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 ケリルが姿を消したことについては何も問題はなかった。彼は森で遊びたがっていて、立ち入りが禁止されていることにも不満を持っていた。おそらく家族の目を盗んで森に行き、そのまま消息を絶ったのだろうと説明すればそれで済んだ。

 ハンスや他の子どもたちと同じく獣に襲われたのだろうと誰もが考え、疑うこともない。

カリムにとって気掛かりがあるとすれば、それはアンナのことだ。ケリルがいなくなったと知らされたとき、彼女は酷く取り乱した。カリムはそんな妻をこれまで一度も見たことがなく、落ち着かせるのに苦労した。


 「あの子はまだ生きてるわ。森の中で助けが来るのを待っているのよ」


 涙ながらに、アンナは何度もそう訴えた。息子の死を受け入れられないのだ。彼女にとっては、腹を痛めて産んだ愛する我が子に違いないのだろう。

 悲しみ暮れるアンナを目にして、罪悪感がなかったと言えば嘘になる。彼女をそうさせたのは他ならぬカリム自身だ。だがこれは妻のためでもある。妻の負担を減らすためでもあるのだ――そう自らに言い聞かせて誤魔化していた。

 気が沈んでいても、それでもアンナは働くことをやめなかった。だかどこか心ここにあらずといった様子で、些細なミスをすることも少なくなかった。

 カリムたちは心配して休むように言うものの、「動いてる方が気が紛れるから」と聞く耳を持たない。他にどうしようもなく、ただ時間が解決するのを待つ以外なかった。


 そんなある日――カリムが家に帰ると、妻はいなくなっていた。


 子ども二人に行方を訊ねるが、誰も知らない。むしろカリムから言われて初めて母親の不在に気付いたようだった。

 何か用があったにしても黙って行くような妻ではない――カリムは胸騒ぎがした。

 妻が行きそうな場所はどこだろう? それも家族にも言わずに。

 いや、『言わなかった』のではなく『言えなかった』のだとしたら?

 なぜなら言えば必ず止められる――それでもアンナは、どうしてもそこに行かずにはいられなかったのだ。


 「まさか……」


 カリムは、自分の顔から血の気が引いていくのを感じた。彼はぎこちない動きで振り返る。その目が凝視している先――その先には鬱蒼とした森がある。

 『ケリルは禁じられた森に、一人で遊びに行ったのだろう』――カリム自身が妻にそう言った。妻もその言葉を鵜呑みにした。それでも息子の生存を頑なに信じていた。

 

 カリムは急いで弓を引っ張り出した。長く使われていない弓は埃を被っていたが、気にしている暇はない。念のため腰にナイフも差しておく。

 妻は息子を――ケリルを捜すため、森へ入ったに違いなかった。

 自分があんな嘘を吐いたばかりに。ケリルはあそこにはいないのに。

 

 「待ってくれ父さん!!」


 呼び止めるライルの声を無視して、カリムは外に飛び出した。焦燥感に駆られるまま森を目指して走って行く。

 どれほど危険だろうが、妻を連れ戻さずにはいられなかった。そこに理屈はない。 

 カリムは妻を――アンナを、誰よりも愛していたからだ。




 森の中では、小鳥の囀りも虫の羽音も聞こえない。風もなく、まるで時そのものが停止しているかのようだった。聞こえるのは、己の吐息と下草を掻き分ける音のみ。静かな分、それらの音はやけにはっきりと聞こえる。

 もし近くに獣がいれば、カリムがどこをどう移動しているか手に取るように分かるに違いない。アンナの名を呼びかけることも躊躇われる。

 最後に弓を持ち出したのは、いつになるのだろうか? 腕前も鈍っていることだろう。今でも上手く扱えるかというと正直、自信はない。そう考えると、背に担いでいる弓がずいぶんと頼りない物に思えてくる。いざというとき手間取れば命取りになりかねない。とはいえ、腰のナイフが獣相手に役立つかというと、これも心許ない。あくまでないよりはまし程度だ。

 暑くもないのにかかわらず、額に玉の汗が浮く。その汗が目に入る前に、手の甲で拭う。

 そのとき、カリムの耳は自分のものとは別の音を捉えた。くちゃくちゃと咀嚼するような音だ――何かの生き物がいるのは、もはや疑いようがない。

 カリムは生唾を飲み込み、緊張で固くなる体を動かして、音のする方へ進む。なるべく、気配を悟られないように。

 

 やがて茂みをそっと掻き分けた先に――『それ』はいた。


 夜闇を纏うが如く漆黒の体毛に覆われた『それ』は、カリムに背を向けてまさに食事の最中だった。姿形こそ狼に似てはいるものの、背丈は成獣に達した熊に匹敵するほど大柄だ。

 あれがハンスの言っていた獣なのか? 子どもたちが何人も犠牲になった元凶なのだろうか?

 よほど腹が減っていたのだろうか、食事に夢中で獣はカリムの存在に気付かない。

 いったい何を喰っているのか――カリムは目を凝らす。

 獲物は食い散らかされた無残な姿で、まるで原型を留めていない。だが鹿や猪の類ではないようだ。

 零れた臓物、骨が覗く手足、毛髪らしきものが辛うじて確認できた。そして――血に塗れた布切れに靴も。

 布切れは衣服に違いない。あの靴にも見覚えがある。

 

 あれは今日――アンナが履いていた靴と同じものだった。


 いや違う、きっと違う。アンナのものと似てはいるが、別の誰かのものだ。そうであってほしかった。あの無惨な肉片が妻のものであるなど、とても信じられなかった。妻の面影がまるで残されていないが故に、あれが妻ではない別人である可能性に縋りたかった。

 認めろ、あれはお前の妻だ。妻であったものの肉片だ。お前が見たあるがままを受け入れろ――もう一人のカリムが囁く。

 そう、カリムは認めたくなかった。自分のせいで妻が死んだという事実を。

 口から溢れた血が顎を滴り落ちる。強く噛みしめた奥歯が砕けたのだ。

 背中の弓にそっと手をかける。あの獣は今、こちらに気付いていない――今のうちに仕留めなければ。

 矢を取り出して、弓に番える。手が震えているため、上手く狙いが定まらない。

 落ち着け――この距離だ。落ち着いて狙えば外さない。呼吸を整えろ。

注意深く動いたが、ふいに獣がこちらを振り返った。ぎらぎらと輝く瞳――よく研がれた刃物を思わせる鋭い牙には血肉がこびりつき、カリムを目の当たりにして止めどなく涎を垂れ流している。まだ飢えは満たされていないようだ。心なしか体躯も痩せているように見える。ずいぶんと獲物にありつけていなかったのだろう。


 お前も、生きるのに必死なんだな――。


 カリムは弓を引き――獣が躍りかかるのと同時に、矢を放った。


 

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