小楢(こなら)家 7
あれは、まだ三人が、スイコと出会ってない、穏やかな春のこと。
新芽が芽吹き、冬の厳しさを乗り越えた植物や動物が、春を祝福していた。
森にはまだ雪が残っているものの、毎年山菜が採れる季節になると、観光客も足を
運んで、山菜料理を一緒に楽しむ
だから必然的に、毎日山菜続きになるのが、春の集落。
しかし、仁はようやく迎えられた春を楽しむ余裕はなかった。
毎年春になると
「お花見だ!!」「三歳の天ぷらだ!!」
とはしゃぐ仁だったが、その春は仁にとって、『肝が冷える春』になった。
「ごめんなさい、こんな事、仁さんにしか頼めなくて・・・・・」
「いやいや、どうしたんだ?!」
数日前から妙に暗いつぼみの様子に、仁も原太も気づいていた。
そして、原太が種村の家へ呑みに行ったのを見計らい、つぼみは仁に相談した。
同棲を始めて二年、そうなってくると、『一つの可能性』が、仁の頭に浮かんだ。
「も、もしかして・・・・・『孫』か?!」
仁のその問いに、つぼみは小さく頷く。
しかし、彼女の顔から、嬉しさは感じられない。
一瞬舞い上がった仁だったが、つぼみのその顔を見て、また冷静になる。
三人は、よく『家族が増えた後の話』をしていた。
つぼみの子供が生まれたら、どんな名前がいいか 男だったら 女だったら
誕生日には何を送ろうか 親戚への報告はどんな形がいいか
いっそのこと、ペットも飼ってみようか どんな塾や習い事をさせようか
つぼみも、嬉々としてその話に加わっていた。
そんな彼女も、自分のお腹に宿った新たな命を、待ち望んでいた筈。
だが、あまりにも不釣り合いなその顔に、仁は首を傾げる。
「___何か問題があるのか? だから俺だけに・・・・・」
「__________私・・・・・私・・・・・
産みたくないの。」
「_______________は???」
つぼみが何を言ったのか、仁は理解できなかった。
だが、つぼみの顔は至って真剣。
___いや、真剣に『懇願する顔』だった。
つぼみはその表情のまま、仁にしがみつく。
その力は、女性とは思えないくらい強い力で、仁はますます混乱する。
その瞳は、飛び出す勢いで見開かれている。
つぼみは必死に、仁に自分の思いを打ち明けた。
「私・・・まだ『お母さん』にはなりたくない!!!
もう少し・・・・・もう少しだけでいいから・・・・・
『原太の彼女』でいたい!!!」
「つ、つぼみさん・・・・・」
仁は戸惑った。
つぼみは決して、仁を揶揄っているわけもなければ、演技をしているわけでもない。
その真剣な眼差しと話の内容が、釣り合っているようで釣り合っていない。
しかし、その目から本気で困っている事だけは伝わってくる。
つぼみは、恐れていた。
体の弱い自分から生まれる子供が、病弱を遺伝するから・・・ではない。
子供が産まれて、原太が自分に見向きもしなくなる事を。
そしてつぼみは、今の環境が変わって、また体調が崩れてばかりの毎日になるの
が、どうしても嫌だったのだ。
原太や仁にとって、風邪なんて引かない健康な毎日は、ほぼ当たり前。
しかし、つぼみにとっては、幼い頃からずっと望んでいたこと。
それが叶った時は、現実を疑いそうになった。
環境を変えるだけで、自分の体調が良くなった事が、信じられなかったのだ。
つぼみにとって、『今』こそが幸せ。『以上』も『以下』も望まない。
そんな彼女にとって、『転機』や『アクシデント』は、どうしても避けたい存在。
それが例え、おめでたい事であっても、つぼみにとってはアクシデント。
今の生活が、少しでも崩れてしまう事は、彼女にとって『身の破滅』と同義。
そして、子供が産まれて育児に専念すれば、『原太のパートナー』として、彼と愛
し合える時間が少なくなってしまう。
健康体な自分にさせてくれた原太を、つぼみは心の底から愛している、心の底から大切に思っている。
そんな純粋な思いは、彼女の心を歪ませてしまうくらい、いつの間にか重くなって
いた。
まるで、『6本入りの水入りペットボトルがパンパンに詰まった段ボール』のように、中身は純粋なのだが、重すぎて一人では抱えきれない。
