第1巻-第7幕- 一番テーブル

 朝の閑散とした店内とは違って、今は少し賑やかな雰囲気が出ている。落ち着いた曲が店内に響き渡り、明るすぎず暗すぎない光が視界に入ってくる。一牙は店内を見渡すと、今来ているお客は三人。いずれも携帯を触っていたり、コーヒーを飲みながら新聞を読んでいたりと思い思いにくつろいでいる。

「あ、一牙さん、帰ってたんですね」

 ホールに出ると一牙より数歳年上の青年が挨拶をしてきた。この青年は水無月大学に通っている大学生で、アルバイト従業員でもある。

 一牙も簡単な挨拶を済ませると、いつも柊茄が陣取っているテーブルに準備をし始めた。

 柊茄が陣取っているテーブルは店の右上、カウンターに設けられているスイングドアの近くのテーブルだ。テーブルには番号がそれぞれ振ってあり、ここのテーブルは『1』となっている。

 このテーブルからは外の景色(とは言っても住宅街だが)を見ることができ、夕方には市のビルに夕日が沈む風景が見れる。

 一牙は熱湯で濡らした布巾でテーブルを拭く。そのついでにメニュー表や呼び鈴も一緒に清掃し、机に置いてあるものもピカピカにした。

「柊茄さんですか?」

 先ほどのアルバイト従業員が声をかけてきた。柊茄の常連度はアルバイト従業員にも知れ渡っている。そのためこの店の関係者は決まってこのテーブルに座ろうとしないし、従業員も滅多に『1』番テーブルにお客を座らせようとしない。

 この店のドンかよと一時期思っていたが、そんな考えは数年前にどこかへ消えた。

「ま、まぁ……」

「一牙さんも大変ですね。僕の彼女も少しお転婆で大変ですが……」

「お互い頑張ろうな」

「はい」

 カランカラン。

「「いらっしゃいませ」」

 反射的に言ってしまうこの言葉。アルバイト従業員にも染みついており、一牙と一緒にいらっしゃいませのハーモニーを奏でた。

 ドアを開けて入ってきたのは——

「やほー一牙。来たよー」

 噂にしていた柊茄だった。

 柊茄は引き寄せられるように『1』番のテーブルまで来て、そしていつもの席に腰掛けた。

 一牙は柊茄が座るとスイングドアを開けてカウンターに入り、いつも柊茄が頼んでいる紅茶の茶葉をティーバッグに入れる。茶葉はアールグレイだ。

 横に湧かしておいた給湯器からカップにお湯を注ぎ、ティーバッグを入れた。受け皿にカップと角砂糖、グラニュー糖のスティックを乗せ、ミルクティー用の牛乳も小さな器に用意しておく。

 あとはこの二つをお盆に載せて、零さないように柊茄のところまで持って行く。

「ほらよ。いつものアールグレイのミルクティー、牛乳多めな」

「ありがと」

 柊茄はお礼を言うと、ティーバッグをぐるぐるとかき混ぜ、茶葉の旨みを引き出していく。少しだけかき混ぜると、メニュー表の横に置いてある小さなティーバッグ専用のゴミ箱にティーバッグを入れ、器に入っていた牛乳と角砂糖、グラニュー糖を全て紅茶の中に流し込む。

 テーブルに常備してある竹製のかき混ぜ棒で溶けるまで回すと、カップを持ってすすっと飲んだ。

 どうやらいつもの味になっていたらしく、桜の花びらパンケーキはまだかなと無言で一牙に視線を送ってくる。一牙もその視線の意味を感じ取り、首を横に振った。

「まだだ。父さんが作ってるからもうちょっと待ってろ」

「え? 今日、舞柚さんじゃなく隆善さんが作ってるの!?」

「不格好って言ってたけど父さんも作れるってさ。俺はどんなのが来るのか知らないけど」

「ふーん。ま、でもちょっと楽しみかも」

 柊茄は紅茶のカップを片手に、窓の住宅街の景色を見つめた。見知った近所の人や、高級車が通っていき、景色は飽きさせないほど移り変わっていく。

 一牙とアルバイト従業員も特にすることが無くなり、カウンターに戻って隆善が作っている桜の花びらパンケーキを待つことにした。

 ややぎこちない沈黙が二人を包む。

 一牙とアルバイト従業員は特に親しいというわけでは無い。一緒にご飯も食べに行くし、社会話だってする。ただ、友達かと言われたらそうではないため、この沈黙は二人にとっては気まずい。

「すいません。注文いいですか」

 新聞を読んでいたスーツ姿の男性が一牙とアルバイト従業員に声をかけた。

「あ、はい。ただいま」

 声を聞いたアルバイト従業員はポケットからボールペンを取り出すと、すぐに男性の元へ向かった。

「コーヒーもう一杯」

「はい。先ほどと同じコーヒーでよろしかったですか?」

「ああ、それでいいよ」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 注文を取ったアルバイト従業員は、ブレンドされている豆を挽き始めた。挽いてから少しするとコーヒー豆の特有の香りが一牙の鼻孔を擽る。

