25
商店街には、古びた車道が伸びていた。深夜なのだろうか。人影はまったく見えない。声の主も、どこかへ消えてしまったようである。
冷たいアスファルトの上を、湿った素足でペチペチと歩く。
これだけ体の節々を働かせても、どこも痛まない。気を失うほどの打撃を喰らったというのに。あまりに不自然じゃないか。どこか、おかしい。
井ノ道は、街灯の真下に立って、全身の肌を青白い光に照らしてみた。しおれたワカメが背中に貼りついているだけで、どこにも傷跡は見当たらない。まさか、島で起きた出来事は、すべて夢だったのだろうか? いや、そんなはずはない。足首は確かに覚えているのだ。死人の手に掴まれたような冷たい感触を。
胸に巣食う害獣を懸命になだめながら、井ノ道は、見知らぬ道を歩き続けた。
どれほど歩き進めただろうか。すっかりイチモツが萎え、足の裏がヒリヒリと痒くなってきた頃、なにやら道の先に、海をまたぐ巨大な橋影が見えてきた。橋の上には、車のヘッドライトが素早く行き交っている。
ああ、人だ。全裸の汚らしい一般男性を車に乗せてくれる人などいないだろうが、少なくとも現在地くらいは、聞き出すことができるかもしれない。
井ノ道は、街灯に群がる蛾のように橋影へ向かった。
どうやら橋は、向こう岸の港へ続いているらしかった。橋の色は薄緑色だった。
橋の下、なにやら橙色の光が、ぼんやり揺れている。
あれは、焚火か。橋の下の狭い空間で、何者かが、火を焚いているのだ。
動物の本能によって、井ノ道の足先が、すいすい焚火の方へ動いてゆく。頬に熱い感触があった。火の粉だ。砂粒ほどの火の粉が夜風に乗って、こちらにまで届けられたらしい。
煤の香りと共に、水色のドラム缶がぽつりと見えてきた。ドラム缶は、パチパチと爆ぜる炎を立派に育て上げている。炎が天高く背を伸ばす。
ドラム缶の手前に、誰かいる。橙色の光が、怪しげな人影を浮かび上がらせた。肩にかかった雪のように白い長髪。寒そうに羽織ったカーキ色の布。首元に巻かれた、こたつのような柄のマフラー。なるほど、橋脚の周辺がホームレスの寝床になっているのだ。雨風を避けることができる上に、人目にもつかないのだろう。
怪しげな人影は、火の明かりにすっぽり包まれながら、御護摩の炎を崇めるかのように両手を伸ばしている。井ノ道は、神聖な雰囲気を崩さないように、そっと橋の下の空間に足を踏み入れた。
「ごめんください」
橋の上からぽつぽつと垂れてくる正体不明の水滴を脳天に浴びながら、井ノ道は言う。
「なんだ、坊や」
炎の飼い主は、長い口ひげをモシャモシャ揺らしながら、井ノ道の姿を認めた。長いあいだ洗われていないであろう顔面は、煤で真っ黒に汚れている。
柱の真横に設置された穴だらけのブルーシートと湿った段ボールで作られた住居が、ドラム缶の炎の熱気にさらされて、アチイと言わんばかりにはためいていた。
「火に当たっても、よいでしょうか」
疲労を溜めこんだようにやつれた両頬が、ピクリと動いた。
「火傷すんじゃねえぞ」
「失礼します」
井ノ道は、おそるおそるドラム缶の炎へ近づいた。
橋の上の空間は想像以上に快適だった。全裸で海岸に立っているというのに、まるで寒さを感じない。服をよく着こんだホームレスは、相当な寒がりなのだろう。
ホームレスがフウと息を吹きかけるたび、ドラム缶の炎が気持ちよさそうに身をよじらせ火の粉をまき散らす。炎の扱い方を完全に心得ている。呼吸の制御によって巧みに炎を操る様は、まるでホームレスと炎が一心同体に繋がっているかのように見えた。
「寒いですね」
ドラム缶の表面が『ウソダロ』と言わんばかりにボコンとへこむ。炎に照らされたホームレスの表情は、すっかり弛緩していた。
「着るか?」
するとホームレスは、自作の住居から麻袋のような服を引っ張り出してきた。
「ありがとうございます」
井ノ道は遠慮なく、麻袋のような服に袖を通す。かなり着古したものらしく、汚らしい地肌が透けて見えるほどに薄かった。よし。これで、強制わいせつ罪に問われずに済む。
「飲むか?」
今度はドラム缶の足元から、ガラス製のカップを拾い上げて見せた。泥のように濁った液体が、チャプチャプと音を鳴らす。カップのそこら中に手垢が付着していた。
「いただきます」
無性に腹を空かせていた井ノ道は、警戒もせずにカップを受け取り、濁った液体を胃に流し込む。ああ、燗酒じゃないか。よく開いた米の香りが疲れ切った心身に染み渡る。なるほど、ドラム缶の炎から適度な距離を保ちながらカップ酒を置いておくことで、最高品質の熱燗を作り上げているのか。
井ノ道は、ホームレスの職人技に感激しながら、カップ酒をぐびと飲み干した。
「疲れているのか」
「ええ」
「可愛がってやっているか?」
「誰を?」
「鬱だよ」
爆ぜる炎の音に負けてしまいそうな、か細い声だった。
ホームレスは、ドラム缶の背後から熱燗のカップを取り出し、カップのふちを唇で覆うようにしてゴクリと飲んだ。
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