5

 流れた血が草を濡らし、地面に染み込む。服の袖を破いて傷口に巻き付けていたが、あくまで気休め程度だ。森の出口までが遥か遠く感じる。

 放った矢は外れて、獣の爪がカリムの左腕を抉った。それでもナイフを抜いて右目を貫いたことで獣は怯み、どこかへと逃げて行った。カリムは生き延びたのだ。

 右手には靴を抱えている――アンナの靴だ。死体の損壊が激しいため、それ以外に拾ってこられるものはなかった。

 左腕の傷は思いのほか深いらしく、酷く痛む。気力も体力も尽きかけていた。だがこんなところで休むわけにはいかない。逃げた獣が報復に戻ってくる恐れもある。一刻も早く森を出なければ――家に、帰らなければ。

 なかなか体が前に進んで行かず、水にでも浸かって歩いているかのようだ。

 それでも時間がいくらかかろうと終わりは見えてくる。カリムはようやく、森から抜け出せたのだった。


 母の死を伝えられてライルは茫然とし、アイシャは泣き崩れた。カリム自身も心がぼろぼろで、表面的な慰めの言葉をかける余裕もなかった。そんな言葉をかけたところで意味はなかっただろうが。

 弟に続いて母までいなくなる喪失感というのは、子どもたちにとって耐え難いもののはずだ。それこそカリムには計り知れないほどに。

 だが、それだけでは終わらなかった――カリムが体調を崩したのだ。

 高熱と吐き気や眩暈に襲われて立っていることすら困難で、働くことも出来なくなった。

 原因はおそらく、あの黒い獣に負わされた左腕の傷だ。獣が持つ病原体が傷口から侵入して、感染症を引き起こしたのだろう。

 当然、貧しい農民がまともな治療など受けられるはずもない。カリムは家で寝込んで過ごすようになった。

 今や家の働き手はライルとアイシャ、子ども二人しかいない。二人は両親の分まで必死に働いた。

 過労のために子どもたちの顔は次第に青白くなり、虚ろな眼の下には濃い隈が浮かび――それでも仕事と父の看病を両立してこなしていく。その姿はまるで生ける屍のようだった。目が回るような忙しさで食事も睡眠もまともにとれない日が続けば、そうなるのは当然だった。子どもらしい生き方のすべてを投げうち、時間の限りを仕事に捧げた。

カリムは、そんな二人の様子を為すすべもなく見ていた。病気さえ良くなればという思いも虚しく、体調は悪化する一方だった。寝床から動けない我が身を恨み、このような過酷な運命を与えた神を呪った。

 いや――もしかするとこれはケリルを――我が子を手にかけた己への神罰なのかも知れない、カリムはそうも考えるようになっていた。

 

 病に臥してから、はたしてどれくらいの月日が経っただろうか――カリムは真夜中、唐突に眠りから目覚めた。

 自然と目が覚めたのではない。外部からの影響によって眠りが妨げられたのだ。

 ひどく息苦しい。呼吸ができない。何が起きたのかと混乱するが、答えはすぐ目の前にあった。

 ライルがいた。息子が体の上に跨っている。まるでこちらを覗き込むように前かがみの姿勢で。

 異様なのは彼のその表情だった。双眸を飛び出さんばかりに見開き、頬を引き攣らせ、歯をぎりぎりと噛み締めている。邪悪な存在にとり憑かれたようで、明らかに普通ではない。

 そして両手に握った何かを思い切り引いている――そしてそれが息苦しさの正体だった。

 ライルが握っているのは、太い荒縄だった。それをカリムの首に巻き付け、力を込めて絞め上げているのだ。

 酸素が足りなくなった脳が頭痛を引き起こし、カリムの顔は赤紫色に変色していく。衰弱した体では抵抗することもままならない。ただ断末魔の痙攣を繰り返すだけだ。


 「もう死んでくれ父さん……頼むから死んでくれ、俺たちを助けると思って……」


 喉の奥から絞り出すような、ライルの震える声――目の前にいるのは、心身ともに極限まで追い詰められた末、正常な思考を失った者の姿だ。

 残された子どもたちは、これからどう過ごしていくだろうか? 二人で手を取り合い、生き抜いて、成長していくことができるだろうか? それとも――。

 少なくとも、自分はこれから地獄に堕ちることになるだろう。永遠に続く苦痛の中で、己の犯した罪と向き合うことになるだろう。

 それ以上の思考力は奪われ――カリムの感覚すべては、死が待ち受ける闇の底へとただひたすら落ちていくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

黒獣の森 黒砂糖 @kurozatou313

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