40話 最後の握手会
いよいよ、笙胡の最後の握手会の日が来た。
「やっほ~、麻衣さん元気? 麻衣さんの美貌を拝めるのももう最後って思うと寂しいなぁ……ううぅ……もう泣けてきちゃうよぉ」
「……おはようございます、笙胡さん。朝から元気そうでなによりです」
あさイチ私の顔を見るなり泣き真似をしてきた笙胡に、私は拍子抜けしたような感覚を覚えた。
今日が笙胡の最後の握手会、そしてWISHとしての活動の最後の日だ。
3月最終週の日曜日ともなれば、長かった冬が過ぎてもう春の陽気を感じさせる。
「あはは、昨日までは緊張したり、色々考えたりもしてたんだけどね、今日になったらもう全部が楽しくなってきちゃった」
私の表情を見て私が不思議に思ったのが伝わったのだろう。笙胡はそう自分の気持ちを伝えてくれた。
「そうですか……。まあ楽しそうで何よりです。それと無事に大学の方も卒業されたようで、おめでとうございます」
1週間ほど前に大学の卒業式が終わったことも笙胡から連絡を受けていた。
「そう! でもさ、1科目単位落とした時は焦ったよ! WISHから卒業するのに大学の単位が足りなくて留年した……なんてなったら、お笑い草もいいところだよね!」
気掛かりだった後期の試験も一つ単位を落としたそうだが、その他の科目は無事に合格し卒業出来たということだ。これで4月からの進路も予定通りというわけだ。
「まあその時はもう1年WISHで活動すれば良かったんじゃないですか? 『大学留年で卒業撤回!』なんてなればかなり話題になったんじゃないですか?」
半分冗談、半分本音のような私の言葉に笙胡は笑いながら首を振った。
「いやぁ、それは無理だね。もうさ、人気とか立ち位置とかキャラクターとか色々考えるのがしんどくなっちゃったんだよね」
「そうですね……ともかく無事に今日を迎えられて良かったです」
今までは自分の立場や人気について一言弱音を吐いたことのない笙胡だったが、初めて本音を聞いたような気がする。その言葉にどこか私はホッとしていた。
今日で笙胡のアイドル活動も最後だと思うと、私の方が先に泣きそうになっていた。
もちろんこれで今生の別れというわけではない。
卒業してからもメンバー同士仲良くしているケースは多いし、芸能活動を続けている子は番組などで再会するケースもある。事務所に顔を出してくれる子もいるし、何なら個人的にマネージャーだった私に連絡をくれる子もいる。
だけどどうしたって疎遠にはなってゆく。仕事で毎日会っている時と同じ関係ではいられないし、マネージャーとアイドルという関係なのだからそれがお互いにとって自然なことだとも思う。
だけど時々ふとそうした子たちのことを思い出すと懐かしさと共に辛くもなる。
少しの期間だけ濃密な関係を築いて、その期間が過ぎたらほとんど疎遠になってしまう……アイドルのマネージャーなんて嫌な仕事だな、って思うのはそんな時だ。
握手会は通常通り始まった。
会場スタッフに何人か欠員が出たということで、急遽であるが私も握手会のスタッフとして握手券を受け取る係をやることになった。
どうせなら……と笙胡のレーンのスタッフを志願し受け入れられた。
急遽黄色いスタッフジャンパーを羽織り、レーンに立って握手券を受け取る係になった私を見て、笙胡は爆笑していた。
あまりに順調で穏やかな最後のファンとの触れ合い、という感じだった。
最近になって笙胡のファンになったという人も意外と多かったが、ほとんどは以前からの笙胡のファンだ。
彼らは皆一様に笙胡に向かってただただ感謝の言葉を述べていた。
「WISHに入ってくれてありがとう。笙胡の活躍を見ることが出来て嬉しかった、笙胡の姿が励みになっていた」
ほとんどのファンがそのことばかりを言っていた。別に彼ら同士が示し合わせたわけではないだろうが、彼らの言葉も表情もほとんど同じもののように見えた。
笙胡がWISHの卒業に伴い芸能界からも引退するということは既に発表されていた。もう会えないことが確定している人間に対して何かを伝えようとする時、人はきっとただ感謝を伝えるしかないのだろうと思った。
それに返す笙胡も感謝ばかりを告げていた。
「ファンの人が居てくれたから、なぜか皆が自分を見つけてくれたから『WISHの池田笙胡』という人間は成立していた。ファンの人たちがいたから私は活動出来ていただけ。ありがとう」
笙胡の方も言葉は違えど、ほとんどはこんな内容のことばかりを言っていた。
きっと笙胡の中でも複雑な気持ちはあったはずだ。
WISHの中でいつまでもアンダーメンバーだったこと、貢献に対して序列が上がっていかないこと……当然そんな気持ちもあっただろうし、そのことでファンに対して申し訳ない気持ちもあっただろう。
だけどそういった気持ちは少しも漏らさなかった。後悔の気持ちもあれど、ファンに伝えるべき気持ちを突き詰めていったら感謝しかなくなった……ということなのだろう。
笙胡の穏やかな表情を見ていると私はそう思った。
休憩時間にはメンバーたちとも別れを惜しんでいるようだった。
特に長年アンダーとして活動を共にしたメンバーたち、笙胡を慕う後輩たちの中には握手会の途中だというのに涙を流しているメンバーもいた。
そんな時でも笙胡は慰め役に回っていた。
卒業してゆく本人なのだから一番感情が噴出してきそうなものだが、本人よりも周りの方が感情的になっている……というのは今回の笙胡に限らず比較的多いケースのような気がする。
やがて休憩が終わり握手会が再開した。
「あ……」
先に気付いたのは私の方だった。
「『マミさん』じゃなかった……麻衣さんでしたよね?」
「はい。……なみっぴさん、今日は来てくれてありがとうございます。笙胡さんも喜ぶと思います」
「ええ、また後で」
なみっぴさんだった。
私が笙胡オタのオフ会に潜入した時に知り合い、夏のライブハウスツアーも偶然観に来てくれた女性オタだ。
私は数日前に彼女に連絡をしてこの後のことも打ち合わせていた。少し含みのある表情をしたのはそのためだ。まさか私がこうして握手券を受け取っているとは思わなかっただろうが。
午後になるとなみっぴさんの他にも古参の笙胡オタの人たちが多く並んでいた。
他のメンバーの卒業のケースでは、握手の瞬間にはすでの感情のダムが決壊し号泣しながら握手をして結局何を言っているのか分からない……というオタクの方々が少なからずいた。
だが笙胡オタの人々は皆このシーンでも、穏やかに、だけど真剣に笙胡に対して今までの感謝を述べていた。
やはりオタクは推しに似る……ということを思わざるを得なかった。
笙胡も最後まで一人一人の目を見て、一言一句を聞き逃さぬように真剣に対応していた。
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