別の方向の意味で捉えてしまったらしく、少し慌てていた。
「大丈夫ですわ。とっても美味しいですわよ」
「そ、そうですか……」
本日二度目のなで下ろし。やや心配性の癖があるメイドなのだが、麗歌が小さい頃からずっと見守ってきた大切な財閥の一員なのだ。
もう一度紅茶を飲む。さっきと同じ味だが、どこか引っかかるような味を覚えた。
如月喫茶で飲んだダージリンと、今メイドが淹れてくれたダージリン。どちらも原産地は違うとしても茶葉の本質は一緒。だが、比べてみると如月喫茶で飲んだダージリンの方が今飲んでいるダージリンより美味しく感じた。
メイドの淹れ方が悪いのではない。
心が落ち着く場所、おもてなしをする店員の愛情が籠もっているからこそ如月喫茶で飲んだダージリンの方が美味しく感じたのかもしれない。
今の麗歌は心が安らがない家にいる。それがこの紅茶の持つ味を悪くしてしまっているのだろうか。
含んだ紅茶を流し込み、麗歌はティーカップを座っている自分の膝に乗せた。落とさないように手を添えて。
「すみません、少しいいでしょうか」
「は、はい。何でしょうか?」
麗歌の突然の申請にメイドは少し戸惑ったが、すぐに冷静さを取り戻した。
「もし、でございますわよ。あなたがもし私の立場でしたらどういった気持ちになっていますか?」
「私が……お嬢様の立場に?」
「そうですわ。もしもの話なので根拠も何もありません。ですが、少し気になったもので」
「は、はぁ……」
メイドは少し状況が飲み込めていないような気がした。
だが無理もないだろう。突発的な質問は回答者の思考を大いに狂わせるものだ。
「難しいのであれば答えなくても構いませんわ」
「い、いえ。しっかりと答えさせていただきます」
メイドは顎に手を当てて「うーん……」と唸っていた。十数秒後、答えが浮かんだようである。
「多分喜んで過ごしているのではないかと思います。何不自由ない境遇に、周りからは羨ましがられる視線。きっと順風満帆な生活を送っていたと思います」
「それは……本音ですか?」
「えっ?」
「その答えは本当にそう思ったことですか?」
「は、はい。私なりにお嬢様のことを考えて——」
「嘘でございますわね」
「——っ!」
麗歌が発したメイドの図星を突く一言。ただ、それだけでメイドは麗歌の意図を察することができた。
「目の前に私がいるからといって、本当はそうは思ってない嘘を言ったのでしょう。私の心を傷つけないために」
「…………」
「ですが、それは余計です。あなたが本当に思ったことを吐露して下さい」
「お、お嬢様。本当にいいのですか?」
「構いませんわ」
「で、では……」
メイドは一回深呼吸をしてから答えた。
「きっと毎日がつまらないと思います。決められたことだけやらされて、自分のやりたいことはできない。まるで自分の人生が決まっているかのようです。私だったらそんな生活に耐えられません。生きる価値を見失って家出するか……最悪自殺してると思います」
麗歌はメイドの言葉をしかと心に受け止めた。
「そう……ですか。ありがとうございますわ」
「い、いえ。とんでもないです」
メイドは否定するように両手を横に振っていた。
麗歌は膝に置いていたティーカップを持ち、残っていた紅茶を飲み干した。
「ごちそうさまでした」
ティーカップをメイドに渡す。メイドはティーポットと麗歌が飲み干したティーカップを白いトレーに乗せていた。
「それでは、ご夕飯のお時間になりましたらお呼び致します」
トレーを持ち上げ、軽く頭を下げてメイドは部屋から出て行った。
麗歌は再びベッドに寝転んでさっきメイドが言っていたことを思い返していた。
毎日がつまらない。
自分の人生が決まっている。
耐えられない。
どれも麗歌の境遇に当てはまるようなことばかりだ。
それにこれを答えてくれたメイドの表情もしっかりと見ていた。
嫌気が差したような表情や苦痛を伴った表情。自分が体験していないのに、まるでその気持ちが分かるような感じがしていた。
他のメイドも同じようなことを言うのだろうか。はたまた麗歌を小さい頃から見守っていたあのメイドだから言えたことなのだろうか。
考えていても明確には分からない。
なら、このことをしっかりと如月喫茶のカウンセラーの人に話せば解決してくれるのではないだろうか。
麗歌は必ずこの話をカウンセラーの人に話そうと決意した。
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