第1巻-第12幕- ご令嬢様の来訪

 時は数十分前に遡って下校中。一牙たちが信号を待っていた時のこと。

 一牙たちの後ろ、電柱の影に隠れるように櫻木麗歌は身を潜めていた。学校帰りの制服姿のため、少し周りから変な目で見られているが特に気にしていない。

 何故こんなことをしているのか、いまいち自分でも理解できていない。

 本来なら真っ直ぐ家に帰って、定められたスケジュールをこなす。ボディーガードは麗歌の強い要望で付けていない。今はたった一人なのだ。

 家に帰らねばならないのだが、気になるのだ。昨日の始業式で染崎校長が言っていた如月喫茶という喫茶店にいるカウンセラーのことが。

 如月喫茶のことは自己紹介で如月一牙が話していた。自分はオーナーの息子であると。だったら如月一牙についていけばおのずとも如月喫茶に辿り着ける訳である。

 実際、昨日は携帯で如月喫茶の場所を調べて下見をしていた。家に帰ってから着替え、使用人に見つからないように家を出た。人が少ない住宅街ということは知っていたので特に怪しまれない雰囲気を出していたが、あの六輪曇妬という男と一緒のタイミングで鉢合わせになるとは思わなかった。そのためすぐに逃げ出したのだ。

 そのカウンセラーは染崎校長の話では愚痴を垂れ流しても、それをしっかりと受け止めて人生を変えるアドバイスをしている。

 校長という職業は学校全体を支える重要な仕事。言うなれば財閥の社長と仕事の相違はあれど似ているのだ。学校という大きな集団をまとめるということは、非常に苦労と苦難の連続に違いない。

 凜之介も財閥を動かすために苦労と苦難の連続に立ち向かっていたことを麗歌は知っている。そこには麗歌や財閥の仲間がいたからこそ財閥を大きく出来たのかもしれない。

 今の麗歌はどうだ。

 櫻木財閥の令嬢だからと言われ周りから敬遠され、今後のキャリアと財閥を引き継ぐためにいい成績を残して、学校にも関わる学級委員を選択した。

 そんな自分の周りに誰がいるか。誰がいたか。

 

 当たり前だ。孤高の存在は常に孤独なのだから。

 では、自分は望んで今の存在になったのか。

 

 だから麗歌は喫茶店のカウンセラーと話がしたい。

 どうすれば私は変われるのかと。

 どうすればこの呪縛から逃れられるのかと。


 こうして如月喫茶の前まで来た麗歌。猛ダッシュで森宮柊茄がどこかへ去って行き、六輪曇妬が店に入っていく。如月一牙は店の入り口ではなく裏口から入っていったようだ。

 心臓がドクドク言いながらも麗歌はしゃがんで店の中を見る。窓にある白い線はちょうど麗歌の視線の位置と同じ場所にあるため、しゃがまないと店内が見えないのだ。

 落ち着いた雰囲気の店という第一印象。それ以外は普通のように見える。これならまだ櫻木財閥が経営しているチェーン店の喫茶店の方がまだいい。

 だが、例のカウンセラーはこの店にいるのだ。つまりこの店の従業員ということになる。

 しかしホールには誰もいない。お客はおろか従業員すらいない。厨房の人なのか、今日は休みなのかという予想が頭の中を飛び交った。

「どういうことですの……」

 中に入った六輪曇妬は従業員がいないことを気にせずに、勝手に右の奥の席に座った。そして何食わない感じで携帯を触り出す。

 普通の喫茶店ではお客がいなくても従業員は必ずいる。なのにこの店はいないではないか。経営としてどうかしていると思う。

 二分くらい経過すると如月一牙がエプロン姿で出てきた。きっと親の手伝いをしているのだろうと考える。如月一牙は六輪曇妬と何か話すと一瞬だけホールから姿を消し、すぐにホールに戻ってきた。そしてカウンターの奥で非常に手慣れた作業を行っている。

 トットットッ……。

 駆け足の音。隠れている電柱から見ると誰かが走って来ていた。

「あれは……森宮さん?」

 森宮柊茄はまるで友人感覚のように店の入り口を開けて「やほー。来たわよ」と言って、六輪曇妬が座っている席に座る。森宮柊茄が席に座ると同時にパフェらしきものが出された。まだ注文も取っていないのに商品が出されるのはおかしいと懸念するが、一緒に下校していたことを考えるとその時に注文していたのではと推測する。

 やがて三人が仲良く話し始めた。

 こうして観察していてもカウンセラーらしき従業員の姿は見当たらない。ホールの仕事は如月一牙が全て担当していたし、厨房は見えないので分からない。そもそもカウンセラーの人は厨房にいないはずと前提を切り捨てる。

