24
「約束だ。必ずここを二人で脱出する……」
とつぜん、声にならない声が天から降ってきた。
「二人で手をつないで、青空を見上げよう」
川のせせらぎのような、清らかな声。どこか聞き覚えがある声。私は、声の主を知っている? 声の主と約束を交わした? 見えない火花に、意識をかき乱されてしまう。
六年間の人生の中で、これほど強く痛みを感じたことはなかった。
六個の光点が、蜘蛛の目のように、こちらを見つめていた。
自分は今、蜘蛛に捕食されようとしてるのだ。逃げなくては。懸命にもがき脱出を試みる。ダメだ。強靭な蜘蛛の糸が全身に絡みついて、ビクともしない。
頭だけを動かして、辺りをうかがう。水色の光に包まれた世界。ぼんやりとして、詳細は分からない。ここは、どこだろう。深海か、空の上。あるいは黄泉の国だろうか。
ギラリと輝く銀色の供物皿が、意味ありげに、体の真横で宙に浮いている。
供物皿の上に何かが置かれた。カラフルな肉団子。この世に存在するすべての色を、混ざり合わないように注意しながら、一つの水面に浮かべたような、複雑怪奇な模様を表面に描いている。雪崩の速度で模様が変わる。テレビの砂嵐に無数の色を加えたような、目まぐるしい変化。肉団子のような塊から、ウサギの脳、亀の甲羅に変化し、羊の肝臓に、今度はウシガエルの胃袋になり、ブタの耳へ……。ああ、とても目では追えない狂気的なスピードで、多種多様な生物へと姿形を変えてゆく。苦しんでいる。まるで、生物としての存在意義を探し求めているかのように、苦しんでいる。
このまま見過ごせるはずがない。万物の命。奴の叫びを無駄にしないために、この状況を愉快に吞み込んで、楽しんでやろう。
供物皿の肉塊が残した喘ぎ声を肴に、蜘蛛の糸と六つの目、それから肉を引き裂く刃をシェイクしたカクテルを嗜む。
微妙な温度の変化は、カクテルの味を大きく劣化させてしまう。ゆえにカクテルは、六口以内で飲み終えるのが原則なのだ。
万物の命に乾杯。
六。
五。
四。
視界の色が、蛹の中身のようにごちゃ混ぜになり、新たな景色が生成される。
ここは、荒れ果てた土地を貫く一本道だ。
足元になにかが動いている。白色の兎。しかも、首から上がない。真っ赤に熟れた首の断面が、今にもはち切れんばかりにピクピク動いている。
首のない兎が二本足で立ち上がり、短い腕で道の端を指さした。兎は、何かを伝えようとしているのだ。
もう一度、島へ来い。そう言っているのか。真意を知る前に、兎の首の断面が、粗悪な缶チューハイのようにブクブク泡立ってきた。
三。
二。
「イチ、ゼロ! ロク、ゴ、ヨン……」
井ノ道は、訳の分からない単語を念仏のように唱えながら目を覚ました。寒い。あたりを見回す。
夜空よりも黒々とした海面が、蛇の腹みたく揺れている。地平線の先には、水の入った試験管を七色の光で透かして見たような幻想的な明かりが並んでいた。海老の触覚のような色をした煙突から、白い煙がモクモク夜空に向かって伸びている。
夜の海辺だろうか。とすると前方の景色は、どこかの港。たしか俺は、バカな二人組に襲われて気を失ったのだった。
井ノ道は曖昧な記憶を探りながら、フラつく脚で立ち上がった。
全裸。しかも運の悪いことに、勃起していやがる。
背後を見る。テトラポットが斜面を作り、その奥には商店街のような店が建ち並んでいた。
どうやら俺は、気を失った後、本州へ帰ってきたらしい。ああ、奇跡だ。生きて帰ってくることができたのだ。なぜ?
「パパ、見て。イルカが打ち上げられているよ」
潮風に乗って、子供の興奮した声がうっすら聞えてきた。チクショウ。全裸の汚らしい一般男性が、イルカに見えるとでも言うのか。
マズい。井ノ道は、姿を消すように四つん這いになりながら、ゆっくりとテトラポットの斜面を登った。
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