第1巻-第8幕- 桜の花びらパンケーキ

「ところでまだか?」

「何が?」

「パンケーキだよパンケーキ! 全力疾走でめっちゃ腹減ってんだよ……」

「昼食ってないのかお前」

「そんな考え無かったわ」

 家まで全力疾走で自転車を漕いで、そこから提出書類を持って学校行くと考えると、昼飯のことは頭から抜けそうである。バカが定評な曇妬のことなので、元から昼飯という概念は消えていただろう。

 何なら如月喫茶で済ませようとしていたのかもしれない。

「もうすぐできると思う——」

「一牙。できたぞ!」

 まさに絶好のタイミング。隆善が狙っていたかと疑うほどだ。

「待ってました!」

 腹減りの絶望から反転、遂に来たという希望の表情が曇妬を明るく包み込む。

 一牙は厨房とカウンターの間に設けられている受け取り口から、二つの桜の花びらパンケーキを受け取って、二人の元へ運ぶ。

「はい、お待ち遠様。如月喫茶春限定メニュー、桜の花びらパンケーキだ」

 白い皿に乗っているのは桜の花びらを模したパンケーキだ。表面はピンク色の苺生クリームが贅沢に塗られており、桜の花びらを思い浮かばせる。壁面まで苺生クリームのコーティングがされており、パンケーキではなく一種のケーキだ。

 隆善が形が不格好と言っていたが、どこもおかしいところはなく、不格好ではない。花びらの欠けている先端も、ふわっとした曲線も完璧と言っていいほどだ。

 一牙も受け取り口からこの完璧な桜の花びらを見た途端、鳥肌が立った。そして隆善のドヤ顔を見てしまうと、この技術は舞柚にも引けを取らないものだと確信した。

「それじゃあ早速——」

 柊茄はパンケーキに付いていたナイフで花びらを五等分に切り分ける。

 切り分けた断面から、パンケーキは三段のミルフィーユ状になっていた。一段目と二段目、二段目と三段目の間には苺生クリームが隙間無く塗られていて、そこに縦半分に切った苺が並んでいた。断面から苺生クリームに塗られていても分かる苺のみずみずしさ。一牙もその綺麗な断面にしばしの間目を奪われた。

 本当に五百三十円の商品なのだろうか。

「すっご……」

 柊茄から漏れた小さな感嘆の声。一牙は厨房の入り口で仁王立ちしている隆善を「マジか」というような気持ちで見つめた。隆善からは「食べてみろ」と言わんばかりのドヤ顔が送られてきた。

 柊茄は切り分けた花びらをまたさらに食べやすい大きさに切り分けると、フォークをパンケーキに突き刺して口の中に入れた。一牙と曇妬はその様子を固唾を呑んで見ていた。

 もぐ……もぐ……もぐ……。

「す……」

「す?」

「すっごく美味しい! 去年食べたのよりさらに美味しい!」

 頬が落ちないように支えながら柊茄が感想を述べた。

 これほどのものがあったのだろうかと思わせるような表情に、一牙は少し大袈裟じゃないかと思う。

「マジで? じゃあ俺も——」

 曇妬も花びらをナイフで切って、大きくパンケーキを頬張る。

「んっ! 何だコレ。めっちゃくちゃ美味ぇぞ!」

 立ち上がって驚きを露わにする曇妬。

 一牙は二人が喜ぶ顔を見て嬉しくなった。反面、隆善が作った桜の花びらパンケーキがどれほどの美味しさなのか少し気になったりもした。

 柊茄はもう一口パンケーキを食べると、飲み込んでからミルクティーを啜る。

「んーっ。苺の甘みとミルクティーの甘みが重なるわ。いくらでも食べれそう」

「虫歯になるなよ」

「一牙じゃないから大丈夫ですよーだ」

 いーっと張り合う柊茄に一牙は苦笑する。

 というか虫歯になって店に行けないと大泣きしていたのは柊茄の方じゃなかったかと、過去の記憶を遡る。

 まぁ過去のことを思い出しても変にいがみ合うだけだ。

 一牙は美味しくパンケーキを食べている二人から離れてカウンターに戻る。

 厨房の隆善は溜まっていた食器類を手作業で洗っていた。

「おっ、どうだった?」

「大絶賛してた」

「そうだろうな。俺も舞柚に教わって出来るようになったからな」

 ガシャガシャガシャ。

「聞いてないんだけど」

「そりゃあ知らねぇだろ。お前が生まれる前のことなんだからさ」

「は?」

 生まれる前とは言え、桜の花びらパンケーキは毎年の春に出している。一牙は中学一年生の頃から店を手伝うようになっていたが、隆善がパンケーキを作っている場面に遭遇したことが無い。