 これは直接如月一牙に聞いて確かめるしかない。

 麗歌はクラスメイトの店に入る覚悟をして、一歩、また一歩と歩き始めて店の扉の前まで行く。

 ごくっと唾を飲み込んで扉を引いた。

 カランカラン。

 楽しげな鐘の音が来店したことを告げ、森宮柊茄と六輪曇妬と仲良く話していた如月一牙が「いらっしゃいませ」とこちらを振り向いた。


 ♢   ♢   ♢


 一牙の表情は固まっていた。この店とは程遠い存在である財閥の令嬢の櫻木麗歌が来ていること自体に。何故来たのかという疑問よりも、何故ここにいるのかという疑問が脳内を駆け巡る。

 しかし今の彼女はお客。クラスメイトではなくお客なのだ。

 一牙は異次元に飛んでいた自分の意識を呼び戻して接客する。

「お、お好きな席にお座り下さい……」

 動揺しているのがはっきり分かる。いつもの声のトーンじゃないからだ。

「そう」

 櫻木は店内を見渡すと、柊茄と曇妬が座っている隣の「2」の席に腰を下ろした。高級そうな鞄を椅子の上に置いて、メニューを取る。

(ちょーおっ! 俺の真後ろなんですけど!)

 視線で訴えてくる曇妬。

(暫くの間辛抱してろ)

 一牙も視線で曇妬に静かにするよう伝える。

(無理無理、ぜーったい無理!)

(——いいから静かにしてろ!)

(……はい、すんません)

 曇妬の悲痛の訴えは一牙には届かず、ギンとした一牙の鋭い眼光を受けて大人しくなった。

「ご、ご注文はどうされますか……?」

 完全な作り笑いで櫻木に接客する。こんなにも接客が辛いと思ったことは生まれて初めてだ。

 櫻木はメニューを全部一通り見終わったらしく、注文したいメニューのページを開いた。

「では、ダージリンのストレートをお願いしますわ」

「か、かしこまりました」

 震える指先でメニューを記録すると、何かに解放されたような感覚がする。背中に乗っていた重りが落ち、脚に繋がれていた鎖が外れた感じだ。多少の緊張は残しつつも、一牙はカウンターに戻って作業を始める。

 紅茶用のダージリンの葉をティーバッグに入れ、給湯器からお湯をカップに注ぐ。湯は徐々に薄い橙色へと変化していき、紅茶独特の香りが広がった。受け皿にカップを乗せ、櫻木が座っている場所へ運んでいく。

「おいおい、一牙らしくねぇな」

「そうね。お盆が震えてるわよ」

 二人がこそこそ話しているのが耳に入ってきた。

 実際、ダージリンのストレートが乗ったお盆は、一牙の緊張によって小刻みにカタカタ揺れている。煽ってくる曇妬に対して、一牙は櫻木に見られないように中指を立てた。

「ダージリンのストレートになります。ご、ごゆっくりどうぞ……」

 カウンターに戻った一牙はお盆を置くと、しゃがみ込んで溜め息を付いた。こんなに疲れる接客はしたことがない。冷や汗が止まらなかったのか、シャツがぐっしょりになっているのが分かる。

 櫻木は飲むことよりもカップの中に入っているティーバッグを凝視し、疑問詞を浮かべていた。紅茶から引き出すと、中に茶葉が入っていることが窺える。

(これは……どういうものなんですの?)

 家で飲む紅茶は使用人がティーポットから直接ティーカップに注ぐ。そのため櫻木はティーバッグが何なのか分かっていなかった。

 でもこれはきっと紅茶を入れるために必要なものであり、飲む時には必要無いものだろうと思い、カップからティーバッグを取り出して受け皿に乗せる。右手で取っ手を掴み、左手でカップを落ちないように添えて香りを楽しむ。

(悪くないですわね)

 そのままゆっくりとカップを傾けて、紅茶を口の中に入れた。

 芳醇な紅茶の香りが鼻を突き抜けていく。

(……美味しいですわ)

 櫻木は心中で美味しさを味わっていた。

 もう一度紅茶を口の中に含む。

 先ほどの同じ味。それでも確かに感じた。

(家の紅茶より美味しいですわね)

 普段飲む紅茶より数倍美味しかったのだ。使用人が入れてくれる紅茶と、店で飲む紅茶。ここまで味に違いがあるとは思わなかった。

 あの茶葉が入った袋が味の決め手なのだろうか。少し詳しく知りたいと考えた櫻木であった。

 しかし、本来の目的は紅茶ではない。カウンセラーなのだ。

 一度カップをテーブルの上に置き、店内を見渡す。

 外から見えたように中は落ち着いた雰囲気があった。心が穏やかになるような音楽が聞こえてきており、紅茶を飲んでいる時にもその旋律が耳に入ってくる。店の中心部分にある観葉植物も目の保養になっている。