つぼみにとって、『我が子の誕生』よりも、『原太の愛』のほうが重かった。
体調が悪くなっていたのは本当だが、その原因は妊娠だけではない。
自分の抑えきれない気持ちをどうにかしないと、刻々と時間は過ぎ、自分の体に宿った命は、すくすくと成長していく。
普通なら、それはとてもとても喜ばしいことの筈。
特に仁は、ずっと孫に憧れていた。
しかし、孫を産んでくれる筈のつぼみは、自らの子供を拒否していた。
(初めての事で、戸惑っているのか?)と思った仁。
だが、つぼみの表情を見るかぎり、彼女が『母親』になりたくない気持ちは本当。
しかし、その本心を聞いたところで、仁にはどうする事もできない。
仁は、とりあえずつぼみを宥めようとした。
「ゆっくり考えればいい」「原太とも相談して、家族で今後のことを考えよう」と・・・・・
ところが、つぼみは仁に、『書類』を差し出した。
それは、つぼみのお腹のなかにいる新しい新芽を
潰す
そんな、産婦人科からの『同意書』だった。
もうつぼみは、必要なものは全て用意していた。
そして、母親の名前を記入する欄には、彼女の名前と、判子が押されている。
唯一、空欄になっている場所は、『パートナー』のサイン。
それを見た仁は、息を呑んだ。つぼみが何を望んでいるのか、分かってしまった。
「お願い!!! 仁さん!!!
ここにサインして!!! 原太さんの代わりに!!!」
仁は、何も言えなかった。
怒りたい気持ちもあるが、つぼみの顔を見ていると、怒る気にもなれない。
仁にとっては、息子も大事だけど、息子を心の底から愛してくれるつぼみも大事。
つぼみは、原太に『女性』として、『妻』として愛されたい。
だから、母親になる事を恐れている。
しかし、仁にとっては、ずっと願っていた『孫の誕生』 簡単には頷けない。
そこで仁は、短時間で頭をフル回転させて、打開策を探した。
おかしな話ではあるが、仁はつぼみの思いも、蔑ろにはしたくなかった。
懇願するつぼみの表情が、「原太をお願いね」と言って、この世を去った『妻』と重ねているから。
幼い頃、原太におもちゃやお菓子をせがまれる事はよくあった。
だが、女性から懇願されるのは久しぶりだった仁。
息子のわがままなら簡単に突っぱねられた仁でも、異性からの懇願には弱かった。
それに、仁はつぼみの機嫌を損ねて、二人の仲が悪くなる事を恐れていた。
つぼみの口ぶりからして、原太はまだ、つぼみのお腹のなかに宿った命を知らない。
このまま産むことを、原太が反対するとは思えない。
原太も『父親』になる事を、楽しみにしていた。
しかし、肝心の母親が否定してしまっては、産後、トラブルになるかもしれない。
仁が彼女の懇願を拒否して、実家に帰る・・・なんて事になったら、原太もショックを受ける。
せっかくここまで順調に進んでいた『息子の将来』を、壊すわけにはいかない。
そう、現状の維持を求めているのは、つぼみだけではなかった。
「_______________
_______
_____っ
_____分かった。
ただし、条件がある。」
「何ですか? 私にできる事なら何でも・・・・・」
「_____やはり私にも孫が欲しい。
今から三年ほど月日が流れて、『二人目』が誕生しなかったら、子供を一人、施設
から迎えよう。
その頃までに、君は『原太の彼女』を満喫しなさい。」
「_______はい。ありがとうございます、ありがとうございます・・・・・」
つぼみは、嬉しそうに笑っていた。笑いながら、仁に何度も頭を下げ続ける。
仁はそんな彼女を、なるべく視界に入れないように息子の名前を書き、判を押す。
彼自身、自分がとんでもないことをしている事は重々承知していた。
しかし、自分の意思ではどうする事もできない『おかしな感情』に呑まれ、つぼみの言われるがままになってしまう。
名前を書いて、判を押したと同時に、仁には言いようのない恐ろしさに襲われる。
そんな彼とは対照的に、『開放感』を表情に表すつぼみ。
