4話 二足の草鞋
「笙胡さん、何読んでるんですか?」
とあるウェブCMの撮影の合間だった。今回は選抜・アンダーの垣根なく10人近くのメンバーが集まっていた。
「これ? 大学の課題の本なんだよね? でも何書いてあるのか全然チンプンカンプンでさぁ。麻衣さん代わりにレポート書いておいてよ」
「いや、私に言われてもさっぱりですよ」
「え~、何でよ? 麻衣さんつい1年ちょい前まで大学生だったわけでしょ?」
「いや、健全な大学生というのは単位だけ取ったらもう内容についてはほとんど覚えていないと思いますよ? そもそも私は全然勉強してこなかった分野ですし」
彼女の読んでいるのはどうやら倫理学の本のようだが、私にはまったく縁のなかった分野だ。
彼女は国民的アイドルWISHのメンバーでもあったが、同時に二十歳の大学生でもあった。
平日の多くは大学に通い、それからアイドルの仕事をこなすという日々だった。仕事の現場にもいつも課題を持ち込んでは合間の時間に取り組んでいたし、こうして関連する本を読んでいることも多かった。
アイドル、芸能界の仕事というのはこうして長時間待つことも多い。時間を無駄にせず有効に使おうという姿勢が彼女からはいつも感じられた。
「笙胡さん、少し寝たらどうですか? まだ撮影再開までは時間があると思いますし、私が起こしますよ?」
例の難しそうな本を広げているうちに笙胡は、椅子に座りながらゆらゆらと舟をこぎ始めていた。昨日も夜遅くまでリハーサルをしていたから疲れていないわけがない。
「……え、いや全然眠くないよ? 麻衣さん何言ってんの?」
明らかに白目をむいて魂が飛び出ていたのだが、私の声に正気を取り戻したようで彼女は課題の本に再び目を落とした。
WISHには大学に通いながら活動を行っているメンバーが他にも何人かいた。だけど彼女ほどきちんと勉学にも向き合っているメンバーを私は知らなかった。
「……笙胡さんは何でそんなに毎日頑張れるんですか?」
思わずそんな問いが私の口から洩れていた。
私も大学生だったからその勉強の大変さは理解出来る。彼女が通っているのは東京の著名な大学で、「有名なグループのアイドルだから単位をオマケしてあげる」というような甘い世界ではないはずだ。
笙胡はショボついた目を本から上げて答えてくれた。
「え~、別に普通じゃない? ……まあ、私はWISHの中でも人気があるわけじゃないじゃん? ってことはWISHを卒業したら芸能界でお仕事なんてあるはずないでしょ? ってか今も芸能界にいるなんて実感は全然ないけどさ。ま、とにかく私はちゃんと自分で生きていくために勉強もしなくちゃいけないのですよ。ええ」
少しおどけた表情で答えてくれた。
もちろん大学に通っているのが偉いというわけではない。大学なんてのは大人になって時間が出来てから通うことも可能なわけで、むしろ今しか行えないアイドル活動に全精力を注ぐべきだ! という考え方も出来るだろう。
もちろんそれも正論だと思う。
でもこうした忙しい毎日を送る彼女をそばで見ていると、応援したいという気持ちがどんどん強くなってゆくのだった。
いや、応援したいという言葉では適切ではないように思える。自分が同じ年頃の時、それも転生前の松島寛太として生きていた時に彼女と同じことが出来たかというと絶対ムリだった。
私より4つ年下だけれど、彼女に対しては尊敬という言葉の方がしっくりくる。
彼女はいつの間にか机に突っ伏して寝ていた。やはり相当疲れていたのだろう。
近くの椅子の上にあったひざ掛け用の毛布を彼女の背中にそっと掛けてあげる。制服の衣装のままではエアコンが肌寒いだろう。
(報われて欲しいな……)
どうなることが彼女本人にとって報われることなのか、私にはまだ分からなかったけれど、とにかくそう思った。彼女はとても頑張っているのだ。
「あ~、麻衣さん頭ポンポンってした!」
突然別のところから声が上がった。
「あ、舞奈。お疲れ様」
別室での撮影に順番に出ていっているので、楽屋に彼女がいるとは思っていなかった。
「お疲れ様……じゃないですよ! 今、笙胡さんの頭ポンポンしてましたよね? まったく麻衣さんはどんだけ思わせぶりな態度を取れば気が済むんですか!?」
「わかった、わかった。起こしちゃ悪いから、一旦廊下に出ようか?」
なぜか舞奈は私のことを百合の気があると勘違いして、ことあるごとに色々と絡んでくるのだが、そんな態度も含めてまあ彼女は可愛い。
つい先日まで私がマネージャーとして担当していたのだが、最近では彼女にもWISHを背負っていく覚悟や自覚が出てきたのか人気も上昇中だ。
廊下に出て舞奈の相手をしていても、私は笙胡のことをぼんやりと考えていた。
特に今まで担当した
今までは希や舞奈が特別な人間だと思っていた。WISHという国民的アイドルグループのトップに出てくるような人間は特別な努力をしているのだと思い込んでいた。
もちろん希も舞奈も頑張り屋さんだ。表でも裏でも努力を重ねている。
だけどそれと同じくらい笙胡だって努力をしている。いや、大学での勉強も含めたら笙胡の方が2人よりも努力しているのではないかと思えた。
それなのに、この人気の差は何に由来するのだろう? 世の中というのはどうしたって理不尽なものだ。
廊下に出て舞奈の相手をしていると、撮影スタッフの方が楽屋にやってきた。
「次、池田笙胡さんの撮影なのでスタンバイお願いしたいのですが……」
「わかりました。呼んできますね!」
私はまだ寝ている彼女を起こすために急いで楽屋に入ったのだが、笙胡はすでに目を覚まし肩をグルグルと回して準備オッケーという様子を見せていた。
まあ、別に今回の撮影はダンスがあるわけではないので、入念なストレッチは必要ないのだが。
「は~い、池田笙胡です。よろしくお願いします!」
私が入ってきた時点でその意図を理解したのだろう。彼女は歩きながら撮影スタッフさんに元気な声で挨拶していた。
仲間内でいる時は可愛くて面白いのに、外仕事になると急に内気を発動してポテンシャルが発揮できないメンバーも時々いる。
でも笙胡の場合はそうではないだろう。
こうしてオンのスイッチを入れる早さも立派なプロの証だ。
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