3
カリムがどれほど身を粉にしてど働こうと、生活が好転する兆しはなかった。
働き続けるためにも体力が必要だが、それに欠かせない食事も相変わらず質素なものだった。皆が瘦せ細り、顔色は優れず、栄養失調で亡くなる村人も増えてきていた。
「今日はこれで我慢してくれる? ごめんなさい……」
固くなったパンを五人で分けて、申し訳なさそうにアンナは言う。その声に覇気はない。
夫であるカリムは常日頃から口では妻を励ましてはいるが、内心そんなものは気休めにすらならないと分かっていた。そしてそれはアンナもまた同じように感じているようなのが汲み取れて、彼は虚しさを覚えた。
自分は妻にとって良き夫ではないのかも知れない。頼りにならない夫だと思われているかも知れない。いくら働いても報われることはなく、無力感だけが募っていく。
カリムの心と体は今にも壊れそうだった。
手を合わせて神に祈りながらも、一方でこんなことをして意味があるのかと疑う自分がいる。神は本当に我々を見守っているのだろうか? 見守っているならどうして未だに手を差し伸べてくれないのか? ただ見ているだけなのか? まるで観劇でもしているかのように。
そう考えつつも食前の祈りをやめないのは、それがいつもの習慣となっているからだ。これまでもずっとやってきているから今日も明日もやる。
急にやめる理由がないので続けている――他に理由はない。
パンを千切り、口の中でよく噛んでから飲み込む。少しでも満腹感を得るために。家族も皆、そうしている。
――いや一人、例外がいた。末子のケリルだ。皆がパンを咀嚼している中、彼の手はすでに止まってしまっている。目の前には食べかけのパンがまだ残っている。
「ケリル、どうした?」
「いらない。食べたくない」
素っ気ない態度で答える。
「何でだ? 体調でも悪いのか?」
「もうパンは飽きたんだよ、美味しくないし」
「そう言うな。みんな何も言わず食べているじゃないか」
「嫌だよ。こんなものより肉が欲しいんだよ」
「そんなものあるわけないだろう? 知ってるはずだ」
ケリルはこれ見よがしに舌打ちをする。
「何だ? その態度は?」
無視して行こうとする次男の腕を、カリムは掴む。
「これはお前のだ。後でもいいから食べておけ」
「だからいらないってばっ!」
いきなり癇癪を起こして、ケリルはあろうことかパンを床に叩きつけた。
「何をするんだ!!」
思わず怒鳴りつけるも、ケリルは逃げるように走って行ってしまった。
「あいつ、何てことを……」
床に落ちたパンを拾う。この家族にとって食べ物がどういう意味を持つのか分かっているのか? 食べ物は命を繋ぐ大切な物だ。それを粗末に扱うなんて。
末子だからと、カリムたちが甘やかしすぎた結果だ。
「ごめんなさい。こんなものしかなくて……」
妻のか細い声が聞こえる。
「母さんは何も悪くないだろ」
ライルが気遣わしげに声をかける。
「ねえ……あの子、食事はもう抜きでいいんじゃないの? もったいないし」
アイシャも続いて怒りを露わにするも、
「そういうわけにもいかない……俺たちは家族なんだから。あいつもいずれ分かってくれるはず」
アイシャはちらと父を見て眉を顰めると、すぐ視線を逸らした。それは元気づけているときの妻の反応とよく似ていた。
本当はそんなこと思ってもいないくせに――そう言わんばかりの。
妻ばかりでなく娘にまで本心を見抜かれているというのか?
カリムは少なからず衝撃を受けた。
良き父良き夫としての振る舞いは、もう限界なのだろう。
昼を過ぎた頃――本来なら天高く太陽が昇っているはずだが、空には分厚い雲以外には何も見えない。
こんな日がずっと続いている。最後に太陽を見たのはいつだっただろうか? もうずいぶん昔のことのように感じる。
一仕事終えて暫しの休息を済ませると、家の裏から薪を割る音が聞こえた。
裏に回ると、そこにはライルがいた。
「ライル、休んでこい。後は俺がやっておく」
父の声にライルは顔をあげて、
「大丈夫だよ父さん、ここは任せてくれよ」
だがそう答える顔には、疲労の色が濃い。
「疲れが顔に出てるぞ。休むことも仕事のうちだ」
「ん……分かった、ごめん」
申し訳なさそうに、ライルは斧を置いて家の入った。
「さて……」
そうしてカリムは斧に手を伸ばしかけ――もう一人の存在に気付いた。
家の裏手から少し離れたところに苔むした井戸がある。すっかり水は枯れていて、今ではまるで用を為していない。
その井戸の傍にケリルが蹲っていた。木の枝を持ち、退屈そうに何やら地面に絵を描いているようだ。
そういえば、ケリルが家の手伝いをしたことはなかった。いつもどこかで遊んでいる。そのくせ不平不満は人一倍口にする始末だ。そうやって家族を困らせてばかりいる。
「…………」
カリムは周りを見渡した。誰の姿もない。ライルは家の中で休んでいるし、アイシャは母親の手伝いをしている。
自分がなぜそんなことをしているのか、これから何をしようとしているのか――カリムは理解していた。理解はしていたが、正常ではなかった。理性というものが麻痺していて、心の中は獣じみた黒い感情に支配されていた。
カリムは斧を持つと、足音を殺して一歩ずつケリルに近づく。
この家に、穀潰しを養う余裕はない。
斧を振り上げた、まさにそのとき――背後から、日が射し込んだ。
久しく隠れていた太陽が分厚い雲間からふいに顔を覗かせ、陽光がカリムの足元に影を作った。
その影に気付き、ケリムが振り向く。斧を振りかぶった父の姿を認め、声を上げようとする――が、彼の口が何かを発することはなかった。その前に斧が彼の顔面を叩き割ったからだ。
人を殺した――それも我が子を。カリムは放心したが、わずか数秒のことだった。
手早くケリルの死体を抱え上げて、井戸に突き落す。井戸の中は暗く、覗き込んでも何も見えない。そこに死体があるなど誰にも分からない――カリムを除いて。
後は斧の血を洗い流さなければならない。家族に見つからないうちに。
斧を拾い上げたカリムは、ふと天を仰いだ。
鉛色の雲に覆われて、太陽はすでに隠れて見えなくなっていた。
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