26
「生涯の友人は、『抑うつ』と『自殺願望』だけだった。彼らとだけは、対等に会話することができた」
「はあ」
「人生なんて、つまらないショーみたいなものだ。観客のいないサーカスで、ピエロは踊ると思うか?」
「俺だったら、舞台のど真ん中でケラケラ笑いながら糞してやります」
さっそく酔いの回ってきた井ノ道は、虚ろな目でアホみたいな返答をした。要領を得ない無駄話が始まったのだ。ホームレスは酒臭い息をハアハア吐きながら続ける。
「現代人は皆、等しく金の奴隷だ。本来自然に分配されるべきはずの幸福が、金によって著しく停滞している。昔からパイが大嫌いなんだ。パイの原料を生で食った方が、よほど旨い」
「ええ、よく分かります」
ホームレスの顔が、みるみるうちに、夜空を舞う火の粉よりも赤くなってゆく。
「金のなる木なんて自然界に存在しないんだよ。わかるか? 鬱に隷属するニヒリスト野郎どもめ」
「存在しますよ。カネノナルキ。クラッスラ・ポルツラケアの俗称です。俺の友人でした」
ホームレスはすっかり意気消沈した様子で、黙りこくってしまった。
次は、井ノ道の番だった。
「ここは、どこですか?」
「地獄だと言って欲しいのか? 全裸オプティミストめ。舌を抜かれるのは死んでからでも遅くはないぞ」
「いえ、ここの住所を問うています」
「千葉県、東京湾に架かる橋の下……」
千葉だって? ここが、例の『神道展』の開催地と近い場所だとすれば、川越の事務所まで、車を走らせておおよそ一時間半といったところか。
「携帯電話はお持ちですか?」
とりあえず空木に連絡を入れたい。五百万円の行方が、どうしても気になるのだ。
「持ってない。あいにく連絡する相手がいないんでね。公衆電話が、すぐそこにある」
とつぜん猛烈な尿意に襲われた井ノ道は、手を擦り合わせながら、体をモジモジさせた。
「一文無しか、坊や」
「はい。このままでは、ションベンを流すための水道代すら払えません」
「もし小便税と大便税を設けたら、日本はどうなると思う?」
「はい?」
「国民全員が膀胱をパンパンに膨れ上がらせて、糞臭い吐息が街中を飛び交う。我慢の限界がおとずれて、外出先で脱糞、失禁する人間が多発する。面白いだろう? 国民全員が何食わぬ顔で、腹の中にくっさい憂鬱を溜めこんでいるんだ」
「ええと、つまり……」
「お前さんは、悪くない」
慈愛に満ちた声色だった。自分とよく似ている。井ノ道は目の前の人物に対して、ムクムクと親近感が湧くのを感じた。
「パイロットになるのが夢だった。航空学校へ通って、死ぬ気で教本を熟読した。徹夜でな。パイロットになるための最終試験を受けた。結果はすべて不合格だった。どうしてか? 試験会場へ向かう途中、不眠の呪いにかかって道端でぶっ倒れた。もちろん起こしてくれる友人は一人もいない。会場へ着いた頃には、試験を終えた人間が束になり、涼しげな顔でゾロゾロ飲み屋へ向かっていた。もちろん一緒に飲み屋へ行く友人は、一人もいなかった」
ホームレスは、ぶつぶつと独り言を呟きながら、住居の中を漁り始めた。ジャリと何か硬いものを掴むと、ソロソロ井ノ道に歩み寄り、そうっと両手を開く。カサカサした手のひらには、百円玉が一枚ぽつんと乗っていた。
「公衆電話は道を進んだ先にある。挫折するんじゃねえぞ」
「ありがとうございます」
夜の静寂に包まれた路地の端っこで、存在を主張するかのようにやけに眩しい光を放ちながら、公衆電話ボックスはポツンと佇んでいた。
ホームレスから貰った百円玉を片手に、公衆電話ボックスのドアを開ける。破れた新聞紙のかけらが風に押し付けられ、薄汚れた壁の外側にべったり貼りついていた。空木の名刺に書かれていた電話番号を必死に思い出しながらダイアルを回す。
ああ、呼出音。
電話機の隙間に隠れていたゴキブリが小さな顔をのぞかせて、黒々とした触覚を指揮棒のように振り回していた。
「はい。空木です」
出た。井ノ道は、受話器を指でコツコツ叩いてはやる気持を抑えながら、言葉を紡ぎ出す。
「もしもし、探偵の井ノ道です。調査が終了いたしましたので、ご報告させていただきます」
「え、ああ、今ですか」
「ごめんなさい。時間が遅すぎましたか」
「いえ、準備を進めていたので」
一体なんの準備をしていたのだろう。受話器を置いた音がすると、しばらく沈黙が流れ、
「なんでもありません。ぜひお願いします」
と空木は言い放った。
井ノ道は『神道展』の非常口からボートに乗り込み、千葉の海岸に全裸で打ち上げられるまでの出来事を、できるだけ詳細に語った。さも深刻そうな相槌を打つ空木であったが、バーテンダーを丸焦げにした場面や、死体の血でロールシャッハ・テストをした場面の話をすると、「ウウ」と喘ぎながら受話器の向こう側で嘔吐した。
「以上が調査報告になります。後日、調査報告書を作成して、きちんとお渡しするので、ご安心ください」
「まるで、お伽噺のようですね」
「お伽噺の方がマシですよ。あそこで待っていても、白馬に乗って現れるのは、黒のシルクハットを被った奇妙な男なんですから」
「そうですか」
重い溜め息が受話器から漏れ聞えてきた。ゴキブリが艶のある黒い体をテカテカと光らせながら、電話機の横に貼りついていた。
「まず、謝らせてください。私の無茶な依頼のせいで、あなたを危険な目に遭わせてしまった。まさかチケットに所有者の個人情報が記載されているなんて、思っていなかったんです。本当に、申し訳なかった」
「いいんですよ。無傷で本州へ帰ってくることができましたから」
それよりも早く五百万円の行方が知りたかった。
「それでは……」
「三葉の手掛かりについて、なにか見落としている可能性はありませんか?」
調査料の話題へ移ろうとした瞬間、空木がそう切り出してきた。荒い鼻息の音がノイズ交じりに耳をくすぐる。
「そうですねえ、島のことなら、かなり調べられたんですが」
「おかしい。祈禱師の御告げが、外れるはずはないんだ」
「はあ」
「井ノ道さん、今どこにおられますか?」
「私ですか」
「ええ。ぜひ直接お会いして、話を聞いてみたいんです」
急な提案だった。引き下がる様子がなかったので、仕方なく井ノ道は、自身の可哀想な現状について簡潔に説明することにした。
「分かりました。今から私が、車でそちらへ向かいます」
説明を終えると、空木は取り憑かれたように、そう切り出してきた。目ぼしい結果が得られなかったことに対して、よほど焦っているらしかった。
「悪いですよ、こんな夜中に。明日の待ち合わせなら、なんとかそちらへ向かえるかと思うのですが」
「いえ、今夜は私の自宅に泊まってください。それに、ちょっと手伝っていただきたいことがあるんです」
正直、ありがたい話であった。どうせ自宅へ帰っても、小麦粉を水で練り合わせた貧乏飯がニコリともせず待っているだけである。
井ノ道は、空木の提案を了承すると、現在地の目印を幾つか告げ、通話を終えた。
なぜだろう。決して義務や仕事ではない。まるで戦争に巻き込まれた兵士とその恋人が交わす会話のような暖かい気持ちがグルグル胸に渦巻いていた。
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