 そうして挽いた豆をドリップし、コーヒーを作り出していく。下に溜まったコーヒーを予め一牙が用意しておいたカップに移し替え、お客の元へと持って行く。

「お待たせしました」

 ゆっくり静かに零さずにコーヒーをお客の前に置き、空になったカップを回収する。「ごゆっくりどうぞ」と一礼してカウンターに戻ってくる。

「上手くなったもんだな」

 一牙はアルバイト従業員のコーヒーの淹れ方が見ていて上手だなと思っていた。

「え、そうですか? ありがとうございます」

 謙遜すること無くアルバイト従業員は素直にお礼を言った。回収したカップを洗浄するため、アルバイト従業員は一旦厨房に入る。

 アルバイト従業員が厨房に入ったと同時にカランカランとまだ新たなお客が入店した。

「いらっしゃいま……ってお前か」

 元気よく言おうとした刹那、入店したお客を見て一牙は言うのを止めた。

「はぁ……お前かって、俺一応客だぞ!?」

 入ってきたのは曇妬だった。少し息を切らしているようだ。

 大声で一牙に文句を言っているせいか、周りのお客はみんな曇妬の方を見ている。

「はいはい、周りに失礼だからこっち来ような」

 釈然としない曇妬を柊茄が座っているテーブルに案内する。曇妬は柊茄の反対側に座った。

「で、どーすんだ?」

「んじゃあ、コーラ!」

「と花びらパンケーキな」

「そうそれ!」

 一牙は伝票にコーラと花びらパンケーキと書いて、カウンターに持って行く。柊茄はもう予め分かりきっていることなので伝票はほぼ無し。

 コップに氷を数個入れて、ジュースサーバーでコーラを出す。本来ならストローを付けるのだが、注文した人が曇妬なのでストローは付けなかった。

「ほい、コーラ」

「あんがと」

 ストローが無いことを気にしないで曇妬はコーラをぞぞっと飲む。炭酸が体に染み渡っていくのか「くぁーっ」とビールを飲んだような人の真似をした。

「にしてもお前店に来るの早かったな。永センのことだからてっきり説教くらってんじゃないかって思ってた」

「そりゃあお前と別れた後、全力で家まで自転車かっ飛ばしたもんな」

 通りで曇妬の額に汗が浮かんでおり、入ってきた時に息を切らしていたわけだ。

 今日の気温は二十度。朝晩と昼の寒暖差が激しい春に汗が浮かぶということは、余程急いで家まで自転車を漕いでいたのが目に浮かぶ。

「流石元自転車部ね」

「だな」

 曇妬は中学時に自転車部に所属しており、山道も余裕で駆け抜ける。親の仕事の都合で水無月市に引っ越してきたようだが、高校からは自転車を続けないと決めていたらしい。

 一番の理由は自転車部が無いことだが、もう一つは『一生に一度の高校生活を部活で潰すなんてとんでもない』だそうだ。

「だったら今度サイクリングに行かね? 今の季節、桜並木を見ながら自転車を漕ぐのって最高だと思うんだ」

「あら、曇妬にしてはロマンチックね」

「『俺にしては』は余計だっつーの」

 曇妬の趣味はサイクリング。誕生日に買って貰ったマウンテンバイクで水無月市内を走り回っており、店に来るのにもよく使う。店の前に止まっているマウンテンバイクを見て、よく近所のおばさんから「あの自転車一牙君の?」と質問されることがたまにある。

「あ、で、俺がここに来るの早い理由だけど、全力疾走の他にもう一つあるんだ」

 コップに口を付けながら人差し指を立てた。

「ほら、今の時間って入学式やってんじゃん? それに永センも出席してるっぽくて、職員室ガラ空きだったんだよ」

「不法侵入?」

 柊茄が首を傾げた。

「ちっげぇよ! ちゃんと無人の職員室でも失礼しますって言ったわ! 何か鍵かかってなかったし」

「ならいいけど」

「鍵かかってないなんて不用心だな」

「閉め忘れたんじゃないの?」

 柊茄は頬杖をついて曇妬の話を興味無さそうに聞いている。

「で、入学式終わるまで待てるわけねぇから、永センの机の上に提出書類全部置いてきた」

「お前明日呼び出されそうだな」

「同感」

「何でさ!?」

「ま、明日覚悟しとけ」

「何だかなぁ……」

 何か腑に落ちない曇妬は、コーラの液面に映っている自分の顔を見ながら飲んだ。

「あ、そうそう。それとさ」

「何かあんのか?」

「店の前に自転車を止めてた時に、店の入り口の前を綺麗な女の人がずっと見てたんだよ」

「はぁ?」

 と聞いて一牙は出入り口の方を向く。しかし誰もいなかった。

 出入り口は硝子で出来ているが、白く塗り潰されているため、外の様子は見えない。その周りも硝子で出来てはいるが、人の顔の高さ付近だけは入り口と同じで白く塗り潰されている。

 人が立っていたら足や下半身の服装くらいなら見えるが、上半身から顔にかけてのラインが見えないのだ。誰かがいたという事実は確認できたとしても、それが誰なのかまでは分からない。

「どんな人よ」

「それが分からねぇんだよなぁ。高級そうな鞄を持ってたワンピース姿の女の人ってくらいしか……」

「ワンピースの色は?」

「白だったはず」

「「…………」」

 意外と見てるじゃねぇかと一牙は心の中で突っ込んだ。

 少なくともこの近所の人ではないだろうと断言できる。

 理由として如月喫茶を中心とした近所の人で、高級そうな鞄と白いワンピースを着ている人の記憶が一牙にはない。単純な記憶間違いか、そもそも近所の人をあまり知らなかったかのどっちかだろうと考えた。

 柊茄なら何かを知ってそうだと思い、柊茄の方を見たが、彼女からの返信は「NO」だった。

「推測できるのは下見ね。ネットとかで評判の如月喫茶はどこか探しに来たんだと思うわ」

「下見なら店の中に入ってくんじゃね?」

 ごもっともである。

「……ば、場所だけ確認しに来たんだと思うわ」

「ふーん……。そういうもんか」

 もしそうなのであれば、いつでもその女の人が来店してもいいようにしておかなければいけない。これは全てのお客に当てはまることだ。

 折角場所まで確認しに来て、いつか来店してもらった時に、最悪の状態でおもてなしをするわけにはいかない。最高の状態を保って、最高のものを出して満足して貰う。それが店というものだ。

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