黒獣の森

黒砂糖

1

 どこからともなく入り込んだ冷たい隙間風に、カリムは身を震わせた。

 暖炉に薪を焚べると、ぱちぱちと爆ぜる音がして、弱まりつつあった火は勢いを取り戻した。

 冬の夜の厳しい寒さを乗り越えるためには火を絶やすわけにはいかない。火が絶えるときがすなわち命が絶えるときだ。いつだったか雪の降りしきる中で、身を寄せ合って眠るように凍死した親子の話を聞いたことがある。自分たちもその二の舞にならないとも限らない。貧しい家ならなおさらだ。  

 日照り不足が続いて作物は育たず、村は困窮を極めていた。よその家まで気にかけている場合ではない。それぞれの生活だけで精一杯だった。備蓄してある食料で何とか糊口を凌いでいる状況だ。

 こんなことがいつまで続くのか、先のまるで見えない日々。残された食料のことを考えると、どうしようもなく不安に駆られる。

 そんな状況であるため、人々からは笑顔が消えて眉間には皺が深く刻まれ、陰鬱な空気が村中を覆っていた。

 今をどう生き延びるか――誰もが悩み、苦しみ、足掻いていた。


 足音がして振り向くとカリムの妻、アンナがテーブルに皿を並べていた。彼ら家族、五人分の食事だ。子供たちが椅子を引いて座り、それからカリムとアンナもテーブルにつく。

 皿に盛られているのは大麦のオートミールで、充分に腹を満たすには至らないが飢えるよりましだ。貴重な食べ物であることに変わりはない。

 食事の前に、両手を合わせて神に祈りを捧げる。まだこの家にこうして食べる物が残されているということは、神に見放されていないという証拠だろう。だからこそ祈ることを欠かしてはならない。三人の子供にもそう教えている。

 神はいつでもこの家を、この村を見守ってくれている。こうして祈り続けていればいつか救いの手を差し伸べてくれる。そう信じる――信じるしかない。今は心の支えとなる存在が、誰にでも必要だった。苦難を乗り越えた先にこそ幸福が待っているはずだと。

 祈った後は、ひたすらオートミールを口に運ぶ。会話はない。皆が目の前の食事に集中している。いつからか、これが普段の光景となった。

 見ると、先に平らげていた次男で末子のケリルが、名残惜しそうに皿をぺろぺろと舐めていた。ケリルはまだ九歳で、彼のような年頃の少年にこれだけの食事はまるで物足りないのだろう。


 「なにしてるのよケリル。やめなさいよ犬みたいに」


 長女のアイシャが眉をひそめて咎める。顔立ちは母似だが、穏やかな性格のアンナと違い、こちらは気が強い子に育った。年齢はケリルの三つ上の十二歳になる。


 「だってさぁ姉ちゃん……」


 ケリルは不満そうだ。そんな二人のやりとりを見ていた長男のライルは、


 「おいケリル、俺のを少しやる。だから皿を舐めるはよせ」


 「分かったよ……兄ちゃん」


 ケリルはしぶしぶ皿を置く。十六歳のライルはしっかり者で、家の仕事もよく手伝ってくれる。決して楽ではない暮らしの中でも、この長男は実に頼もしい存在と言えた。


「いや父さんのをやるよ。お前もちゃんと食べるんだ、ライル」


 ライルを制して、カリムは自分のオートミールをケリルの皿に分ける。次男はそれもあっという間に平らげてしまった。

 そのとき、外からひときわ強い風が吹き、家の窓を揺らした。見るとケリルは揺れた窓をじっと見つめている――いや彼が気になっているのはその更に向こう、村外れにある森だろう。カリムはそんな彼に対して、

 

 「ケリルいいか? 森の方にはな……」


 「近づくなって言うんでしょ? 分かってるよ、うるさいなぁ」


 言葉を遮ってそう吐き捨てると、ケリルは苛々と大きく足音を立ててどこかに行ってしまった。

 村の子供が森に遊びへ行ったきり、そのまま姿を消してしまう――そんなことが度々起こっていた。おそらく獣に襲われたのだろうという村の大人たちによる判断で、その後、村では子供たちに決して森の中に立ち入らないように言い聞かせるようになっていた。

 ケリルもよく森で遊んでた子供の一人だった。これまでもずっと森で遊んでいても危険なことなんてなかった。それが急に禁じられてしまったため、不満で仕方がないのだ。いなくなった子供も道に迷ったか、急な斜面で足を滑らせ転落して身動きがとれなくなったかに違いないと考えているようだった。

 

 だが、それは違う――カリムは知っていた。獣は確かにいる。獰猛な肉食獣が。

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