第9話
零斗は全ての仕事を巻きで終わらせ、日が落ちる頃に帰ることができた。
少しときめきを抱きながら、合鍵で満月の無人の部屋へ上がらせてもらう。
とりあえず、すでにまとめてあるゴミ袋だけを往復しながらゴミ置き場へ出しておく。
それでも、シンクにはコンビニ弁当などの空箱が残っていたり、大量のペットボトルとエナジードリンクの空瓶があちこちに転がっていたりしている。
それらをまとめて部屋の隅に寄せて、掃除機を拝借しかけていく。
洗濯機の中もいっぱいだったので、回す。
キッチンはほとんど使用された形跡がなく、そのまま使わせてもらうことにした。
(あんま人間の食べ物好きじゃないけど、たまには食べてるとこ見せないと、不審がられるかもしれないよな)
そう思いながら、買ってきた土鍋に昆布と水を入れる。本日の夕飯は水炊き鍋である。
材料をまとめてぶち込んで、火を止め、自分の部屋へシャワーを浴びに帰った。
頭にタオルを乗せたまま、帰ったと連絡のあった満月の部屋のインターホンを押す。主人はすぐに出てきた。
「部屋がっ、ゴミが減って!?ああああの、これ、零斗くんが!?」
「勝手に色々しちゃったけど、大丈夫だった?続きは今度にしようと思って」
今日もパニックを起こしている満月をそのままに、上がり込み、鍋に火をつける。
「もうちょいかかるから、風呂入ってきなよ。お湯も沸かしといたからさ」
調理に集中させていた視線を満月に向けると、床にうずくまっていた。
零斗が訝しげに近寄ると、満月は何やら呟いていた。
「顔が良くて、さらにはスパダリとか...我が推し、完璧すぎか」
何を言っているのかよくわからない零斗は、満月を立たせてやるが、彼女は顔を覆ったまま動かない。
「今日も仕事やばかった?風呂入れる?」
「こんなんストレス吹っ飛ぶ...。...烏の行水してきます!」
びゅんっと音がするほどの素早さで浴室へ入った満月に、零斗はほっと息を吐く。
鍋が吹きこぼれ始めて、ローテーブルに置いた鍋敷の上へ移動させる。少し経つと、満月が洗濯物を抱えながら出てきた。
「洗濯物まで、ありがとうございますうう」
「干してくるから、先食べてて」
零斗は立ちあがろうとしたが、満月に止められる。
「し、下着もあるので、さすがにそこまでは!」
勢いに押されて動けずにいると、ものすごい早さで干し終えて、戻ってきた。そのまま「いただきます!」と、食べ始めた満月を、零斗はポカンと眺めていた。
満月は首を傾げる。
「零斗くんは、食べないんですか?」
明るい声色に、肩の力が抜けて、頬が緩む。
鍋に箸をつけた。
「満月ちゃん、俺より年上なんだから、敬語やめない?」
満足気に、自分の頬へ手を当てている満月へ、そう笑いかける。
急な提案に、彼女は瞠目し、あわあわと手を振り回した。
「これ以上、零斗くんに馴れ馴れしくするなんて、恐れ多いです!?ああ!片付けも私がするので!!」
空になった食器を片そうとした手を制される。それを良いことに、重なった手を握り込んで、真っ直ぐに満月を見つめる。
「俺、もっと満月ちゃんと仲良くなりたいんだ...だめ、かな」
瞳を潤ませて懇願する姿は、さながら子犬のよう。そう見えるように、自分の表情をコントロールする。
満月の目がとろりと溶け、へにゃへにゃと全身の力を失っていく。
「だめじゃなぃいい」
「良かった。俺、嬉しいよ」
追い討ちに目尻を赤らめながら微笑み、満月を動けないよう溶かしきって、零斗は洗い物も完璧にこなしたのだった。
(満月ちゃんと一緒なら、人間の食べ物も悪くないな)
最初から警戒心のない満月は、零斗がまだ部屋にいようと、眠りこけてしまう。
そのことに、零斗は僅かばかり心配になっていた。だが、僅かばかりだ。
据え膳食わぬはなんとやらの精神で、眉間に皺を寄せながら眠る満月のおでこを撫でる。
甘い精気を感じながら、夢に落ちていく。相変わらず悪夢だ。
(セクハラ、パワハラ、休日出勤...。ブラックのオンパレードだな)
現実ではあり得ないサイズのハゲたおじさんに、小人サイズの満月が何やら怒鳴られているかと思ったら、ニマニマとした同期らしき男に肩や腰を撫でられる彼女。
零斗は冷え切った瞳で、苛立ちと憎悪を抑え込み、無心で悪夢を食い散らかす。
(味はほんとに良いんだけど、胸糞すぎる)
とっとと現実に戻り、皺のなくなった満月の眉の間を揉む。
掛け布団に彼女を包んで抱き込み、首筋の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。
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