10話 笙胡の決意
「ママね、課長なんだって……」
慌ただしく出ていったお母さんに少し飲まれていると、間を埋めるように笙胡が言った。
「……あ、そうなんですね! それはスゴいですね!」
男女平等が叫ばれる昨今において私の相槌が正しかったのかは確信が持てない。
それに一口に課長と言ったってピンキリだろう。会社の規模も変われば課長の果たす役割も全く違っているはずだ。
「そうなんだよね、ママすごいんだよね……」
だけど続く笙胡の声はとても実感のこもったものだった。私の相槌が結果的に間違っていなかったということだろうか。
「あのね……私ねパパの顔を知らないんだよ」
笙胡は普段とてもハキハキとしているのだが、今日はとてもウエットな喋り方をする。体調不良の影響なのか、ここが彼女の自宅であるという安心感からなのか……恐らくはそのどちらともだろう。
「お父さんの顔を知らないんですか?」
私の反応は間抜けなオウム返しそのものだった。笙胡の言葉の意味がまだ理解出来ていなかったのだ。
「そう。まだ私が物心つく前に離婚したそうでね……。それからママは女手一つで私をここまで育ててくれたんだよ」
「あ……」
ようやく私は理解した。そして恥じた。
先ほどまでお母さんに対して「娘の活動に理解も関心も薄い母親」というレッテルを貼ってしまっていたことに気付いたからだ。
笙胡の話を更に詳しく聞いてようやく全貌が掴めてきた。
お母さんは20代前半の頃に結婚し笙胡を産んだがほどなくして離婚。これまで女手一つで笙胡を育て上げてきたということだ。ただお母さんの実家は割と近くにあり、小さい頃は祖父母が笙胡の面倒を見てくれることも多かったそうだ。
そしてお母さんの勤める会社は私も名前を聞いたことのある大手企業だった。
仕事で忙しく娘と密にコミュニケーションを取る時間もあまりないのだろうし、ましてやWISHの情報など詳しく調べるような時間はないだろう。
今日だって笙胡が体調不良という連絡を受けて、途中だった仕事を投げ打って帰宅してきたのかもしれない。その上でまた会社に戻っていったのだろう。
初対面の私にそうした苦労も見せず、グチや恨み言も一切こぼさず、ごくごく自然な形で接してくれた。それだけでも彼女の優秀さ、精神力が伝わって来るように思える。本当に頭が下がる。
「あのね、ママはね、『片親だから』って不自由な気持ちをさせないように、昔から何でも私にさせてくれたんだよ。 WISHに入りたいって言ったときも一切反対しなかったし、大学までいかせてくれてるんだよ」
笙胡は子供の頃から歌やダンスを習っていた。そのことが彼女の今のパフォーマンスを支えていることは間違いない。話を聞いてみると、その他にも笙胡が興味を示したことは何でもやらせてくれたそうだ。そして笙胡は今大学に通っている。
そうした金銭面での負担も全てお母さんが一手に引き受けてきたということだ。
私も今では社会人となり仕事をしているが、本当に大変だ。
毎日体力と精神をすべて持っていかれているような感覚だ。この上でさらに子育てをするなど今の私には想像も出来ないことだ。話を聞けば聞くほど笙胡の母親は同じ人間とは思えないくらい凄い人のように思えてくる。
「あのね、麻衣さん。せっかくこうやって家まで来てくれたんだし、いい機会だと思うから伝えておくね」
「え……何ですか?」
「私のWISHでの活動は多分大学で終わりだと思う。……っていうか、就活が本格化する前に何かきっかけがあればそこで卒業した方が良いのかもしれないと思ってるんだ」
「そう、ですか……」
具体的にいつ卒業するかは全然未定の話だし、笙胡の場合は何かトラブルを起こして卒業しなければならないようなケースではない。
むしろ将来のことをしっかり見据えた上での最も前向きとも言える卒業の例だろう。
だけどそれでも私はショックだった。
そもそもアイドルの寿命には限りがある。女性アイドルの場合、20代後半になって現役でいられるメンバーはほんの一握りだろう。いつかは誰もが卒業していく。
今までもWISHを卒業していったメンバーは何人もいる。世代交代をしていくことが大人数グループの宿命でもある。そんなことは百も承知していた。
だけど私のよく知るメンバー……それも自分が担当している最も身近なメンバーが近いうちに卒業することを考えているということをはっきりと告げられるのはとても寂しかった。出来るならいつまでも一緒にアイドルとして活動していって欲しい。それが本音だった。
「わかりました。笙胡さんの考えていることはとてもよく分かるつもりです。今日こうしてお家に来られて理解が深まりました。笙胡さんの卒業はとても残念ですけど、私が簡単に引き止められるようなものでもないことは充分伝わりました」
だけど、笙胡の気持ちも痛いほど分かるような気がした。
アイドルだってもちろん立派な職業だが不安定なものだ。WISHという国民的アイドルといえど内実はそうだ。
笙胡は母親に対する恩返しと親孝行の意味もあり、安定した職業に就くことを選ぶということだろう。どんなに忙しくとも彼女が学業を決して疎かにしなかったのはこうした思いを持っていたからに違いない。
その意志を尊重しないわけにはいかない。
「うん。ごめんね麻衣さん。私を担当し始めてからまだそんなに経ってないのに卒業の話なんかしちゃって。……でも卒業までは本当に全力で頑張るからね!」
「大丈夫ですよ。笙胡さんがいつも全力なのは皆分かっていますから。むしろ頑張りすぎないように注意して下さいね」
「は~い、そうだね。頑張り過ぎて体調崩したら余計に迷惑かけちゃうね」
ようやく笙胡の笑顔が見れた。
どんなものもいつか終わりが来る。
『終わりよければ全て良し』なんていうのは都合のいい
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