「な……」

 長船が思わず声を漏らしたことを咎める者は誰もいない。直家の呟きの真意を完全に理解出来る者はここには誰もいなく、本人も小姓に下がるよう命じて意気揚々と立ち上がった。

「忠家、直ちに集めていた兵を率いて幸島へ向かえ。美作を延原に任せ、戸川と岡を呼び戻し、宗景に備えるよう伝えい」

 呆然とする二人をよそに直家の口調は活き活きとしている。表情も公の顔が若干緩み、普段笑わない目も好奇心で満ち溢れた子供のようだ。

しかし、天神山城を取られたことで情勢は一気に浦上へと傾こうとしているが、どうして好転への切欠へとなるのだろう。南東にある幸島を拠点とされれば東の天神山城の浦上と北に位置する三星城の後藤とで宇喜多の本拠、岡山城に対する包囲網が完成してしまう。数では若干敵方に分があるかどうかだろう。つまり、兵を分散させなければならない宇喜多が不利になるのは明らかである。

「何をしておる? 急ぎ今のことを皆に伝えろ」

 我に返って顔を上げると直家の眉間のしわが深くなり、扇子で畳を軽く叩く音がする。本気になり、遅れを決して許さない時の合図のようなものだ。

「は、ははっ! 直ちに!」 

 忠家は反射的に頭を垂れたが、胸中ではどうして直家が危機的状況を喜ぶのかという疑問で埋め尽くされている。

立ち上がり、残った長船がどのようなことを命じられているのか考える暇も無く、厩に止めてあった馬を引かせると直ちに自分の屋敷へと戻る。焦燥感で満たされた表情を見て驚く家臣をよそに戦支度をするように命じると部屋に戻って散らかっていた机の上を留守の間に誰かに間違って見られないようにする為に片付ける。

直ちに出陣するようにと言われても一日二日はかかる。兵糧を荷台に積み、兵達の準備や武器の確認と千規模の人が動くのだから仕方ない。だが、その日数で命運が決まることも少なくない。忠家は部屋から出ると急ぐようにと何度も声を上げ、寄ってきて問いてくる家臣に矢継ぎ早に指示を出す。

 流れは明らかに浦上にある。時が経つにつれて不利になるのは宇喜多であり、何か一手を打たなければ岡山城すらも危うくなる。

 拙速で行かなければならない状況に立たされた宇喜多はさらに追い詰められる。にもかかわらず、直家には余裕があった。ならば勝算があるのだろう。どこにあるのか。全く忠家には分からなかった。

 考えるのはことを止めようと頭を小さく振ると今一度部屋へと戻り、幸島についての資料と地図を取り出した。瀬戸海に通じる児島湾は大きく、重要な海の拠点である。浦上一門の浦上秀宗が辺りに潜伏している。天神山城奪還の知らせも直に伝わることも考えれば士気も高いだろう。厳しい戦になることは間違いないだろうが、見越したうえで直家は命じてきたのだ。

 直家は疑わしき者に対しては容赦ないが、有能な者を恐れて殺害するようなことはしない。期待されているのならば答えなければならない。心が躍ってしまうのは武人であるが故なのかもしれないと忠家は苦笑いを浮かべてしまうが、幸島で待っているであろう激戦を思うと表情も曇る。

「はぁ……」

 大将を任された以上、戦略を練らなければならない。これまで入ってきた情報と今回動員する兵力、地の利を考えると速攻で勝つのは難しい。

「殿、兵糧に関してお尋ねしたきことが」

「あぁ……入れ」

 思考を邪魔されるのも腹立たしく感じるが、耐えなければならない。家臣も頑張っているのだから気持ちを乱し、戦に影響を及ぼすようなことをして敗れては末代までの恥だ。

それから兵糧が足りない分をどうするか、持って行く武器の割合をどうするかについての相談を受けてから様々な戦略を考え、納得いく状態になったのは夜のことだった。

「七郎兵衛様、殿から書状が届いておりまする」

「兄上から? 何故に……」

 寝る支度を済ませ、布団の中に入りかけていた体を渋々起こす。襖の間から差し出された書状を受け取ると一文で明日出陣前に朝早く城に来いと認められていた。


古人曰く、冬は早朝が最も良い時間であるとされている。とはいえ、風流人ではない忠家が風情を味わうことはしない。そもそも主に呼ばれている以上、武人であるならば優先しなければいけないものは自ずと決まってくる。二月の寒さに身を震わせながら部屋に通されると先客がいた。

「与六?」

「次兄、今日出陣のご予定では?」

 与六と呼ばれた春家は目を見開いて隣に座った忠家へと顔を向ける。

「兄上より呼ばれた」

「次兄もで御座るか。何故かご存じで?」

「いや、聞いておらぬ」

 残念そうに肩を落とし、首を捻る春家に対し、忠家は直家がやって来るのを大人しく待つことにした。考えたところで分からないのであれば無駄なことはするべきではないと思ったからである。

「済まぬな」

 どこか楽しそうにしている直家に首を捻るが、理由はすぐに知ることになった。

「お前等には黙っておったが、密かに織田と盟約を結ぼうと思う」

 忠家と春家は互いに目を見開いて顔を見合わせ、直家の方を向く。直家は口端を吊り上げていて心中が読めない。

「一向一揆が片付き、西に目を向ける余裕が出来たのであろう。中国に兵を動かし、既に播磨の別所を討ったのを見ても情勢は織田に傾いている。だが、未だに畿内に織田に刃向かう者もおる。故に何も持っていない宗景と中国のことに通じ、兵を持っている我々。秤に掛ければ知れたことだ。こちらより話を持ち掛ければすぐさま盟は成る」