原太はというと、自分の彼女と父がそんな話をしているとは知らず、種村と仲良く
酒盛りを楽しんでいた。
もしその酒盛りを早めに切り上げて、二人が話し合っている現場に出くわしていたら、違った未来があったかもしれない。
それから数日後、「友達と旅行に行ってくる」という建前で、つぼみはホテルへ泊
まりながら『事』を済ませる。
仁はつぼみに言われた通り、口裏を合わせつつ、息子の様子を四六時中伺っていた。
幸か不幸か、二人以外にこの真実を知られる事はなかった。
そして、つぼみに宿った小さな命は、簡単に消されてしまう。
つぼみは仁に言われた通り、『彼女時代の延長』を楽しんだ。
この悍ましく、身勝手な真実を知っているのは、つぼみの懇願に負けた仁のみ。
原太の『彼女』としての自分でいたい気持ちに抗えなかったつぼみもつぼみだが、
彼女の願いを聞き入れてしまった仁も仁だ。
その真実を知る仁だからこそ、薄々気づいていた。
つぼみが自ら命をたった理由を。
仁も、今頃になって、ようやく『罪悪感』が付きまとうように。
原太やスイコと、一緒に幸せな生活を送っているうちに、二人の心はジワジワと追
い詰めていた。
もしスイコが、『本当の娘』だったら、心にわだかまりができる事もなかった。
もし仁がサインをしなければ、二人で罪悪感に震えることもなかった。
もし原太が、二人の行動に気づいていれば、何かできたかもしれない。
もしつぼみが、わがままを堪えていたら、誰も不幸にならなかったかもしれない。
でも、どんなに過去を嘆いたところで、摘み取った芽が元に戻ることはない。
そして、摘み取る許可を下した本人が、一番過去を責めている。
自らが犯した罪に耐えられず、今更誰にも相談できず、つぼみは『完全に逃げた』
それでも、仁だけは、時々『自分の過去』や『つぼみの本当の子供』に行き、手を
合わせていた。
つぼみと原太がウエディングドレスを探している最中、仁は『また』自責の年に襲われていた。
つぼみが楽しげに、ウエディングドレスを選んでいる光景を思い浮かべると、素直
に喜べなかった仁。
そんな時は決まって、仁は集落の深い深い森のなかへ消える。
そこは、自らの手で、『摘み取った命』を散骨した場所。
お墓は用意できなかった為、せめてつぼみに近い場所で眠れるように・・・と、仁なりの配慮。
『花』や『お菓子』をお供えしたかったが、それでは目立って、集落の誰かが気づ
いてしまう。
『集落のネットワーク』は恐ろしい、少しでも不審な行動をすれば、ほぼ全ての家々に秒で伝わる。
特に『悪い話』や『不穏な噂』に関しては、尾鰭(おひれ)が本体よりも大きくな
るケースが多い。
もしそうなったら、3人は集落に住めなくなってしまう。
幸か不幸か、二人の行為は誰にも知られる事なく、不穏な噂が生まれる事もなく、
文字通り『穏便』に済ませられた。
当時の二人は、それを『神様からの赦し』と思っていたのだが、時間が経つにつれ、この現状が『神様からの重罪』であることに気づいた。
(いっその事、自らの罪が明るみになってほしい・・・)
とすら思った時もあった仁。
しかし、自主する勇気も、息子に相談する勇気も湧かず。
過ぎていく時間の苦痛を、『酒』と『スイコ』で誤魔化していた。
つぼみも同じく、見て見ぬフリしかできなかった。
過去は全て消し去り、『今』と『未来』だけに目を向けようと必死だった。
しかし、そんな彼女の『目隠し』が崩れたのは、ショッピングモール。
スイコが放った、『自分の本心』
スイコはまだその時点で、母親であるつぼみを追い詰める気なんてなかった。
ただ、やっぱり不安になってしまったのだ。
叔父の机の中に残されていた、あの『同意書』を見てしまったら。
スイコの言葉の数々は、つぼみ自信を深くえぐり、自らを守る為につくった目隠し
は、徐々に壊れていく。
そして、どんなに意識をしないように、気を逸らそうとしても、ついスイコと重ね合わせてしまう。
自らで摘み取ってしまった、『本当の子供』を。
エコー写真でしか見なかったけれど、自分の体に命が宿っていた。