 見た感じ従業員の姿はない。やはり今日は休みだったのだろう。これは日を改めて出直すしかなさそうだ。

 だが、カウンセラーの従業員はいつ来るのだろう。このような放課後や土日ならまだしも、学校に行っている昼頃であれば諦めるしかない。

 ダメ元で一牙に聞いてみる。

「あの、すみません」

「は、はい」

 カウンターでティーカップを拭いていた一牙は、急な櫻木の呼び出しにドキッとした。手が滑って落としそうになりながらも、何とかキャッチして割らずに済んだ。

 スイングドアと通って櫻木の元へ向かう。

「ご用件は何でしょうか?」

「少しお尋ねしたいのですが」

「は、はぁ……」

 注文ではなく質問だったことに一牙はちょっとした脱力感を覚え、緊張感から少し解かれる。

「この店に悩みを聞いてくれるカウンセラーがいると聞いたのですが、今日はもういないのでしょうか?」

「えっ? あー……えっと……」

 一瞬一牙は何のことかと思ったが、数秒して自分のことだと気が付いた。でも一牙がカウンセラーみたいなことをやっているのは常連と近所の人しか知らないはず。それでも櫻木は知っている。つまり誰かがこのことを教えたのだ。

 では一体誰が?

 一人いるではないか。全校生徒の御前で話した染崎校長が。

 櫻木がまさか染崎の話を聞いて来店したとは思っていなかった。流石に自分だとは言い出しづらく、何か理に適ったような言い訳がないか思考を巡らす。

(休み……はありきたりすぎるし、事故……はこの後の展開が難しそうだな……)

 思うように言葉が噛み合わず、少し助けを求める感じでカウンセラーこと一牙のことを知っている柊茄と曇妬に助けを求めた。

 二人とも一牙の意図を察したのか、少し考えるふりをしてから瞬きも含めて伝えてきた。

(今日は休みですって言えば?)

(今日はもう帰ったとかでいいんじゃねぇの?)

 二人とも言葉は違うとは言え、内容は「カウンセラーの人は今はいない」という理由を出してきた。一牙も最初は「今日は休み」で終わらせようと思ったが、短絡的すぎるのではと深く考えて無しにしてしまった。

 しかしもうこれ以上まとまった考えが浮かんでこないのも事実。ここは休んだことにしておこう。

「申し訳ございません。今日、そのカウンセラーの方はお休みでして」

「そう、ですの……」

 少しがっかりした様子で答えた櫻木。カウンセラー、もとい一牙に何を相談したかったのだろうか。

「分かりましたわ。また日を改めてお伺いしますわ」

「……で、では失礼します」

 一牙は軽く頭を下げてカウンターに戻っていった。

 一牙がカウンターに戻っていくと、櫻木は紅茶の液面に浮かぶ自分の姿を見つめていた。今にも泣きそうな顔をしているのがよく分かる。

 休みなら仕方が無い。カウンセラーの人だって都合というものがあるのだ。さっきだって言ったではないか。日を改めて伺うと。あの呪縛からまだ逃れられないが、相談できる日はいつか来る。焦らず待つのだ。苦しい今の時間を堪えて。

 でもカウンセラーの人がいなくても、ここに立ち寄るのは悪くない。紅茶も店の雰囲気もチェーン店にはない持ち味だ。少し辛くなったらまた立ち寄ればいい。

 紅茶をまた啜る。何度も啜る。

 いつの間にか液面に自分の顔はもう映らなくなった。

 如月喫茶に立ち寄ったのは時間にして数分。だが、そんな短い数分間でも櫻木は何かを得られたような気がした。

 帰ろうとしよう。自分を束縛するあの人の元へ。

「お会計、よろしいですか?」

「はい、ただいま」

 一牙はコーヒーカップの拭き作業を中断し、レジに向かう。櫻木のティーカップの中は空になっていたので、そろそろ注文が来る頃だろうと待ち構えていたため驚かずに済んだ。

 櫻木が飲んだのはダージリンのストレート一杯だけ。

「ダージリンのストレート一点で三百五十円です」

 あの高級そうな鞄から出てきたのは、高級そうな財布だった。ドラマで見たことあるが、あれは鰐皮の財布だろうか。流石は財閥のお嬢様と一牙は感心した。

 鰐皮の財布から出されたのは五百円玉一枚。しかも傷が見当たらないピッカピカの一枚だった。年号は今年のもの。

「五百円お預かりいたします」

 ピッピッピッガッシャーン。

「お釣りの百五十円です。ありがとうございました。またお越し下さいませ」

 カランカラン。

 鐘の音が鳴って櫻木が帰っていく。五百円玉をレジの五百円ボックスに入れて閉めるとどっとした倦怠感が一牙を襲った。たった数分間の出来事なのに、休日の一日分の仕事量が乗っかった気分である。