 口には出さなかったが、毛利が将軍家を保護しようとしていることも原因だろう。だが、将軍家を追放した織田と相容れなくなった毛利との力の差を考えると難しいところだ。どちらとも力は拮抗していて、先の木津川口での水軍同士の戦では織田が勝利している。だが、春家は納得いかないと口を開く。

「ご決断が尚早では御座いませぬか?」

「最強と謳われる毛利の水軍が敗れ、兵糧が断たれた本願寺もこれ以上はもつまい。織田包囲網の要である本願寺が敗れ、これより先は織田の世になるのは明白。ならば、付くべきはどちらかも明らか」

「されど淡路島より西は未だに毛利水軍のもの。陸でも摂津の荒木が有岡城にて抗うておりまする」

「否、荒木もいずれ落ちる。奴も毛利が頼り。織田は既に羽柴を上月の地まで向かわせておる」

 春家は承服し難いのか唇を噛んで斜め下を見ている。直家はこちらを見てきたが、忠家は異論が無い為、少し頭を下げる。

「七郎兵衛は如何思う?」

 尋ねられるとは思っていなかった為、慌てて顔を上げる。直家の表情は笑ってない。意見を真剣に求めていて、眉間のしわの深さを見ると緊張感がさらに漂う。

「織田は畿内を取り、武田を長篠にて徹底的に叩いたと聞いておりまする。されど、未だに上杉がいるではありませぬか?」

「上杉は謙信殿が亡くなって後、国が乱れている。動けぬだろう」

「本願寺の門徒達が徐々に滅ぼされ、毛利も水軍で敗れた今、頼るべきは織田。と……」

 頷く代わりに直家は口端を吊り上げる。春家は将軍家がどうのと渋面のままだが、もはや名前だけの存在に意味など無い。それこそ浦上のようだ。

「されど、このまま織田に降るのも下策。このままでは備前を安堵されるかも危うい」

 途端に部屋の雰囲気が変わった気がした。一瞬の沈黙の後、春家が身を乗り出した。

「織田は刃向かいし者に容赦はないと知らぬと長兄は申されるのか!?」

「知っておる」

 忠家は驚きこそしたが、黙ったまま二人のやり取りを見守る。それよりも春家の矛盾振りに呆れたくなった。直家も同じことを思っているのだろう。今だけは気持ちも分からなくもないと思った。

「ならば何故に……」

「確かに、織田信長は敵に容赦がない。降った者を許すか許さぬかは定かではない。されどそれは信長に限ったこと」

 失念していたと内心で天を仰ぐ。春家は今一つ理解出来ていないようだ。ここは助け舟を出すべきだと口を開く。

「此度中国を攻めるは羽柴秀吉。降る者は拒まぬ彼ならば一度敵としてあたり宇喜多の戦振りを見せつけ、目を掛けてもらう。と?」

「左様」 

 少し嬉しそうに目を笑わせた直家に驚いたが、すぐに表情が引き締まり、緊張感が戻る。

「延原に援軍を出す。七郎兵衛、直ちに揃えていた兵を差し向けろ」

「御意」 

「与六、七郎兵衛の代わりに我等に抗う備前の者達を討て。戸川や岡を使って構わぬ。浦上の頼りは後藤。後藤を討たば浦上の戦意は落ちる」

 確かに手土産は大きい方が良い。浦上を討ったところで織田が中国を攻める理由を無くすはずがないし、備前一国をわざわざ討伐する手間が省けるとなれば羽柴にとっても御の字だろう。

「そも、上月城を落としたことでおおよその決着は付いていたがな」

 忠家と春家は分からないと互いに戸惑いの表情をみせると仕方あるまいと直家が口を開いた。

「上月城は播磨を取る上で欠かせぬ城。取られれば面倒となる。尼子が奪った後、毛利は大軍を以て上月城を奪おうとした」

「そのようなこと私も存じておりまする」

 不機嫌そうな春家に直家はわざとらしく溜め息を零す。それから忠家の方を見てきたが、生憎理解出来ていない為、申し訳なさそうに首を横に振るしかない。

「上月城が落ちた時から既に羽柴は中国への足掛かりを失っておった」

「あっ……」

 思わず声を漏らしてしまった為、春家が振り返り、どういうことなのかと詰め寄ってくる。

中国を任された羽柴を追い返すことで浦上宗景は動けない。しかし、幸島を取った浦上与党の勢力は一斉に蜂起してしまい、もう後に引けない。今まで曖昧な態度を取っていた者達も敵意を露わにしてしまったのだから。

浦上が織田を頼りにしている以上、宇喜多は上月城を羽柴に諦めさせることで後藤を動けない状況へと追い込むことが出来る。力が拮抗している為、後藤単独で宇喜多に当たったところで勝敗が決するまで泥仕合を繰り広げる可能性が高く、勝ったところで戦果を負った犠牲につぎ込むと残るものも減る。

「後藤が動かずにいたのは確実に勝利を得ることが出来る時を待っていたが故に?」

「奴は勇猛だが、いざという時は慎重になる。それが此度は仇となったようだ」

 紛いなりにもかつて同じ家に仕えていた者同士、性格は十分に知っている。利用出来るものは何でも利用するというのは直家らしい。春家もようやく合点がいったのか曖昧ながらも頷いている。

「七郎兵衛、今こそ後藤を討つ時だが、万一に備えお前はこの城に残れ。援軍の指揮は他の者に任せる」

 直家も少し興奮しているのか声が若干上ずっているような気がする。さらに尋ねたいことが山ほどあったが、直家が話はそれまでと部屋を出て行ってしまった。

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