それをようやく自覚したつぼみだが、自覚したのはその命が消え去った後。
何もかもが遅い。それが余計につぼみを追い詰めていた。
事情を知らない原太や、生まれて来られなかった命からすれば、とんでもない話。
終始、つぼみも仁も、揃いも揃って身勝手であった。
自分のわがままで摘み取ったにも関わらず、その罪で今度は苦しんでいる。
原太も、潰えた命も、スイコも、誰も二人を責めていないのに。
二人にとって、これこそまさに『生き地獄』だった。
その結果、つぼみは『また』、誰にも相談せずに自らの命を絶った。
仁は、つぼみが首を括ってからというもの、何度も彼女を恨んでいる。
罪の重さに耐えられなくなったのは、仁も同情する。
だが、つぼみは仁を『置き去り』にして、原太を深く絶望させた。
仁は、結局一番悪かったのは誰なのか。
スイコを迎えてから、ずっと自問自答を繰り返していた。
いつも自分の背中に、『成長しないままの小さい魂』を背負いながら・・・
原太は葬式の後、種村の家へ呼び出された。
親友の情けない姿に、親友である種村は、黙っていられなかったのだ。
そして、家に来た原太を、嫌われる覚悟で説教していた。
親友として、原太の今後を心配しての、『最後の手段』
種村の怒声にも近い声は、家の外へ漏れるくらいの大声だった。
だが、集落では家と家との距離がだいぶ離れている為、誰にも知られなかった。
しかし、どれほど長い時間、種村が説教を続けても、原田は全く反応しない。
これには種村も、だんだん苛立ちを感じる。
そして、だんだん口調が荒くなっていき・・・・・
「また『新しい奥さん』を呼んで、今度こそ『本当の娘』と、改めて仲良く過ごせば
いいだろ!!!
いつまでもお前がつぼみさんの事を引きずっていると、仁さんも立ち直れないまま
なんだぞ!!!
お前、また父親に迷惑をかけるつもりか?!!
いい加減一人でどうにかしろよ!!!」
その言葉で、原太の理性を繋ぎ止めていた、『最後の鎖』が切れてしまう。
ずっと今まで、ギリギリで抑えられていた『獣』という名の『本心』
本心の赴くまま、原太は種村に飛びかかった。
そして、あろうことか、自分を呼び戻そうとしてくれた親友を、その手にかけた。
親友が事切れたのを確認した原太は、家にあった漫画や雑誌を一か所に集める。
そこに、火のついたロウソクを落とした。
何処にも向けられない怒りや悲しみを、原太は親友に向けることで、自分の心を守
ろうとした。
だが、結果的に感情をぶつけた先にあったのは、メラメラと燃え上がる親友の家と、生々しい音を発する『焼肉』
原太は、自分の心を守るため、親友を犠牲にしたのだ。
つぼみと同様、『取り返しのできない罪』を犯してしまった。
そして、気づけば自分の父親が、水路を挟んだ向こう側に佇んでいた。
父親の顔を見て、原太の発した言葉は、仁の背中をさらに重くした。
種村は、原太やつぼみを侮辱する気なんてなかった。
ただあの時は、嫌われてもいいから、原太を元に戻してあげたかった。
それが、今までお世話になってきた仁への恩返しにもなる、そう思ったから。
しかし、正気ではない原太に、どんな言葉をかけられても曲がってしまう。
『新しい嫁』も、『新しい子供』も、原太はいらなかった。
つぼみが必要だった。つぼみではないとダメだった。
スイコも必要だった、スイコでないとダメだった。
原太にとって、つぼみの代わりも、スイコの代わりも、この世にいない。
つぼみだから、スイコだから、幸せな生活は成り立った。
それを、『二人の代わりはある』と、原太の脳内が親友の言葉を捻じ曲げて理解し
てしまった
放たれた獣(原太)が発した、最後の言葉。
それは、父親に対する『感謝の言葉』でもなければ、『恨み節』でもない。
心の奥底から発せられる、原太の静かな悲鳴。
とても虚しく、小さかったが、原太にははっきり聞こえた。
「『つぼみの旦那』じゃないと意味がないんだよ。」
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