9話 池田家
「あら、どうも~! 娘がいつもお世話になっております」
ドアを開けて出てきたのは予想通り笙胡の母親だった。
「こちらこそお世話になっております! 『コスモフラワーエンターテインメント』の小田嶋と申します! ……実は今日笙胡さんが体調不良で早退されてですね、忘れ物をされたので私が届けに来たのですが……」
まさか笙胡本人でなく彼女のお母さんが出てくるとは思っておらず、少しだけ戸惑った。
こうして少し話しただけでもお母さんの人柄が伝わってくる。明るくてエネルギッシュなところは笙胡ととても似ているように思えた。
「笙胡から事情は伺っていますよ。どうぞ上がって下さい」
お母さんはドアを大きく開き、私に家の中に入るように促した。
「あ、いえいえ! 忘れ物をお渡しするだけですので……」
まさか家の中に招き入れられるとは思っておらず、私は大きく手を振って固辞しようとした。
「いえいえ、本人にきちんとお礼も言わせないといけませんし、せっかくここまで来て頂いたのですから少し上がっていかれませんか? それともこの後もお仕事が残っていらっしゃるとか?」
「あ、いえ……」
お母さんの口調は穏やかなものだったが、有無を言わせないような雰囲気があった。
まあお母さんの気持ちも分かるような気もする。
年頃の娘を預けている会社の人間がどういうものか……まして、一番時間を共にしているマネージャーがどういう人間かと気になるのは当然だろう。特に私のような娘とほとんど年齢も変わらないような人間が信頼に値するのか? と思うのは親として当たり前だろう。
「すみません、ではお言葉に甘えて少しだけお邪魔いたします」
覚悟を決めて私は池田家の敷居を跨いだのであった。
「笙胡~! 小田嶋さんが荷物届けに来て下さったわよ~」
玄関の短い廊下を抜けるとリビングが開けていた。お母さんはリビングに面した一室のドアの前でそう声を上げた。恐らくそこが笙胡の部屋なのだろう。
「笙胡~?」
反応が無いのでお母さんは部屋のドアを開けたが、依然として笙胡の声は聞こえてこなかった。
「ごめんなさい、あの子ったら寝ちゃってます」
「あ、いえいえ、お母さま! 笙胡さんは体調不良で早退されたので起こさずにそのまま寝かせて上げて下さい!」
お母さんの済まなそうな顔に私は慌てて反応する。
仕事後わざわざ訪ねてきて、アイドルの貴重な休みを妨害するような人間ではマネージャー失格だろう。
「そうですか? じゃあお茶でも淹れますね」
「あ、いえ、お構いなく~……」
反射的にそう言葉を返していたが、すでにリビングのテーブルに座らされてしまっている以上、お茶だけを拒否するのはどう考えても不自然だった。
「大丈夫ですか? あの子はグループの中で上手くやれていますか?」
お茶を淹れるとお母さんの態度が少しだけ柔らかいものになった。
「あ、はい、もちろんです! 笙胡さんは歌もダンスもピカイチですし、後輩のメンバーからもとても慕われているんですよ!」
お母さんの問いかけに私は誇らし気に笙胡のことを語っていた。
「そうなんですか? それなら良かったです。じゃあウチの子は人気も結構ある方なんですか?」
「あ、いえ……」
私が返答に困ったのは笙胡の人気云々よりもお母さんがそんなことも知らないのかと、少し驚いたからだ。母親と笙胡本人がそんなに密にコミュニケーションを取れていないのかもしれないし、娘の活動にあまり興味がないのかもしれない。
アイドルの家庭も当然様々だ。
WISHは良家のお嬢様といった雰囲気の子が多くそれがグループカラーになっているのだが、実際に接してみると雰囲気だけでなく本当に立派な家の娘さんばかりなことに驚く。
家族ぐるみで娘を応援しようという家がとても多いのだが、当然例外もある。
大センター黒木希の家もそうだった。母親が芸能界という世界について不信感を抱いており、それがきっかけとして希は母親と疎遠になりかけていたのだった。
たまたま私がきっかけとなり2人の仲は修復され、希はより万全の状態でアイドル活動を全うすることが出来るようになったのは喜ばしいことだ。
私としてはぜひとも家族ぐるみで娘さんのアイドル活動を応援してあげて欲しいと思う。家族にしか踏み込めない領域というものが間違いなく存在するし、家族にしか相談できない類の悩みもきっとあるからだ。
だけどもちろんそれを強要することは出来ない。家庭にはそれぞれの事情がある。何よりもそれを尊重しなければならない。
「そっかぁ、ウチの子人気はイマイチなんですね……まあでもあの子には気の済むまでアイドルをやって欲しいですけどね!」
私の口籠った反応からお母さんは娘の人気を判断したようだ。お母さんも聡明な方なのだろう。
「え、っていうか小田嶋さんは『コスモフラワーエンターテインメント』の社員さんってことですよね?」
「あ、はい。今はこうしてマネージャー業務を中心に働かせてもらっていますが……」
急に顔を近付けられてきて私は少し戸惑った。
「え、小田嶋さんめちゃくちゃ美人じゃない? 何ならウチの娘よりもアイドルって感じがするんですけど」
「いやいやいや、そんな、全然そんなことないです! 笙胡さんのステージ上での輝きに比べたら私なんか全然ですから!」
いつの間にか手まで握られていたことに驚き、やんわりとその手を離す。
聡明でありながらこうして距離感を詰めるのも上手い人のようだ。
そのときガチャリとドアが開いた。
「……もー、ママはしゃぎすぎだよ。麻衣さん困ってるじゃん……」
眠たげな目をこすりながら笙胡がリビングに入ってきた。
「ごめんなさい、麻衣さん。私寝ちゃってた」
「いえ、それは全然良いんですけど。……むしろ起きてきて大丈夫なんですか?」
ボサボサの髪にダボっとしたスウェット。
アイドルとしての笙胡しか見たことのない私にとってはむしろその姿が新鮮で愛おしく映った。
「笙胡、小田嶋さんわざわざあなたの忘れ物を届けて下さったんだからね! しっかりお礼言っておくのよ!」
「わかってるって……」
「あの、お母さま。笙胡さんはいつもとても礼儀正しくてマネージャーの私にも親切に接して下さいますよ……」
一応私の方からもフォローをしておいた。
プルルルル。
その時スマホが鳴った。私のスマホが鳴ったのかと思うよりも早く、お母さんが自分のスマホを耳に当てていた。
「はい、池田です」
お母さんは軽くこちらに申し訳ないという意味の会釈をしながら廊下に出て行った。
笙胡と2人きりは今まで何度も経験してきたが、ここが彼女の家だという事実が少し奇異に思えた。
「笙胡さん、明日は大丈夫そうですか?」
「うん、風邪薬飲んでちょっと寝たら大分回復したから多分大丈夫だと思う。ごめんなさい、迷惑かけてしまって」
「良いんですよ、全然! 迷惑かけたなんて思わないで下さい!」
やはりまだ笙胡も体調が万全ではないようだ。言葉にも力がなくふと弱気を覗かせる。それに対して私は意識的に明るく返すことで彼女を元気付けようとした。
そこで再びリビングのドアがガチャリと開きお母さんが戻ってきた。
「ごめん、笙胡。私今からちょっと会社に戻らなきゃいけなくなっちゃった。小田嶋さん、ゆっくりしていってくださいね!」
そう告げるとバタバタと慌ただしく支度を済ませ、お母さんは家を出て行った。
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