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 あの日、カリムは朝から農作業に励んでいた。ひたすら体を動かしているときだけは、何事にも頭を悩ませずに済む。不安感から逃れることが出来る。

 それこそ若い頃は休息も忘れて働くこともあったが、今は体の方が音を上げて、昔より無理が効かなくなっていた。翌日の労働にも響くため、適度に休まざるを得ないのがもどかしく感じる。

 自分ではまだ体力はあると思ってはいても、よる年波には勝てないということだろう。

 そしていったん手を止めて汗を拭い、息を整えたとき――見慣れた男が歩いているのが目に入った。男は濃い頬髭をたくわえて、弓をかついでいる。

 カリムの家からほど近くに住む四人家族の主、ハンスだった。普段は朗らかな男だったが、今日はなぜか険しい表情を浮かべてる。


 「どこへ行く? ハンス」


 カリムの声に足を止めて振り返るが、表情は変わらないままだ。


 「ああカリム……どこへって? 見ての通りさ」


 言って、背中の弓を示してみせる。


 「狩りに行くつもりか? まさかとは思うが、森じゃないだろうな?」


 「他にどこがある? 獲物というのは森にいるもんだ」


 当たり前のことを聞くなといった調子でハンスは答える。


 「子供たちが行方知れずになってるんだ。お前も知ってるだろう?」


 「分かってる。だが俺にはこの弓がある。どんな獣だろうと仕留めてみせるさ……自信があるんだ」


 確かにハンスの弓の腕前は村一番といってもいいほどだ。それでもカリムはあの森に何やら不吉なものを感じずにはいられなかった。


 「考え直せ。危険だ」


 「うちにはもうほとんど食料がないんだよカリム。このままいてもいずれ俺の家族は飢え死にするだけだ。少しでも望みがあるなら、やれるだけのことはやっておきたい」


 だから頼む止めないでくれ――そう言い残して、ハンスは森へと行ってしまった。 カリムにはそこまで思い詰めた彼を引き留める術はない。

 ハンスの姿は、未来のカリム自身だった。生きるためにはどんなことでもする。手段を選んでいられる余裕はない。


 それでもやはり一人で行かせるべきではなかった――カリムは今でも、あのときのことを後悔している。


 ハンスが森に行って暫く経ってから、今度は男女の二人組が姿を現した。

 体格がいいその男はロウマンといい、ハンスとは家族ぐるみの付き合いをしていた。連れられている小柄な女はハンスの妻エマで、酷く青ざめた顔している。

 二人はカリムのことが目に入らないようで、そのまま通り過ぎていった。

 ハンスの身に何か良からぬことがあったのは明らかだった。おそらくエマはロウマンから報せを聞き、二人して慌てて駆けつけるところなのだろう。

 農具をその場に放って、カリムも二人の後を追って森へと向かった。

 森の入り口には、村の大人たちが集まっていた。彼らは揃って足元の一点を見ている。その視線の先の地面では、ハンスが横たわっていた。

 血に塗れたハンスは、見るも無残な有様だった。右腕はほとんど千切れかけていたし、腹も大きく裂けている。残った左手で臓物が零れないよう傷口を抑えていたが、出血が激しくすでに助からないのは疑いようもなかった。

 顔は青白く、呼吸も浅く、瞳も虚ろだ。エマがしきりに彼の名を呼んでいたが、それも耳に入っていないようだった。


 「間違っていた……俺が、間違って、いた……」


 混濁しているであろう意識の中でも、ハンスは何かを呟いている。


 「獣が、いた……真っ黒な、恐ろしい獣……やつは血に……血肉に飢えている……近づいてはだめだ……絶対に……」


 それだけ言うと、ハンスは動かなくなった。喋ることも息をすることもやめた男は、怯えた表情のまま固まっていた。

 大人たちは一様に言葉を失い、顔色も青ざめていた。ハンスの今際の際の恐怖心が、彼らの間に伝播していくようだった。

 ただ一人――夫の亡骸に縋り付いて泣き続けるエマの声だけが、その場で悲痛に響いていた。




 獣は確かにいる。だが子どもたちは信じない。森に行かせたくない大人たちの虚言だと思っているからだった。

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