2話目 出会い


 機外に出ると、異国の臭いがした。

 何度海外へ行ってもドキドキする瞬間だ。肺の空気が入れ替わり、血として巡り別の人間になったような気がする。

 中国・貴州省銅仁鳳凰空港。地方の小規模空港らしい古びた通路を抜け、ネットで予約していたドライバーの男と落ち合った。ここから目的地まで、車で数時間かけ山中を進むことになる。スマホで地図を確認すると、途中観光するような場所も特に無い様子だった。

 先日、大学時代の旧い友人から結婚式の招待状を受け取った。懐かしい日々のことを思い出し、こんなところまで来てしまった。考えてみれば、初めて中国を訪れたのはもう10年近く前のことになる。感慨深い気持ちになった。私にとって、それが初めての海外旅行だった。

 当時大学生だった私は、付き合っていた恋人にフラれ、傷心の真っただ中にいた。何はともあれ現実から逃避したくてたまらない気持ちになっていた。そんな折、中国の大連外国語大学に留学していた高校時代の友人から「現地に遊びに来ないか?」と誘いの連絡を受けた。これ幸いと思い、早速パスポートと旅券を取り、羽田からの直行便に乗り込み、まんまと日本脱出に漕ぎ着けることができたのだった。

 着陸しようとする飛行機の窓から、初めて異国の景色を見た。団地のような煉瓦造りの建物が整然として彼方まで広がっていた。その見たことのないスケールに、ここが日本ではないのだと再確認した。

 冬場の大連は摂氏マイナス10度にも達する極寒の土地である。温暖な日本の防寒具で足りるかどうか不安だったけれど、ここまで気温が低いと寧ろ空気は痛いだけで案外寒さを感じなかった。

 招いてくれた友人は、大学の授業があるのでずっと案内してくれるわけではなかった。だから大抵は一人で観光して回っていた。

 戦時中、大連は旧日本軍が統治していた。その名残で、市内には明治時代的な擬洋風の建築物が点在していた。中心街にある大連駅は、東京の上野駅をモデルに建築されたといい、確かに瓜二つのように見えた。異国の地で日本の息吹を感じることに不思議な郷愁を覚えた。

また北朝鮮やロシアの国境に近いこともあり、市内にはコリアンタウンやロシアンタウンも存在しており、それぞれの国を模した家屋もあれば、本格的な料理を味わうこともできる。

そしてそういう非中国的な街並みの中に、中国的な赤色や金色の鮮やかな「双喜紋」や「到福」の飾りが彩られている。その魅力的な光景に、いっぺんに魅了された。

 私が訪問したとき、大連は大雪だった。寒冷地の割に降雪が余りない土地らしく、雪に慣れない現地の中国人が道路で派手にすっ転び大げさに笑う姿は、彼らの陽気さを思わせた。

 極寒の外気を避けるため、大連の地下には巨大なショッピングモールが蟻の巣のように張り巡らされている。地下街はさながら迷路のようで、容易く自分の所在を見失った。

 ある日、地下街の一角に「日語角(日本語学習の無料カルチャースクールのこと。)」を発見した。そのとき人がいなかったので、壁に掲示された開催予定表の日付に再訪しようと思っていたのだけれど、迷った末に二度とそこへ辿り着くことはできなかった。

 そうして市内を数日観光し、予定どおり明日には帰国しようという日の夕方のことだった。友人と共にファミレスに入店すると、ウェイトレスの一人が

「あなたたち、日本人?」

と、片言の日本語で話しかけてきた。話してみると、大連外国語大学の日本語学科に通う大学生で、名前をパンと名乗り、その漢字を「盼」と紙に書いて見せてくれた。この国にはこういう日本では見ないような漢字があるのだな、と思った。

 そして暫く友人と世間話をしていると、不安げな表情でパンが駆け寄ってきた。

「ニュースを見て下さい。日本が大変なことになっています。」

 その要領を得ない説明に事情をよく呑み込めないまま促され退店し、私が逗留していたホテルの一室で友人と共にテレビを点けた。するとそこには、日本の家屋が黒い津波に呑み込まれていく衝撃的な映像が映っていた。そのとき2011年3月11日、日本は東日本大震災の猛威に見舞われていた。