「ま、俺もパンケーキ焼くのは数年ぶりくらいになるが、上手くできて良かったさ」

「通りで知らないわけだ」

 ガシャガシャガシャ。

「あそうだ。ほれ、そこ」

 泡まみれの手で指していたのは、コールドテーブル冷蔵庫の上に置いてあった桜の花びらパンケーキだった。

 きっと曇妬と柊茄の他にも頼んだお客がいるのだろう。

 お盆に載せて持っていこうとするが、何番テーブルの商品なのか分からない。

 普通なら伝票が近くにあるはずなのだが、今この厨房に伝票は届いていない。

「何番の?」

「いや、誰からも頼まれてないぞ」

「じゃあ何だよ」

「お前の分だ」

「え……」

 唖然とした。

「おいおい。そんな驚くことかよ」

「いや、俺頼んでないぞ」

「俺からのサービスさ」

「…………」

 キザったらしくウィンクまでして格好つけていた隆善だったが、一牙には全然ときめなかった。

「さっき柊茄ちゃんが食べてる時に食いたいなって思ってただろ」

「いや思ってないけど」

 キュッ。

 隆善が蛇口を閉めた。

「いいから食ってこい。店のことは後から手伝ってくれればいいさ」

 普段なら手伝いを優先するつもりなのだが、これは隆善なりに一牙を気遣ってくれているのだろう。ここはありがたく甘えようか。

「ああ、分かった」

 一牙は飲み物が置いてある冷蔵庫から舞柚お手製の苺オレをコップに注ぐ。それをパンケーキが載っているお盆に一緒に置いて、柊茄たちが座っている席へと足を運ぶ。

「あれ? どしたの一牙」

 さっきまで働いていた人が、急に休憩し出すと疑問を抱くのは当然のことである。

 柊茄は既にパンケーキを食べ終えており、ミルクティーを飲んでくつろいでいた。

「親父に貰ったから」

「へぇーアンタの分まで作ってたんだ」

「……やらんぞ」

「べ、別に欲しいって言ってないわよ!」

 一牙は見逃さなかった。「作ってたんだ」と言いながら一牙のパンケーキをガン見していた柊茄の視線を。

「悪ぃ曇妬。隣座るぞ……ってどうしたんだお前」

 隣の曇妬は何故か大泣きしながらパンケーキを食べていた。

 そんなに口に合わなかったかと思ったが、さっき「美味ぇ!」と言っていたので泣いているのは別の理由か何かだろう。

「だ、だってさ……こんな……美味ぇもん……初めて食ったんだもん……」

「お、おう……そりゃあ……ありがと」

 どう反応すれば良かったのか分からなくなった。

 ただ今の言葉は弓夏の前で言わなくてよかっただろう。下手したら喧嘩になっていたに違いない。

 涙ぐむ曇妬を差し置いて、一牙も花びらにナイフを入れていく。

 柔らかいパンケーキにナイフの通りは軽く、簡単に切ることができた。苺のクリームとふんだんに使用した苺の断面図が美しい。

 食べやすいように何等分かにしておく。

 柊茄が絶賛し、曇妬が大泣きするほど美味しい桜の花びらパンケーキ。実食するのはメニューとして出す前の試食以来である。

 どんな味だったのか思い出して口に運んでいく。

 もぐもぐ……。

「——ッ!」

 ピシャッ!

 一牙の脳内に雷が落ちた。

 柊茄が絶賛して曇妬が大泣きする理由が分かった。

 パンケーキはもっちりふわふわしており、非常に柔らかい。パンケーキ自体はあまり甘くないのだが、それを苺のクリームと瑞々しい苺がフォローしている。特にこの苺。水無月市の農家から産地直送の採れたて苺を使用しており、凄く甘い。練乳や砂糖と一緒に食べても良いが、このパンケーキに挟んで食べることでより甘く感じる。

 試食の時に食べたこのパンケーキは単純に「美味しい」だけだったが、久しぶりに食べるとこうも美味しく感じるのかと一牙は絶賛した。

 しかもこのパンケーキは隆善が作った物である。久しぶりに作ったと言っていたが、久しぶりでこの出来だということ自体が恐ろしい。家族でありながら知らないことがまだあったのだと痛感した。

 一牙は感動しながら一口、また一口とパンケーキを食べていく。気付いた頃には皿の上には何も無かった。

 本当に五百三十円の商品なのだろうか。途端に経営が心配になってきた。

「でもさ、このパンケーキがこの季節限定商品ってのが勿体ないと思うのよね。ビジュアル的にも、味的にも問題無いのに」

「だなぁー……」

「いつまで泣いてんのよ」

 確かに柊茄の言う通り、期間限定商品というのが勿体ないと一牙も思った。ただ、期間限定だからこその美味しさもあるのだ。

「一牙はどう思うの?」

「俺は期間限定だからこそいいんじゃないかって思ってる」

「へぇー。どうして?」

「今が旬の苺を使うことで甘さがより引き立って美味しく感じるんだと思う。夏場とか管理が大変だし、苺の甘さや風味を消しそうだ」

「なるほどー。確かにそうね!」

 納得したように頷いている柊茄。曇妬の皿にはもうパンケーキは無いのだが、いつまで泣いているのだろうか。

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