「ぐあーっ……」

 あに濁点が付いたような声を上げる。レジにもたれていたせいで変なボタンを押してしまい、レジがチーンと開いた。慌ててレジを閉める。

「お疲れさん」

 労うように曇妬が白い歯を見せながら言ってきた。

「まさか櫻木さんが来るとは思わなかったわよ」

「同感だ」

 こういう場所とはあまり関係の無さそうな人だと思っていたが、少しだけ櫻木の印象が変わった。

「でもよー、何か探してたよな?」

「カウンセラーって一牙のことよね?」

「大元は染崎校長だと思うがな」

 櫻木の行動を見ている限り、染崎が話していたカウンセラーこと一牙を探しに来たのだろう。じゃなければ「悩みを聞いてくれるカウンセラーがいるそうですが」とは言わない。

「まぁでも、急にカウンセラーがクラスメイトだって言われても信じないわよね。休みって言って返したのはある意味正解だと思うわ」

「俺も」

 正直、一牙もこの手は正解かもしれないと思っていた。一牙はまだそんなに人生経験が長いわけでは無い。単純に聞き上手なだけなのだ。人の心理状態を図るカウンセラーというのは烏滸がましい。

「でもこれではっきりしたことが一つあるな」

「何が?」

「櫻木は何か悩みを持っているってこと。初めて教室で櫻木を見た時に感じたもやもやした気持ちがようやく分かった」

「そうね。で、その悩みをここのカウンセラーさんはどうするのかしら?」

 嫌味な言い方で柊茄が聞いてくる。カウンセラーになったつもりは毛頭無いのだが。

「俺は話を聞くだけさ。解決は俺たちだけじゃ難しいかもしれない」

「うん。お嬢様の悩みだもん。きっと大きな悩みだと私は思うわ」

「そうか? 俺は新しい物のアイデアが浮かばねぇ! って思うんだが」

「それだったら一個人の一牙より、会社の開発部の人と相談するでしょ」

「それもそっか」

 曇妬はあっはっはと口を大きく笑いながらレモンフロートを啜る。

「それくらい陽気な悩みならいいんだけど」

 柊茄は一人ぼそっと呟きながら、小豆と抹茶アイスを一緒のスプーンに乗せて頬張った。

「そういやさ、カウンセラーは一牙じゃないって言って帰ったんなら、お嬢様の悩みって聞けなく無いか?」

「あー……確かに」

 曇妬から指摘されたことは盲点だった。あの言い方だとカウンセラーはこの店の従業員と言うことになってしまう。実際は従業員にさせてしまったのだが。

 これをどうにか言いくるめないと、従業員とした誤解は解けそうにない。

「その辺なら私に任せなさい!」

 アイスをスプーンで口に運び、胸をドンと叩く柊茄。

「何か策でもあんのか?」

「あるにはあるけど内緒」

 唇に立てた人差し指を当てて、静かにするようなジェスチャーをする。

「んだよー、ちょっとくらい教えてくれよな」

「だーめ。女の子同士の話し合いに男が入るとかセクハラよ?」

「そういうもんだっけ?」

「そういうもの。だから私に任せて」

 何だか不安な気持ちが渦巻く一牙だが、特にこれといった解決策が見当たらないのもまた事実。ここは柊茄の案に乗っかるしかなさそうだ。

「じゃあ……頼む」

「まっかせなさーい!」

 柊茄は親指を上げて笑顔で応答する。

「一応俺も柊茄とは別で何かしようと考えておくわ」

「変なことだけは考えるなよ」

「わーってるよ。少しは信用してくれよ」

「はいはい」

 柊茄と曇妬の二人が協力してくれるのは有難いことなのだが、一牙としては無理強いをしてまで櫻木の悩みを聞きたくないのが本音だ。誰にだって話したくない悩みというものはあるものである。

 カウンセラーに相談するということは、誰にも聞かれたくない悩みだということになる。

 ましてや知り合って日も浅いのに、深々とした悩みを吐露されても一牙はどう反応すればいいのか見当が付かない。

 一牙は自分の仕事は「二人が無理強いをする前に止める」ことだと考え、コーヒーカップを拭き始めた。

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