 当時中国語の解らなかった私でも、不穏な字面やアナウンサーの口調から尋常ならぬ事態にあることは容易に理解できた。私は海辺の町の出身だから、津波の映像は他人事と思われず戦慄が走った。私たちは急いで近親者に国際電話を何度もかけた。けれどその日、電話が繋がることはなかった。

 友人曰く、アナウンサーが言うには日本の原子力発電所が爆発し、その放射能汚染によって甚大な被害が生じているとのことだった。そして当時若く幼かった私たちは、「このまま年単位で日本に帰国できないシナリオも考えなければならない。その為にはここで生活の基盤を築く覚悟もしなければいけないかもしれない。」という、今から思えば滑稽なほど悲壮な覚悟を固めていた。

緊急事態で日本の状況が判らず、ましてや国内の者と連絡が取れない以上、翌日帰国するフライトの航空券は見送るほかなかった。

 何はともあれ中国語を身に付けなくては覚束ないと思い、頼る者のいなかった私は翌日、例のファミレスに赴いた。そこでウェイトレスとして働くパンに、

「私も日本語を教えるので、中国語を教えて欲しい。」

と頼んだ。彼女は、

「喜んで。」

と快く応じてくれ、それから連日ファミレスで語学を教え合うようになった。

パンはそんな巡り合わせで知り合った私を珍しがって、色んな若者のコミュニティに連れ回してくれるようになった。そういうコミュニティにいる若者たちの中には、もちろん反日的な考え方を拗らせ日本人憎しという者も少なくはなかった。

 けれど、既に私と意気投合していたパンの手前、表立ってそれを口に出す者はいなかった。中国人は面子を重んじる。私のことを侮辱すれば、翻ってコミュニティに引き入れたパンの面子を潰すことになってしまうからだ。いずれにしても、中国人も日本人と同じくらい空気を読んで人間関係を維持しているのだな、と思った。そして、気付いたことがあった。

 初めのうちは日本人である私に偏見のあった者も、何度となく共に遊んだりしているうちに、結局は徐々に打ち解け好意的に接してくれるようになった。つまり、ただ淡々と善き隣人として接し続けてさえいれば、いずれ人は情を抱く。そういう自然な感情に、国籍はさほど関係はない。こうして友人の友人、またその友人の友人と関係性を繋いでゆくことで、ときにいがみ合う国民同士でも相互に理解できるのだ、と解った。

 そして彼らは私の母国が大変な状態であることに、優しい言葉をかけてくれるのだった。そのことに、私は大いに励まされた。

 数週間も経つと、震災のショックから報道も冷静さを取り戻し、日本の様子もさほどオーバーではなく伝えられるようになった。そして問題ないだろうと判断した私は、帰国する航空券を予約した。

 空港には現地で出来た異国の友人たちが見送りに来てくれた。その中でもパンは大泣きに泣いていたから、

「呼んでくれたときには必ず駆けつけるから、いつか必ずまた会おう。」

 と声を掛け、私たちは再会の約束をした。

 帰国後も暫くは中国語の勉強を続けていた。けれど結局、大学卒業後にそれを活かすような仕事に就くことはなかったし、東京で忙しくサラリーマンとして働いているうちに中国で過ごした日々のことを思い出すことも少なくなっていった。

 そうして早いもので10年近い月日が流れたある日のこと、メールボックスを開くと、パンから結婚式の招待状が届いていた。

「大連で過ごした日々を覚えていたら、故郷に来て祝福して欲しい。」

 添付された写真には、大きくなったお腹を抱えて笑うパンの姿が写っていた。私たちは再会の約束をしていたのだった。一も二もなく航空券を取り、私は機上の人となった。

震災のときに人々から受けた優しさや、大連で過ごした日々を忘れることはない。そしてこの国ではない遠い場所で、あの日々を今も後生大事に覚えてくれている人がいる。そんなことが嬉しくて、この世界の巡り合わせの不思議さを想い胸が締め付けられた。

 飛行機の窓から中国の景色が覗き、煉瓦造りの建物が整然として彼方まで広がっていた。


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中国人の花嫁 だっちゃん @datchang

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