8話 早退
しばしの短い休憩を挟んで握手会は再開された。
最初は調子良くファンと握手と言葉を交わしていた
「ごめんね、麻衣さん……」
「気にしないで下さい! 体調不良なんて誰でもなることですから。それに笙胡さんはずっと忙しかったんですよ。大学の勉強も重なって大変でしたから。……気にせず少し休んでください」
急に倒れたというわけではないのだが、レーンに立っているのも辛そうだったので握手は中止になった。彼女自身はイスに座ってでも握手を続けると主張したが、私は中止にすることを進言した。
いつも元気な彼女にとってその姿はむしろマイナスイメージになるし、来たお客さんに気を遣わせてしまうだろうと思ったのだ。幸か不孝か人気下位の彼女の握手レーンに並んでいる残りのお客さんは比較的少なかったというのも中止に至った理由である。
「大丈夫ですか? 1人で帰れます?」
私服に着替え帰宅の準備を済ませ現れた笙胡に私はそう声をかけた。
最初は握手を続けるとゴネていた笙胡だったが、中止が決まるとすぐに帰宅の準備に入った。この辺りの切り替えの早さは彼女の元来の頭の良さを表しているように思えた。
「うん。大丈夫だよ。……じゃあ麻衣さん、また連絡ください」
呼んであったタクシーに乗り込みながら笙胡は言った。
体調不良? タクシー? もしかして同乗して彼女の家まで送り届けなければいけない?
……私は
体調不良は誰にでもあることだが、あの時の彼女はWISHの大エースでありながらとても脆くか弱い存在に思えたものだ。結果的にはあれがきっかけで彼女とも親密になれたし、崩れかけていた彼女の精神バランスを立て直すことが出来たと思う。
しかし笙胡は希の時とは違い、辛そうではあるものの特段大きな変化も見せずタクシーに乗り込み帰宅していった。
握手会場には何かあった時のために看護師の方も待機しているので診てもらったのだが、疲労から来る風邪だろう……という診察だった。
(こんな所までも、あまりに普通というか……)
私はそんなことを思ってしまった。どうせならもっと大迷惑を掛けるくらいの事態になってしまえば彼女に対する注目は嫌でも集まるし、何か浮上のきっかけになるのではないかとすら思えた。こんな時でも彼女はあまりに普通なのだ。
(って……アレは?)
楽屋で笙胡が使っていたスペースを確認してみると、彼女が荷物を一つ忘れていったのを見つけた。布製のトートバッグで中には何冊かの本とノートが入っていた。大学で使うものだろう。
『笙胡さん! これ楽屋に残っていたのですが、笙胡さんの忘れ物ではないですか?』
私は急いで笙胡にメールを送った。
今日が日曜日ということは明日は月曜日。明日も彼女は大学に行き授業を受けるはずだ。握手会場にまで持ってきて勉強していたということは、当然大事なものなのだろう。
いつもはメールの返信も早いのだが今日はすぐには返って来なかった。タクシーの中で寝てしまっているのだろうか?
『ヤバい、私のです! 明日のゼミで使うんです! どうしましょうか? もう家に着いちゃいました……』
返信が来たのはそれから40分ほど経ってからだった。彼女が即気付いたならばタクシーをUターンしてもらうことも考えたが、もう家に着いたとのことだ。体調不良で帰宅した彼女を再度ここまで呼びつけるのは流石に酷だ。
『じゃあ私が直接持っていっていきますよ。まだ握手会が続いているので私もすぐに出られるわけではないですが、それでも大丈夫ですか?』
私はそう返信した。
実は彼女の家と私の家とがかなり近いことは以前から知っていたのだ。
担当している他のメンバーのことも放っておくわけにもいかないが、握手会は大体あと3時間くらいで終わる。今は午後2時過ぎだから5時過ぎには目途がつくはずだ。普段ならその後も会場に残って色々と雑務をこなすのが通例だが、それは他のスタッフに任せても問題ないだろう。
私は社長にその旨の許可を取ることにした。
笙胡の方も私に気を遣って自分が取りに戻ると言ってきたが、体調不良で早退したアイドルにそんな無理をさせるような運営ではダメダメに過ぎる。流石に私が届けると押し切った。
社長も私の申し出を許してくれて、通常よりも早く会場を出られるように仕事を他のスタッフに割り振ってくれた。
(……笙胡さん、大丈夫かな?)
結局私が会場を出られたのは午後6時近くになってからだ。
5月に入りまた日が長くなったようだ。電車内から見える港湾の景色に夕陽が眩しい。
笙胡はタクシーを呼んで帰宅したがそれは緊急事態だったからで、もちろん私のようなマネージャー風情が特に理由もなくタクシーを使えるはずもない。当然電車での移動だ。
WISHの握手会はかなりの人数が集まるため(何万人といった規模になることもある)、握手会場が『東京』と銘打たれていても都心中心部で行われることはほとんどない。都心ではそこまで大規模な会場を用意するのが難しいのだ。大抵はベイエリアと呼ばれる東京湾に面した大きなホールを貸し切って行われることがほとんどだ。
だから移動には少し時間がかかるが、時々こうして都心を離れ海沿いの景色が見られるのは、私にとっては大事な気分転換になっていた。
(ここか……)
立派なマンションの一室だった。
私は今一度メールで送られてきた住所と、その部屋の表札に『池田』の文字があることを確認してからインターホンを押した。
「はい」
インターホン越しに聞こえてきたのは笙胡の声ではなく、もう少し年齢を経た女性の声だった。
「あ、お世話になっております。コスモフラワーエンターテインメントの小田嶋と申します」
「はい、今開けますね~、少々お待ちください」
私が名乗ると女性は警戒心を解いたように声のトーンを上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます